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小松帯刀・・・幕末、28歳で薩摩藩家老職を務め、藩政をリードした英才

 小松帯刀(こまつたてわき)は、幕末の薩摩藩の藩主後見人・島津久光の側近、そして若き家老として幕末動乱期の薩摩藩運営を担当、また大久保利通らとともに藩政改革に取り組んだ。惜しくも35歳の若さで亡くなったが、西郷隆盛や大久保利通らの上席にいた人物だけに、健在なら明治維新政府の中で一定の地位を占め、今日に何か足跡を残したに違いない。小松帯刀の生没年は1835(天保6)~1870年(明治3年)。

 小松帯刀は薩摩国鹿児島城下の喜入領主・肝付兼善(5500石)の三男として生まれた。通称は尚五郎。1856年(安政3年)、指宿・吉利領主の名門、小松清猷(2600石)の跡目養子となって家督を継承し、清猷の妹千賀(お近)と結婚した。1858年(安政5年)、帯刀清廉(たてわききよかど)と改名した。肝付尚五郎は、後に徳川十三代将軍家定の正室となった篤姫(天璋院)や篤姫の兄、島津忠敬らとともに吉利領主の小松清猷から学問を学んだとされるが、篤姫と肝付尚五郎の接点を示す史料は残されていない。

 名君といわれた藩主島津斉彬が急死した後、小松帯刀は1861年(文久元年)、藩主後見人・島津久光に才能を見い出されて側近となり、大久保利通とともに藩政改革に取り組んだ。1862年(文久2年)には久光による上洛に随行し、帰国後には28歳という若さで家老職に就任した。薩英戦争後、集成館を再興して、とくに蒸気船機械鉄工所の設置に尽力する一方で、京都に駐在し、久光の意向を汲んで公武合体を念頭に、主に朝廷や幕府諸藩との連絡・交渉役を務め、薩摩藩の指導的立場を確立した。参与会議等にも陪席した。他方で、御軍役掛、御勝手掛、蒸気船掛、御改革御内用掛、琉球産物方掛、唐物取締掛などの要職を兼務するなど藩政をリードし、大久保や町田久成とともに洋学校開成所を設置した。

 1864年、禁門の変では幕府から出兵を命じられるも、当初は消極的な態度を示した。だが勅命が下されるや、小松は薩摩藩兵を率いて幕府側の勝利に貢献した。禁門の変後、長州藩から奪取した兵糧米を戦災で苦しんだ京都の人々に配った。第一次長州征討では長州藩の謝罪降伏に尽力している。

 また、勝海舟から土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬とその塾生の面倒をみてくれと頼まれたのがきっかけで、龍馬と昵懇となり、亀山社中(後の海援隊)設立を援助したり、その妻お龍の世話をしている。
 1866年(慶応2年)、京都二本松の小松邸で龍馬の仲介のもと、小松帯刀と西郷隆盛の薩摩藩と桂小五郎の長州藩が会談。全六箇条からなる「薩長同盟」が成立した。翌年には薩摩藩と土佐藩の盟約、「薩土同盟」を成立させるなど、小松はいかんなく外交手腕を発揮した。

 1867年、大政奉還発表の際、小松は薩摩藩代表として徳川慶喜に将軍辞職を献策し、摂政二条斉敬に大政奉還の上奏を受理するよう迫った。この頃から小松は痛風もしくは糖尿病と考えられる病魔に侵されていたようだ。

 明治維新後、小松はその交渉能力を評価されて明治政府の参与と総裁局顧問の公職を兼務したほか、外国事務掛、外国事務局、判事などを兼務した。総裁・議定(ぎじょう)・参与は三職と呼ばれ、明治政府の中央政治機構の重要な官職だった。

 1869年、病気のため官を辞し、オランダ人医師ボードウィンの治療を受けることに専念した。しかし病状は悪化、すでに手遅れの状態だった。そのため、将来には総理大臣をも嘱望されながら、薩摩の英才・小松は志半ばで、わずか35年の生涯を閉じた。

(参考資料)海音寺潮五郎「西郷と大久保」、宮尾登美子「天璋院篤姫」

川路聖謨・・・幕府と武士道に殉じた幕末を代表する外交官の一人

 1853年(嘉永6年)、開国・通商を求めてロシアのプチャーチンが長崎にやってきた際、ロシア使節と事実上、交渉を行ったのが、勘定奉行・露使応接掛を命ぜられた川路聖謨(かわじとしあきら)だ。川路の任務は重かった。領土問題から開国問題まで一身に背負っていた。単なる随行員の一人ではないのだ。川路は北方領土に対する主張を堂々と述べて、一歩も退かぬ気概を示し、プチャーチンと渡り合った。また、開港に関してもその時期を数年後というあいまいなまま最後まで譲らず、優柔不断な幕閣・老中たちの時期引き延ばしの考えに沿って、ロシア側の開国要求を退けた。これだけ、幕府に貢献した川路だったが、将軍継嗣問題で大老井伊直弼に嫌われて、幕府の要職から追放され隠居差控となるなど不遇だった。

