西行・・・ 「願はくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」

 この歌は西行が62~63歳のころ詠んだものといわれるが、後世、その辞世の歌と喧伝されるようになった。きさらぎ(陰暦2月)の望月(満月)のころ-釈迦の命日-に満開の桜の下で死にたい-の意。建久元年(1190)2月16日、南河内の弘川寺において、享年73歳で西行はその数奇に富んだ生涯を閉じているから、冒頭の歌の通り、10年後ほぼ望みどおりの死を迎えたといえる。

 西行は俗名を佐藤義清といい、元永元年(1118)、武門の伝統を誇る検非違使・佐藤康清の嫡男として生まれた。同年、平家の総帥となる平清盛も生まれている。義清の佐藤氏は平将門の乱を平定した“俵藤太”こと、藤原秀郷の流れで、義清の祖父・佐藤季清も、出雲国に狼藉を働いた源義親(義家の子)の処刑に立ち合うなど、その名を知られた人物だった。父・康清も検非違使の宣旨を受け、白河院(第七十二代天皇)の「北面の武士」にも召されている。

 この「北面」は白河院の時に設置された制度で、御所の北面に詰める警備の者。下級官人の子弟から厳選され、弓・馬術に優れているのはもとよりのこと、容姿端麗で詩文・和歌・管弦・歌舞の心得も必須であり、官位は五、六位と低かったものの、宮廷の花形として注目を集める役職だった。義清も北面の武士にやがて選抜されるが、任官まで苦労し時間がかかった。父が若くして急逝したため、父の功績によっての任官が叶わず、当時盛んに行われていた財物によって官職を買い取る道-「年給」、「成功(じょうごう)」-によらねばならなかったからだ。18歳の時一族、必死の「成功」に応募、やっとの思いで「兵衛尉」へ任官した。これだけ苦労した末の任官だったが、保延6年(1140)、名を「西行」と改め23歳の若さで出家してしまう。

 西行の実家は紀伊国に「田仲庄」という荘園を持っていた。家庭は裕福である一方、西行の母は「監物源清経の女(むすめ)」(尊卑分脈)とあり、この清経は今様の達人として世に聞こえた粋人だった。西行はこの祖父にも薫陶を受けていた。その結果、西行は蹴鞠では世に聞こえた使い手だった。また騎馬・弓術の精華といわれる「流鏑馬」にも熟達。文武を極めた彼の前途は洋々たるものがあったはずだが、突然、世の栄達を捨て出家した真相は明らかではない。

 西行はまず洛外の嵯峨に草庵を結んだが、仏法修業と和歌に励みながら陸奥、四国、中国、九州と諸国へ漂泊の旅を繰り返した。彼は平清盛の全盛期、その主催の法会にも参加し、平家一門とも親しく付き合っている。治承4年(1180)伊勢に居を移し、平家滅亡後、平重衡が焼いた東大寺復興の勧進にも携わり、奥州・平泉に藤原秀衡を訪ねる途中、鎌倉で源頼朝と語り明かしている。

 西行の遺した秀歌は数多いが、伊勢参宮の際の歌を取り上げておこう。
 なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる
この歌は日本人の自然観、宗教観を歌った名歌だ。五十鈴川の清冽な流れを見て、聳え立つ杉並木の参道を歩む時に、恐らく万人が感じるであろう敬虔な気持ちがそのまま表れている。

(参考資料)辻邦生「西行花伝」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、加来耕三「日本創始者列伝」