江戸時代の成功者、成金の代表者の一人として挙げられるのが、この紀文こと紀伊國屋文左衛門だ。しかし、紀文の実像、いやもっといえばその実在性を示す文献資料さえ見つかっておらず、謎に包まれている。
講談や浪花節によると、暴風雨で荒天続きの熊野灘を乗り切って、紀州みかんを江戸へ運んで巨富を築いたということになっているが、この話も実は実証できていない。ただ太平洋戦争前に、紀州有田出身のある実業家が伊勢のある神社に奉納されていた、文左衛門のものと推定できるみかん船のひな型を発見した。有田みかんの歴史は古く室町時代に、みかんを九州から導入し栽培増殖したのが始まりという。江戸時代に入り、紀州徳川家がみかん産業を保護奨励した。1634年(寛永11年)からみかんの江戸出荷が始まり、まもなくわが国の出荷組合第一号ともいうべき蜜柑方(みかんがた)が作られた。文左衛門のみかん船の話が事実だとすると、貞享年間、彼が20歳前後で、この冒険物語は実現可能だ。
また、文左衛門は振袖火事の時、木曾の木材をわずかな手付け金で買い占めてボロ儲けしたとも伝えられる。ところが、明暦の振袖火事の際、木曾の木材を買い占めて巨利を博したのは河村瑞賢だ。紀文ではない。こうなると、果たして紀文は実在したのか、疑わしくなる。
ただ、周辺にはモデルになったのではないかと思われる人物はいる。一般に流布されている紀文物語によると、紀文は幼名を文平といい、有田郡湯浅で生まれたという。その湯浅町栖原(すはら)の出身で、栖原角兵衛(かくべい)、略して“栖角”という大成功者がいるのだ。栖角は房総から奥州へ手を伸ばして漁場を開き、後に江戸へ進出して鉄砲洲に薪炭問屋の店を持った。さらに深川で材木問屋を始めるなど多角経営で事業を広げている。
紀文が活躍した貞享から元禄期は、生活ばかり派手になって手元に金のない、いわば欲望過多の時代だった。そんな時代背景が、「いてもおかしくない」という思いも加わって、講談や浪花節の世界にしろ、瑞賢と栖角を足した架空の人物を生み出したのではないだろうか。
紀文のモデルに加えられた人物がまだいる。奈良屋茂左衛門だ。紀文とともに遊郭、吉原で贅を尽くしたという挿話を記した「吉原雑記」に名を残している豪商だ。江戸の当時の家屋は、竹と土と紙とでできているので燃えやすく、ちょっと風が強いとすぐ火事が起こった。大火事があると当然材木屋が儲かる。だから、江戸初期の富商は木材問屋が大部分を占めていた。ただ、木材は投機性の強い商品で、いったん的中すると儲けは莫大なものになったが、狙いが外れると厖大なストックを抱えて四苦八苦しなくてはならない。そんな浮き沈みの多い木材問屋の中でも、儲け頭は奈良茂こと奈良屋茂左衛門だった。
奈良茂は日光修復の工事入札で、普通の業者の半分にも満たない安値を入れて落札した。しかし、本来そんな値で木材を揃えることなどできるはずがない。ところが、ここに奈良茂のしたたかな計略があったのだ。まず奈良茂は江戸一の木曽ヒノキの問屋柏木屋へ行き、木材を売ってくれといった。だが、むろん柏木屋は頭から断った。すると、奈良茂は恐れながらと訴え出て、柏木屋に木材を売るように命じてほしいと願った。そこで、役人が柏木屋へ行き、木材はないのかと問うと、船が入らないのでと、通り一遍の口実を使った。ところが、それこそが奈良茂の思う壺だった。同業の事情に明るい奈良茂は、いえそんなはずはありません、柏木屋の木材の隠し場所へご案内しましょう-といって、貯木場へ案内した。最初、体よくあしらわれた役人はカンカンに怒って、柏木屋の隠し場所にあった木曽ヒノキを片っ端から焼印を捺して奈良茂に下げ渡した。そして柏木屋の当主と番頭は、三宅島へ送られてしまった。奈良茂はライバルを没落させたばかりか、日光修復の工事用木材をタダ同然で手に入れ、しかもなお2万両分の余剰木材が残ったという。半ば伝説の主人公、紀文にふさわしい逸話だ。
実際は、紀文はもっと地味な商売人で、こうしたモデルになったともみられる豪商ほど詳細は分からない。だが、材木商としての地歩を固めた紀文が、当時の幕府の“大物”、勘定奉行の荻原重秀を抱き込み、幕府の土木事業の指名を受けたことは確かなようだ。中でも幕府が行った上野寛永寺の中堂建設の材木を一手に引き受けて、50万両の儲けをはじき出したという。彼が紀文大尽として、吉原の大門を締め切って、傾城(けいせい)を買い切りにしたなど、“勇名”を馳せるのはこれからのことだ。
(参考資料)津本陽「黄金の海へ」、邦光史郎「豪商物語」、南原幹雄「吉原大尽舞」、中田易直・南條範夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」