荻原重秀・・・慶長金銀の改鋳で悪評生むが、経済通で日本初の財務官僚

 荻原重秀は出自こそ卑しかったが、大変な経済通で、恐らく日本で最初の政策官僚と呼ぶにふさわしい人物だった。とくに五代将軍徳川綱吉の後期に行われた通貨改革では、彼の発議と責任で「慶長金銀」の改鋳が行われ、後に悪評を生む原因となった半面、その高い見識と才能が遺憾なく発揮された。

 荻原重秀は荻原十助種重の二男で、父ももちろん勘定所の下役だった。重秀は1674年(延宝2年)、勘定所に出仕するようになり、150俵の給米をもらっている。1677年(延宝5年)、幕府は畿内一円の大検地を行うが、重秀はこの検地に派遣されて参加。また、1681年(天和元年)失政を問われて改易された、沼田城主真田信利の領地請取役として現地に出張している。こうした実績を積み重ねる中で、勘定方に荻原重秀ありという声は早くから高かったようだ。

 1695年(元禄8年)、幕府はそれまで通用していた「慶長金銀」を改鋳し、それに比べて金で約33%、銀で約20%品位の劣る「元禄金銀」を発行した。これは、荻原重秀の発議と責任で行われたものだが、この改鋳が後に重秀の悪評の原因となっている。というのも、この改鋳は重秀が銀座商人たちから賄賂をもらって行ったもので、幕府自身は出目(改鋳差益金)を稼いで、一時的に財政難をしのぐことができたが、庶民はそのために引き起こされた物価高に苦しんだ-といわれるからだ。実際のところはどうだったのか。

 本論に入る前に、理解を深めるために江戸時代の通貨制度を簡単にみておこう。江戸時代の基本通貨は金・銀・銭の三つだ。金は貴金属の金を主成分とした鋳造貨幣で、両・分・朱による四進法で計算されていた。銀は秤量(ひょうりょう)貨幣で、幕府の認可を得て銀座でつくった銀の塊を、秤で計ってそれを貨幣として使っていた。したがって、重さの単位の貫・匁が、貨幣としての銀の呼称単位に使われていた。銭は普通「寛永通宝」という名で知られている鋳造貨幣で、銅を主成分としており(鉄の場合もある)、貫文(かんもん)単位で計算されていた。

 金・銀・銭の三貨のうち金は主として関東を中心として東国圏で使われ、銀は京・大坂など上方を中心とした西国・裏日本で使われていた。銭は庶民が日常の買い物などに使う小額貨幣だった。この金・銀・銭はそれぞれ独立した通貨で、同一体系に組み込まれた通貨ではなかったため、これら三者の交換を円滑にするため毎日相場が立ち、その比率は絶えず変動していた。幕府は1609年(慶長14年)に金1両=銀50匁=銭4貫文という公定相場を決め、三貨がそのような相場で通用することが望ましいとしている。ただ、この公定相場は荻原重秀によって1700年(元禄13年)に金1両=銀60匁と改訂されている。

 江戸時代の通貨は、金は金座、銀は銀座、銭は銭座の特定の商人たちにその発行を請け負わせるのだ。彼ら鋳造請負人は分一(ぶいち)といって、鋳造高の何分の一といったように、一定の比率で手数料を取り、それが彼らの主たる収入になっていた。したがって、鋳造量が鋳造請負人ら商人の収入の多寡に直結していたことは確かだ。

 さて元禄の改鋳は、物価騰貴を引き起こして、果たして庶民の生活に大きな影響を与えたのだろうか。結論からいえば農民、職人、商人の生活より、厳しい影響を受けた階層があった。武士だ。武士は収入が固定していて増えないうえに、幕府の定めた規定に従って、その家禄に応じた数の家来を私費で養い、また下男・下女を一定数抱えて、家格相応の生活を保っておく義務があった。彼らの労賃が上昇しても、武家には商人・職人のようにそれを他に転嫁するところがなかったため、その被害をもろに受けたのだ。

 いずれにしても元禄の改鋳を終えた荻原重秀は、その功績もあって1696年、勘定奉行に栄進、2000石に加増され従五位下近江守に叙せられた。わずか150俵の給米取りの勘定方の下僚から出発した者としては破格の出世だった。

しかし、将軍綱吉が死亡、六代将軍家宣の代になると、事情が少し変わってくる。家宣は重秀の才能を認めていたが、執拗な重秀罷免運動に動く人物が出てきた。新井白石だ。重秀が行った銀の一方的な品位の切り下げは、上方に本拠を置く日本の巨大資本には我慢ならないことだった。そして、恐らくその意向(利害)を代弁したのが新井白石だったと思われる。1712年(正徳2年)、遂に重秀はその座を追われ、翌年死亡している。獄中で自殺したとも、殺されたとも、諸説あって定かではない。

(参考資料)堺屋太一「峠から日本が見える」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」