織田信長・・・情報収集力・活用力に長けた、徹底した合理主義者

 織田信長は戦国時代、群雄が割拠する中で、いち早く“天下布武”のスローガンを掲げて天下統一を目指した武将だ。そして、安土に壮大な居城を築き上げ、天下取りを目前にしたとき、彼は天皇より上位に立とうとし、遂には「余が神である」といい、神に成ろうとした戦国時代では稀有な人物だ。日本人離れした、近代精神を兼ね備えた思考と行動で、まさに時代を駆け抜けた英雄・信長。そうした思考と行動はどこから生まれたのか?

 結論を先に言えば、信長は情報収集力・活用力に長けた、神仏も来世も信じない徹底的な合理主義者だった。このことが彼を天下人に押し上げた最大の要因だ。情報は、常日頃からスピードと正確さを備えた伝達回路を持っていなければ、いざというとき役に立たない。そのため、信長は同時代を生きた諸国の大名や武将とは、かなり異なった動き方をする。

例えば敵地を偵察させる場合、個人に物見に行かせるのではなく、麾下の武将に一軍を率いて敵地に強行侵入させ、状況を直接、肉眼で観察させるのだ。これだと敵陣深く潜行するため、キャッチする情報が正確だ。当然情報量も多い。とりわけ信長は迅速を尊んだ。織田家の武将たちは、こうした信長の情報戦略の中で鍛えられていた。

 その結果、織田軍団は上から下まで、情報の重要性を十分に認識することができ、トップへの情報伝達は全くといっていいほど疎漏がなかった。ちょっと信じ難いことだが、時には信長にとって聞きたくないようなことまでも、織田家ではいち早く伝える家風ができ上がっていたという。織田家の中核を担う情報・伝達将校の“母衣衆”は、そのための専門職でもあり、その選定にあたっては、私的な利害得失に拘泥しない、諫言・論争も辞さない人材が登用されている。後に加賀百万石を領した前田利家は、二つあった母衣の一方、赤母衣衆の筆頭を務めた人物だった。

 信長が、あの有名な桶狭間の合戦に勝利し得たのも、奇跡でもなければ、幸運が重なっただけのものでもない。敵将・今川義元が何処にいるかを、いち早く、的確にキャッチし得た、常日頃の情報管理があったからこそ成し得たのだ。

また、信長の生涯における最大の危機ともいえた金ヶ森の退却戦=第一次朝倉征討において、義弟・浅井長政の裏切りに遭い、九死に一生を得たのも、凶報の情報伝達の早さ、正確さと、それに機敏に反応した信長であればこそ、無事生還できたのだ。これらの要素の一つでも欠けていたら、朝倉・浅井連合軍の挟み撃ちに遭い、織田軍団は少なくとも壊滅的な打撃を受けていただろう。

 もっといえば、武田信玄や上杉謙信の死を他に先んじて確信できたのも、信長なればこその情報収集力・活用力だった。当時の戦国大名の多くは、格上の信玄や謙信の動向を恐れ、見えない影に怯えていた。

 信長は宗教が幅を利かせる「中世」の徹底的否定者だった。彼が青年期、父・信秀の葬儀に異様な風体をして現れ、仏前に抹香を投げつけたのも、後年、天下統一の邪魔をする宗教的権威・比叡山を焼き討ちにし、一向一揆で多くの門徒を殺したのも、近代という時代が中世的、宗教的権威の完全な否定の上にしか、築かれないことを示そうとしたのではないか。

(参考資料)今谷明「信長と天皇」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史」、加来耕三「日本創始者列伝」、海音寺潮五郎「武将列伝」、梅原猛「百人一語」、津本陽「創神 織田信長」、安部龍太郎「血の日本史」、司馬遼太郎「覇王の家」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、童門冬二「織田信長の人間学」