山内容堂・・・武力倒幕画策の薩長尻目に「大政奉還」実現の演出者

 幕末、薩摩・長州両藩などが武力倒幕を画策する中、討幕を断念させたのが、土佐藩が幕府に建白した「大政奉還」だった。このとき、事実上藩政を掌握していたのが、「安政の大獄」で隠居、謹慎処分を受け、藩主を退いていた前藩主の山内容堂(隠居前は豊信=とよしげ)だった。「大政奉還」は容堂の腹心、後藤象二郎が坂本龍馬の立案した新国家構想「船中八策」をもとにしたもので、天皇のもとで大名らの合議による政権を樹立することがその主旨だった。血を見ずに革命を実現させる、まさに妙案だった。これにより、山内容堂の名が広く知られることになり、土佐藩は後世に名を残し存在感を示したのだ。

 土佐十五代藩主を継いだ豊信は門閥の南家の出で、十二代藩主豊資の弟、豊著(とよあきら)の子だ。この分家南屋敷の家禄は1500石だった。藩主豊信は、吉田東洋を仕置役(参政)に抜擢し藩政改革に努めた。また、この東洋によって後年、土佐藩を背負って立つ有能な人材が発掘された。後藤象二郎(のち参政)・福岡孝弟(たかちか、のち参政)・岩崎弥太郎・乾(板垣)退助・谷干城(たてき)らだ。

 司馬遼太郎氏は山内容堂について、「諸侯きっての剛腹な男で、大酒飲みであり、剣は無外流の達人で、言辞は針を含むように鋭く、しかも言い出したら後に引かない男だ」と記しているように、長州藩主・毛利敬親らの印象とはかなり異なる、アクの強い人物だったようだ。

 一口に西南雄藩といっても、それぞれ藩内は様々な事情を抱えていた。したがって、思想は異なっていたのだ。急進・過激的な諸藩の中でも、とりわけ薩長両藩が典型的な倒幕派であったのに対し、土佐藩は「上士」・「下士」で分かれていた。土佐藩郷士(下士)は倒幕派だったが、土佐藩上士は会津藩・幕府とともに公武合体派だった。この上士を指揮していたのが容堂というわけだ。したがって、土佐藩の幕末の様々な動きは、決して藩主が了解したうえで行われたわけではない。

いや、「上士」と「下士」という動かし難い階級・身分格差が厳然として存在した同藩の場合、藩上層部は上士とつながってはいたが、倒幕派に与した郷士(下士)が中心となって進められた改革の動きは、藩主および藩上層部の全くあずかり知らぬことだった。土佐勤王党の盟主、武市半平太(瑞山)は郷士の出であり、坂本龍馬や中岡慎太郎らは脱藩しているのだから、彼らの動きをコントロールできるはずがなかった。

 幕末の土佐は、この土佐勤王党の出現により、新しい政治の時代を迎えた。武市半平太は1856年(安政3年)、江戸に出て知名の剣客桃井春蔵の道場に入門し、1857年(安政4年)塾頭を務めた。諸国の尊攘志士と交わり、江戸築地の土佐藩別邸で土佐勤王党を結成した。盟約署名の党員は192名、志を通ずる者は数百人を超えた。武市は参政・吉田東洋を説き、土佐藩を薩摩・長州と同じく勤王に固めようとした。しかし、幕府との協調路線を取る東洋は説得に応じない。焦った武市らは遂に東洋暗殺を決意、決行。保守派の門閥家老らと結び、新政権を誕生させた。この政権を武市らは陰で操縦したのだ。

しかし、「八月十八日の政変」(1863年)を機に京都の尊攘派は急激に凋落。これを好機とみた容堂が江戸より土佐に帰国し、藩政を掌握。土佐勤王党の弾圧に乗り出した。東洋暗殺の報復だった。容堂は遂に武市を追い詰め、切腹させる。だが、多数の勤王党員は脱藩、もはや藩上層部の意思で事を収められる段階にはなかった。時代の新しい潮流はもう止めようがなかった。

 容堂は薩摩藩・島津斉彬、越前福井藩・松平春嶽、伊予宇和島藩・伊達宗城らとともに、「幕末の四賢候」と呼ばれた名君とされている。だが、土佐藩の場合、後藤象二郎ら一部藩士を除けば、容堂あるいは藩上層部が主体的に藩を動かしたのではなかった。むしろ、亀山社中・海援隊を組織した坂本龍馬、土佐商会を興した岩崎弥太郎ら脱藩藩士はじめ下士ら、もっぱら彼ら藩上層部が弾圧した者たちが、したたかに、逞しく時代を動かした要素が強い。

(参考資料)中嶋繁雄「大名の日本地図」、司馬遼太郎「酔って候」、司馬遼太郎「最後の将軍」、司馬遼太郎「竜馬がゆく」、司馬遼太郎「慶応長崎事件」、童門冬二「坂本龍馬の人間学」、豊田穣「西郷従道」