島 左近・・・石田三成が禄高の半分を与えて召し抱えた歴戦の兵法家

 島左近は生涯に主君を、畠山高政を皮切りに筒井順政-筒井順慶-筒井定次-豊臣秀長-豊臣秀保-石田三成と7人変えたと伝えられている。筒井順慶に仕えた頃は侍大将を務めたほど、当代の兵法家として知られていた。「孫子」や「呉子」などの中国古典にも明るかったという。後に羽柴秀長に仕え、その死後は秀長の世嗣・秀保に従い、文禄の役(1592年)にも渡海し、朝鮮においても数々の武功を挙げた。

だが、1595年(文禄4年)、秀保が病死し、左近は出家を覚悟していたところ、石田三成から声がかかり、7人目の主君に仕えることになった。もっとも、戦国武将としてのキャリアにおいて、卓越していた左近を、39歳と年少の三成が召し抱えるのは、この当時の武将気質として、まとまる話ではなかった。恐らく左近にすれば、己の戦歴を上回るぐらいの相手でなければ、いまさら仕える気にもならなかったに違いない。そこで、婉曲に断ろうとした。それを三成は、左近への高い評価を俸禄で示して覆す。三成は1586年(天正14年)、左近を、三成の当時の禄高4万石の半分、2万石の知行を与えて召し抱えたといわれる。まさに破格の待遇だ。

ただ、左近の三成への仕官の時期の違いで、召し抱えたときの三成の知行にはいくつかの説がある。そのとき三成は北近江に19万4000石を与えられて佐和山城主になっていたとか、「多聞院日記」には近江に30万石の知行を得ていたとも記されている。

 島左近の生涯はいまなお謎に包まれている部分が多い。例えば、彼の諱が清興(きよおき)、勝猛(かつたけ)、昌仲、友之、清胤(きよたね)といくつも伝えられているほか、生没年も判然としない。伝えられているのは1540(天文9年)~1600年(慶長5年)。

 豊臣秀吉の死後、雌伏していた徳川家康は遂に天下取りに向けて動き出した。豊臣政権の存続を願う三成は、知力の限りを尽くして家康に決戦を挑んだ。1600年に勃発した「関ケ原の戦い」だ。三成を事実上の総大将とする西軍の総勢8万4000と、家康を総大将とする東軍の総勢7万5000が激突したはずだった。だが周知の通り、総勢1万5000を揃えた総大将格の毛利本体が動かず、一進一退が続く中、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返り、勝敗は決した。

 三成の「補佐役」、島左近の勇猛果敢な奮戦ぶりは後々までの語り草とされた。西軍の事実上の主将・三成に東軍の諸将が集中攻撃を仕掛けてくるのは明らかだった。開戦から1時間後、馬上の島左近は手勢100人で、右手に槍、左手に麾(き=指図旗)を握って、柵の口から打って出た。銃撃戦が始まり、先鋒の兵の小競り合いがあって後、東軍側では黒田隊が左近の率いる100人の前に出た。これに加藤嘉明、田中吉政、細川忠興らの軍勢が続く。左近はこれを巧みに押し返し、押し込め、タイミングを計っては、実に巧妙にいなすのだ。黒田隊はまるで左近の魔術にでもかかったように翻弄されて、挙句の果ては死地へはめられてしまった。

このとき黒田隊の菅六之助という者が、別働の鉄砲隊を率いて、左近らを捉える射程内の小丘に登っていなければ、黒田隊は全滅の恐れすらあった。横合いからの、鉄砲隊の攻撃で石田隊は次々と倒れていった。馬上の左近も狙い撃たれて馬から落ちた。ひどい出血だった。左近は将士の肩に担がれて、手勢を撤収し柵内へ退いた。陣所内で左近は止血の手当てを受けたが、かなりの重傷。本来なら動くこともままならなかったが、東軍の攻撃が激しさを加え、休息の時間を与えてくれなかった。

 石田隊の強さは群を抜いていた。だが、頼みの西軍諸将は、宇喜多秀家の軍勢や小西行長、大谷吉継らの隊を除いて、ほとんどが動かない。所詮は多勢に無勢だった。怒涛の如く押し寄せる東軍を、西軍の実戦諸隊は遂に支えきれず、左近も津波に呑み込まれたように、ここで姿を消した。その後、左近はどうなったのか。銃撃によって戦死したと書き留めている史料から、太田牛一の「関ケ原軍記」のように行方不明とするもの、「古今武家盛衰記」のように西国へ落ちのびたと記しているものまであり、確かなことは分からない。

(参考資料)百瀬明治「『軍師』の研究」、佐竹申伍「島左近」、加来耕三「日本補佐役列伝」