長井雅楽・・・幕末、一時は国論をリードするが挫折、不当に低い評価

 長井雅楽(ながいうた)は、幕末の長州藩にあって一時期、直目付(じきめつけ)の要職を務めるとともに、「航海遠略策」を建白して朝廷や幕府にも歓迎され、国論を開国に導こうとしたほどの傑物だ。ところが、当時、予想以上に激しさを増していた尊皇攘夷派と対立。その後、幕府の公武合体派老中らの失脚で、追い詰められ孤立。そして、時代の流れは彼に全く味方せず、悲しいことに最終的に長州藩の奸臣として切腹を命じられ、散った。享年45だった。

 司馬遼太郎氏は、「幕末の長州藩は多彩な人物を出したが、その中で長井雅楽を超えるほどの人物は容易に見あたらない。それほどの人物が時代の狂気に圧殺されたというか、実に困った死を遂げる」と記している。そして、長井について「非常な秀才で堂々たる美丈夫でもあり、人物も重厚で、しかも見識の高さは及ぶものがない」と絶賛している。そのため、藩では彼を抜擢し周布政之助という秀才官僚とともに、藩の対外政策面での推進者にした。長井は長州のホープのように期待され、桂小五郎(後の木戸孝允)なども水戸藩の志士に「わが藩は長井・周布という優れた両翼を持っている」と自慢したほどだった。

 長井雅楽は萩藩士大組士中老、長井次郎右衛門の長男として生まれた。諱は時庸、通称は雅楽のほか、与之助、与左衛門など。長井の始祖は、鎌倉幕府を支えた大江広元の次男で、主家の毛利家はその四男だったという。つまり、長井家の始祖は、主家と同格だというわけだ。したがって、長井家は毛利家臣団の中でも名門中の名門で、長井自身、藩主の信頼厚い重臣だった。長井の生没年は1819(文政2)~1863年(文久3年)。

 長井は1822年(文政5年)、4歳のとき、父が病死したため家督を継いだが、このとき彼が幼少のためということで、家禄を半分に減らされた。その後、藩校の明倫館で学び、時の藩主、毛利敬親の小姓、奥番頭となった。その後、敬親から厚い信任を受け、敬親の世子、毛利定広の後見人にもなった。そして、1858年(安政5年)、長州藩の直目付の要職に抜擢された。

 国内で外交をめぐる政争が熾烈となった1861年(文久元年)、長井は公武一和に基づく「航海遠略策」を藩主に建白し、これが藩論とされた。その後、朝廷や幕府にこれを入説して歓迎され、藩主毛利敬親とともに江戸へ入り、老中久世広周、安藤信正と会見。正式にこの「航海遠略策」を建白して、公武の周旋を依頼されたのだ。

 長井の「航海遠略策」は、端的に表現すれば、通商を行って国力を増し、やがては諸外国を圧倒すべし-というのが論旨。当時、吉田松陰が唱えていた「大攘夷」に通じるものがあった。松陰も攘夷論者でありながら、攘夷をするためには外国を知らねばならないとして密航を企てたが、その思想からの行動だ。だが、両者はその実行論において対極にあった。長井は松陰の行動主義を批判し、松陰も長井を姑息な策を弄する奸臣と見做し憎悪した。

 幕府からこの「航海遠略策」で公武の周旋を依頼されるほどの立場にあった長井だが、実は困った状況にあった。それは、長州藩内の尊皇攘夷派とは対立関係にあり、藩政運営は容易ではなかったからだ。とくに井伊直弼が断行した「安政の大獄」のとき、吉田松陰の江戸護送を直目付の長井が、制止も弁明もしようとしなかったことから、職務上のこととはいえ、松下村塾系の藩士から強い恨みを買うことになった。このため、松陰の弟子、久坂玄瑞や前原一誠らに命を狙われることになったのだ。藩論は対立したまま、事態は一進一退を繰り返していた。

 その後、長井にとって事態はさらに悪化する。1862年(文久2年)、幕府で公武合体を進めていた老中安藤信正や久世広周らが「坂下門外の変」で失脚したのだ。すると、長州藩内の攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。そして、時間の経過とともに、尊皇攘夷・激派の著しい台頭で、長井の立場はさらに厳しく、追い詰められていった。

こうなると、まだわずか1年前、国論をリードしようかという「航海遠略策」をまとめ上げ、建白した人物を、長州藩はためらいもなく斬ってしまう。1863年(文久3年)長井雅楽は“長州藩の奸臣”のレッテルを張られ、切腹を命じられ、その生涯を閉じた。

 明治維新後、この長井の積極開国論を長州人たちは維新史の恥部として、すべて長井の個人的運動で、藩は何ら関知していなかったと主張して、やり過ごしてきた。その結果、現代において長井は、高杉晋作、木戸孝允らの事績と比べ、不当に低い評価しか与えられていないようだ。

(参考資料)司馬遼太郎「世に棲む日日」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」、三好徹「高杉晋作」、童門冬二「伊藤博文」、松永義弘「大久保利通」、海音寺潮五郎「西郷と大久保」