歌川国芳・・・“武者絵の国芳”と称され人気を博した反骨の浮世絵師

 葛飾北斎、歌川(安藤)広重らの人気絵師が活躍した江戸時代末期。実は同時代に活動したのがここに取り上げる歌川国芳だ。しかし、国芳は彼ら人気絵師に比べ、日本における知名度や評価は必ずしも高いとはいえなかった。ただ、“武者絵の国芳”と称された彼の作品が一世を風靡したことは間違いない。ことに幕府政治を風刺した数々の作品を発表。その反骨精神は旺盛で、老境に入ってからも新シリーズへの意欲をのぞかせた。とはいえ、彼がこうした作品を残した、江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人として、あるいは「幕末の奇想の絵師」として注目され再評価されるようになったのは、20世紀後半になってからのことだ。

 2008年、富山県の農家の蔵から国芳を中心とした歌川派の版木が368枚発見され、これを購入した国立歴史民俗博物館により2009年に公開された。これにより国芳作品の創作過程の解明および浮世絵本来の「色」の復元が始まっている。

 歌川国芳は江戸日本橋の染物屋の息子として生まれた。本名は井草芳三郎。風景版画で有名な歌川広重とは同年の生まれで、同時代に活動した。国芳の生没年は1798(寛政9)~1861年(文久元年)。

 国芳は1811年(文化8年)、15歳で初代歌川豊国に入門した。豊国は華麗な役者絵で人気を博した花形絵師で、弟子に歌川国貞がいる。国芳は入門して3年後、1814年(文化11年)ごろから作品を発表。すでに歌川派を代表していた兄弟子、国直の支えもあって腕を磨いた。国芳が広く世に知られるのは師・豊国没後の1827年(文政10年)ごろに発表した『水滸伝』のシリーズで、これが評判となった。これを機に“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りをした。

 ところが、国芳が45歳のとき運命は一変する。老中水野忠邦による「天保に改革」が断行されたからだ。質素倹約、風紀粛清の号令の下、浮世絵も役者絵や美人画が禁止とされるなど大打撃を被ることになった。幕府の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子、国芳は浮世絵で精一杯の皮肉をぶっつけた。1843年(天保14年)に発表した『源頼光公館土蜘作妖怪図』だ。表向きは平安時代の武将、源頼光による土蜘蛛退治を描いたものだが、本当は土蜘蛛を退治するどころか、妖術に苦しめられているのは頼光と見せかけて、実は十二代将軍家慶だ。国家危急のときに、惰眠をむさぼっているとの痛烈な批判が込められていた。このほか、絵の至るところに隠されている悪政に対する風刺があったのだ。江戸の人々は、国芳がこの作品に込めた謎を解いては、溜飲を下げて大喜びした。

 しかし、幕府はそんな国芳を要注意人物と徹底的にマークした。国芳は何度も奉行所に呼び出され尋問を受け、時には罰金を取られたり、始末書を書かされたりした。それでも国芳は懲りず、禁令の網をかいくぐり、幕府を風刺する作品を描き続け、江戸の人々に大喝采を受けた。国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。ユーモアとウィットに富み、粋でいなせ、そして豪快で頑固な国芳に江戸中が夢中になった。

 やがて老中水野忠邦が失脚。国芳は待ってましたとばかりに、江戸の人々の度肝を抜く武者絵を世に送り出していった。1848年(嘉永元年)~1854年(安政元年)にかけて国芳が描いた『宮本武蔵と巨鯨』は、浮世絵3枚分に描かれた、まるで大スペクタクル絵画。武蔵の強さを表現するのに、相手が人間では物足りない。ケタ違いの鯨と戦わせることで、ヒーロー武蔵の強さを伝えたのだ。またもや会心の作だった。

 武者絵で大成功を収める一方で、国芳は西洋の銅版画を集め、遠近法や陰影の付け方の研究にも積極的に励んだ。そして、これらの技法を採り入れた新シリーズの製作に取り掛かった。国芳56歳のときのことだ。このシリーズは47人の志士が揃う忠臣蔵。ただ、新しい西洋画の技法で忠臣蔵を描くには制約が多すぎた。公儀に逆らった赤穂浪士を称えることはご法度だ。そのため、舞台で演じられる役柄として、写実的に描くしかなかった。しかし、それでは彼の派手な浮世絵を見慣れている当時の人々にとっては、全く異質のものであって、受け入れられず、すぐに新シリーズは打ち切りとなった。彼の新しい挑戦は失敗に終わったのだ。
 国芳が赤穂浪士を描いた翌年、1853年(嘉永6年)、浦賀沖にペリーの黒船が来航した。まさに「泰平の眠りを覚ます蒸気船…」だった。ひとつの時代が終わり、新しい時代の幕開けをイメージさせるできごとだった。こうした時代の流れに合わせるかのように、国芳の時代は終焉を迎えたのだった。

(参考資料)吉田漱「浮世絵の基礎知識」、藤懸静也「増訂 浮世絵」、藤懸静也「文化文政美人風俗浮世絵集」