重源・・・源平の争乱で焼失した東大寺を15年かけて復興した高僧

 俊乗房重源(しゅんじょうぼう・ちょうげん)上人は、当時61歳の高齢で東大寺大勧進職に就き、幾多の困難を克服して、源平の争乱で焼失した東大寺を復興した高僧だ。重源の生没年は1121(保安2)~1206年(建永元年)。

 重源は紀氏の出身で、紀季重(すえしげ)の子。17歳で刑部左衛門尉に任ぜられて、重定と名乗った。出家の動機は定かではない。真言宗の醍醐寺に入り、出家する。のち浄土宗の開祖、法然に学んだ。四国、熊野など各地で修行、中国(南宋)を3度訪れたという。

 1181年(養和元年)、重源は前年「南都焼き討ち」によって焼け落ちた東大寺の被害状況を視察にきた後白河法皇の使者、藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。重源、61歳のときのことだ。この後、86歳で没するまで15年間、晩年の熱情のほとんどを大仏再建に燃やし切ったのだ。

 東大寺の再建には財政的、技術的に多大な困難があった。周防国の税収を再建費用に充てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自らも京の後白河法皇や九条兼実、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼し、成功している。

 重源は自らも再建作業に深く関わった。彼は建築技術を習得したといわれ、中国の技術者、陳和卿(ちんなけい)の協力を得て、職人を指導した。自ら巨木を求めて山に入り、奈良まで移送する方法も工夫したという。また、伊賀、紀伊、周防、備中、播磨、摂津に別所を築き、信仰と造営事業の拠点とした。

 課題も少なくなかった。最大の課題は、大仏殿の次にどの施設を再興するかという点だ。塔頭を再建したい重源と、僧たちの住まい、僧房すら失っていた大衆たちとの間に意見対立があり、重源はその調整に苦慮している。また、重源は東大寺再建に際し、西行に奥州への砂金勧進を依頼している。

 こうした幾多の困難を克服して重源と、彼が組織した人々の働きによって、東大寺は見事に再建された。1185年(文治元年)、大仏の開眼供養が行われ、1195年(建久6年)には大仏殿を再建し、1203年(建仁3年)に総供養が行われている。これらの功績から、重源は大和尚の称号を贈られている。

 重源が再建した大仏殿は戦国時代の1567年(永禄10年)、三好三人衆との戦闘で、松永久秀によって再び焼き払われてしまった。現代の東大寺には重源時代の遺構として南大門、開山堂、法華堂礼堂(法華堂の前部分)が残っている。

 重源の死後は臨済宗の開祖、栄西が東大寺勧進職を継いだ。東大寺には重源を祀った俊乗堂があり、「重源上人坐像」(国宝)が祀られている。鎌倉時代の彫刻に顕著なリアリズムの傑作として名高い。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」