川路聖謨・・・幕府と武士道に殉じた幕末を代表する外交官の一人

 1853年(嘉永6年)、開国・通商を求めてロシアのプチャーチンが長崎にやってきた際、ロシア使節と事実上、交渉を行ったのが、勘定奉行・露使応接掛を命ぜられた川路聖謨(かわじとしあきら)だ。川路の任務は重かった。領土問題から開国問題まで一身に背負っていた。単なる随行員の一人ではないのだ。川路は北方領土に対する主張を堂々と述べて、一歩も退かぬ気概を示し、プチャーチンと渡り合った。また、開港に関してもその時期を数年後というあいまいなまま最後まで譲らず、優柔不断な幕閣・老中たちの時期引き延ばしの考えに沿って、ロシア側の開国要求を退けた。これだけ、幕府に貢献した川路だったが、将軍継嗣問題で大老井伊直弼に嫌われて、幕府の要職から追放され隠居差控となるなど不遇だった。

 川路聖謨は幕末を代表する外交官の一人だ。幕末、海外の列強が開国・通商を求めて日本へやってきた。それだけに、外交官の力量次第でその結果は大きく異なってくるのだ。現実に川路がロシア側の要求を退け、江戸への帰路、幕府がアメリカのペリーの開国要求に屈したことを彼は聞いている。同じ幕命を帯びて交渉に臨んでも、交渉役の力量次第で不首尾に終わることがあることを幕閣は痛感したことだろう。アメリカ・ペリーとの交渉が如実に物語っている。

 では、川路聖謨のどのような点が優れていたのだろうか。ロシアのプチャーチンとの交渉の様子をゴンチャロフが描いている。それによると、川路は非常に聡明だった。彼は私たち(ロシア)に反駁する巧妙な論法をもって、その知力を示すのだが、(私たちには受け容れがたい。)それでもその人を尊敬しないわけにはいかなかった。彼の発する一語一語が、眼差しの一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識とウィットと練達を示していた。民族、服装、言語、宗教が違い、人生観までも違っていても、聡明な人々の間には共通の特徴がある-と記している。川路は交渉相手にこれだけの評価を得ていた人物だったのだ。

 川路聖謨は江戸末期の旗本。豊後国(現在の大分県)日田で、日田代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男として生まれた。官位は従五位下左衛門少尉。号は敬斎、幼名は弥吉。1812年(文化9年)、12歳で小普請組の川路三左衛門の養子となった。翌年元服して萬福(かずとみ)と名乗り、小普請組に入る。その後、勘定奉行所支配勘定出役という下級幕吏からスタートし、支配勘定を経て御勘定に昇進、旗本となった。その後、寺社奉行吟味調役として寺社奉行所に出向。このとき仙石騒動を裁断しており、この一件によって勘定吟味役に昇格。その後、佐渡奉行を経て、幕府老中、水野忠邦時代の小普請奉行・普請奉行として御改革に参与した。このころ、名を萬福から聖謨に改めた。

 川路は江川英龍や渡辺崋山らとともに尚歯会に参加し、当時の海外事情や西洋の技術などにもある程度通じていた。水野忠邦が天保の改革で挫折して失脚した後、奈良奉行に左遷された。奈良奉行時代には行方不明となっていた神武天皇陵の捜索を行い、「神武御陵考」を著して朝廷に報告している。後に孝明天皇がこれを元に神武天皇陵の所在地を確定させたといわれる。

 1854年(安政元年)、下田で日露和親条約に調印。1858年(安政5年)には堀田正睦に同行して日米修好通商条約を調印。井伊直弼が大老に就任すると、西丸留守居役に左遷され、さらに翌年その役も罷免されて隠居差控を命じられた。1863年(文久3年)、勘定奉行格外国奉行に復帰するも、外国奉行とは名ばかりで一橋慶喜関係の御用聞きのような役回りに不満を募らせ、病気を理由にわずか4カ月で役を辞した。

 引退後は中風による半身不随や弟、井上清直の死など不幸が続いた。1868年(慶応4年)、勝海舟と新政府軍の西郷隆盛の会談で江戸城開城が決定した報を聞き、自決を決意した。その日、川路は妻を用事に出した後、浅く腹を斬り、拳銃で喉を撃ち抜いて果てた。拳銃を用いたのは半身不随のために刀ではうまく死ねないと判断したからではないかといわれる。

 川路は要職を歴任したが、別に閣老に列したわけではなく、生涯柔軟諧謔(かいぎゃく)の性格を失わなかったのに、見事に幕府と武士道に殉じた。徳川武士の最後の“花”ともいうべき凄絶な死に方だった。

(参考資料)奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、吉村昭「落日の宴 勘定奉行 川路聖謨」