阿部正弘・・・身分に捉われない人材登用など「安政の改革」を推進

 江戸幕末期の第7代備後福山藩主・阿部正弘は、以前はその内政、外交姿勢から「優柔不断」あるいは「八方美人」な指導者とみられ、評価は低かった。しかし、当時の幕政および、黒船来航に始まる海外列強の開国・通商要請など時代背景を重ね合わせると、個人のリーダーシップに帰し難いものがあり、近年は相対的に人物評価が高まっている一人だ。1854年に日米和親条約を締結。身分に捉われない大胆な人材登用を行い、品川沖に台場を築き、大船建造の禁を解くなど、「安政の改革」と呼ばれる幕政改革を推進した。生没年は1819(文政2年)~1857年(安政4年)。

 阿部正弘は1843年(天保14年)、25歳で老中となり、1845年(弘化2年)、「天保の改革」の際の不正を理由に罷免された水野忠邦の後任の老中首座に就いた。そして、第十二代家慶、第十三代家定の時代の幕政を統括した。老中在任中は度重なる外国船の来航や中国のアヘン戦争勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われた。

 阿部は、幕政においては1845年(弘化2年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。薩摩藩の島津斉彬、水戸藩の水戸斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、江川英龍(太郎左衛門)、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努めるとともに、筒井政憲、川路聖謨、岩瀬忠震、ジョン万治郎などを起用、大胆な人材登用を行った。

 また、人材育成のため1853年(嘉永6年)、備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館(せいしかん)」に改め、身分に関係なく学べるよう教育改革を行った。このほか講武所や洋学所、長崎海軍伝習所などを創設。また西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など「安政の改革」に取り組んだ。

 ただ阿部には、老中首座としてリーダーシップに欠けた人物との評価がある。実際にペリー艦隊来航から日米和親条約締結に至るまで1年余りの猶予があったにもかかわらず、朝廷から全国の外様大名まで幅広く意見を募ったあげく、何ら対策を打ち出せず、いたずらに時間の引き延ばしを図っただけだったというのがその論拠だ。

 しかし、これは阿部のリーダーシップ云々より、これこそが当時の幕府の体質といえるもので、その証拠に前任の水野忠邦は方法が過激すぎると反発を受け失脚、阿部の後を受けて強攻策を取った井伊直弼は、幕閣どころか朝廷や国内各層の反感を買って国内を大混乱に陥れている。

 こうしてみると、阿部の協調路線は幕政を円滑に運営する有効な方策だったといえ、幕府の威光よりも混乱回避を優先した姿勢は、それなりに評価され得るものだったとみられる。また、前記した通り、慣習に捉われない人材登用については評価され、阿部の政策を「安政の改革」として、いわゆる「三大(享保・寛政・天保)改革」に次ぐものとして扱うこともあり、39歳という早世を惜しむ声も多い。

(参考資料)童門冬二「歴史に学ぶ後継者育成の経営術」