三井、住友は江戸時代からの富商だったが、三菱は明治になってから台頭した新興勢力だ。この三菱の創業者が地下(じげ)浪人から身を起こした岩崎弥太郎だ。彼は明治の動乱期、藩吏時代の人脈をフルに活用。経済に明るかったことと、持ち前の度胸のよさで政府高官を強引に説き伏せ、海運業の雄となり、政商として巨利を得た最も有名な人物だ。生没年は1834(天保5)~1885年(明治18年)。
岩崎弥太郎は、土佐国安芸郡井ノ口村一の宮に住む地下浪人、岩崎弥次郎と妻美輪との間に生まれている。つまり、土佐藩で幕末まで動かし難い階級・身分格差が厳然と存在した被差別階級の生まれなのだ。地下浪人とは郷士の株を売った者のうち、40年以上郷士だった人に与えられる称号で、実際は名ばかりで、禄高もゼロ。何らかの職に就ける望みもほとんどなかった。
そのため、岩崎家も極貧を絵に描いたような生活ぶりで、わずかな農地を耕して飢えをしのいでいた。7人家族に手拭いが2本、傘などなくて、冬になると、破れ布団一組を弟弥之助と引っ張り合って眠るという貧乏暮らしだった。
普通ならこの時点で、生涯の出世の幅は限られ、ほぼ決まったも同然のはずだった。ところが、岩崎弥太郎は身分にふさわしくないほどの上方志向を持ち続けていた。それに加え、あるときは粘り強く、あるときは強引に、後藤象二郎をはじめとする藩の主流派上層部の人脈に取り付き、現代ではあり得ないほどの“運”をわがものとしたのだ。そして、驚くことに彼は一代で後の三菱財閥の基礎をつくった。
弥太郎が21歳のとき、こんな悲惨な生活から脱出するチャンスが訪れた。藩士奥宮慥斎(ぞうさい)の従者となって江戸へ行く機会を得た。1855年(安政2年)のことだ。江戸では高名な安積艮斎(あさかごんさい)の門に入った。
ところが、入門間もなく郷里から急報が届いた。父が入獄したという。驚いた弥太郎は師に別れを告げて土佐へ戻ることになった。もう二度と江戸へ出てくるチャンスはないだろう。だから、これで出世の道は閉ざされてしまった。そんな悔しさ、情けなさを振り払うかのように彼は、不眠不休で東海道五十三次を踏破。そして土佐の井ノ口村まで三百余里を17日間で歩いて実家へ戻った。しかし、庄屋に憎まれていた父弥次郎の救出も覚束ない状況で、郡役所に抗議に出かけていった弥太郎まで役人を誹謗したかどで、父の代わりに今度は彼が入牢させられてしまった。
出牢後、弥太郎は高知城の郊外で寺子屋を開いた。その頃、土佐藩の執政だった吉田東洋が一時、役を退き開いていたのが少林塾。その塾に学んでいたのが後藤象二郎で、弥太郎は後藤の論文の代筆をして東洋に近づいた。後日、藩政府に東洋が返り咲いて、弥太郎は西洋事情を調べよと長崎出張を命じられる。ここで彼は、これまでの貧乏暮らしの中で抑圧されていた欲望が頭をもたげ、藩金百両余りを使い込むという大失態をしてしまう。ようやく藩の役人になれるかという好機に、自ら招いた過失で見事に失敗したわけだ。
その後、一時、藩政を握ったかにみえた、武市半平太を盟主とする土佐勤王党が弾圧され、旧吉田東洋派が浮上。弥太郎は藩庁から召し出され、長崎にある「土佐商会」の主任を命じられた。同商会は土佐藩の物産を外国へ売って、必要な汽船や武器を購入するためのいわば交易窓口だった。藩の執政となった後藤象二郎が長崎へやってきて、汽船や大砲を手当たり次第に買っていったため、弥太郎はその尻拭いに走り回って外国商会から多額の借り入れを行っていた。坂本龍馬が脱藩の罪を許され、「海援隊」が土佐藩の外郭機関となると、弥太郎は藩命により隊の経理を担当した。
この頃、歴史の舞台は大きく変わった。徳川幕府が倒れて、明治新政府が誕生した。長崎で知り合った薩摩の五代才助(後の友厚)、肥前の大隈重信、長州の井上馨、伊藤博文、それに土佐の後藤や板垣退助などは江戸改め「東京」に移った新政府の要人となって大活躍していた。ところが、弥太郎はすっかり取り残されて、土佐藩の藩吏となって財政の一翼を担っているに過ぎなかった。
ただ、幸運の女神は弥太郎を見捨ててはいなかった。明治2年、少参事に任じられ、土佐藩の大阪藩邸を取り仕切るまでに出世。すると、大阪にありながら、弥太郎は藩の財政に関わって、物産の販売と金融といった経済面を担当することになったわけで、外国商会からの大金借り入れなどは一手に引き受けていた。その結果、彼は思わぬ昇進を勝ち取ったのだった。
弥太郎は廃藩置県後の1873年(明治6年)、後藤象二郎の肝いりで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱社)」を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となった。
最初に弥太郎が巨利を得るのは維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出したときのことだ。各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを、事前に新政府の高官となっていた後藤象二郎からの情報で知っていた弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を買い占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得た。今でいうインサイダー取引だ。
後藤象二郎が様々な面で、岩崎弥太郎に肩入れし利益供与に近い、土佐藩の資財・資金、そして情報を与えた点について、司馬遼太郎氏は「その理由は維新史の謎に近い」と記している。弥太郎が藩政を預かる後藤に、相当額の裏リベートを支払ったうえでのことだったのか、なぜ、後藤が弥太郎にほとんど誰にでも分かる利益供与をしたのか。それほど不可解なのだ。
こうして彼は持ち前の度胸のよさと、藩吏時代の人脈をフルに活用。多くの政府御用を引き受け、武士上がりで経済に弱い新政府の高官たちを強引に説き伏せ業容を急拡大、現在の三菱グループの礎を築いた。彼の死後、彼の事業と部下たちは、弟弥之助の手によって新三菱社に引き継がれた。
(参考資料)三好徹「政商伝」、津本陽「海商 岩橋万造の生涯」、邦光史郎「剛腕の経営学」、城山三郎「野生のひとびと」、司馬遼太郎「街道をゆく37」