 川路聖謨は幕末を代表する外交官の一人だ。幕末、海外の列強が開国・通商を求めて日本へやってきた。それだけに、外交官の力量次第でその結果は大きく異なってくるのだ。現実に川路がロシア側の要求を退け、江戸への帰路、幕府がアメリカのペリーの開国要求に屈したことを彼は聞いている。同じ幕命を帯びて交渉に臨んでも、交渉役の力量次第で不首尾に終わることがあることを幕閣は痛感したことだろう。アメリカ・ペリーとの交渉が如実に物語っている。

 では、川路聖謨のどのような点が優れていたのだろうか。ロシアのプチャーチンとの交渉の様子をゴンチャロフが描いている。それによると、川路は非常に聡明だった。彼は私たち(ロシア)に反駁する巧妙な論法をもって、その知力を示すのだが、(私たちには受け容れがたい。)それでもその人を尊敬しないわけにはいかなかった。彼の発する一語一語が、眼差しの一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識とウィットと練達を示していた。民族、服装、言語、宗教が違い、人生観までも違っていても、聡明な人々の間には共通の特徴がある-と記している。川路は交渉相手にこれだけの評価を得ていた人物だったのだ。

 川路聖謨は江戸末期の旗本。豊後国(現在の大分県)日田で、日田代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男として生まれた。官位は従五位下左衛門少尉。号は敬斎、幼名は弥吉。1812年(文化9年)、12歳で小普請組の川路三左衛門の養子となった。翌年元服して萬福(かずとみ)と名乗り、小普請組に入る。その後、勘定奉行所支配勘定出役という下級幕吏からスタートし、支配勘定を経て御勘定に昇進、旗本となった。その後、寺社奉行吟味調役として寺社奉行所に出向。このとき仙石騒動を裁断しており、この一件によって勘定吟味役に昇格。その後、佐渡奉行を経て、幕府老中、水野忠邦時代の小普請奉行・普請奉行として御改革に参与した。このころ、名を萬福から聖謨に改めた。

 川路は江川英龍や渡辺崋山らとともに尚歯会に参加し、当時の海外事情や西洋の技術などにもある程度通じていた。水野忠邦が天保の改革で挫折して失脚した後、奈良奉行に左遷された。奈良奉行時代には行方不明となっていた神武天皇陵の捜索を行い、「神武御陵考」を著して朝廷に報告している。後に孝明天皇がこれを元に神武天皇陵の所在地を確定させたといわれる。

 1854年(安政元年)、下田で日露和親条約に調印。1858年(安政5年)には堀田正睦に同行して日米修好通商条約を調印。井伊直弼が大老に就任すると、西丸留守居役に左遷され、さらに翌年その役も罷免されて隠居差控を命じられた。1863年(文久3年)、勘定奉行格外国奉行に復帰するも、外国奉行とは名ばかりで一橋慶喜関係の御用聞きのような役回りに不満を募らせ、病気を理由にわずか4カ月で役を辞した。

 引退後は中風による半身不随や弟、井上清直の死など不幸が続いた。1868年(慶応4年)、勝海舟と新政府軍の西郷隆盛の会談で江戸城開城が決定した報を聞き、自決を決意した。その日、川路は妻を用事に出した後、浅く腹を斬り、拳銃で喉を撃ち抜いて果てた。拳銃を用いたのは半身不随のために刀ではうまく死ねないと判断したからではないかといわれる。

 川路は要職を歴任したが、別に閣老に列したわけではなく、生涯柔軟諧謔(かいぎゃく)の性格を失わなかったのに、見事に幕府と武士道に殉じた。徳川武士の最後の“花”ともいうべき凄絶な死に方だった。

(参考資料)奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、吉村昭「落日の宴 勘定奉行 川路聖謨」

栗本鋤雲・・・維新政府の出仕要請を固辞、幕臣の矜持を貫いた多才の人

 幕末期の幕臣、栗本鋤雲(くりもとじょうん)は幕府の昌平坂学問所に学び“お化け”といわれるほどの秀才だったが、維新後も政府からの出仕要請を固辞。幕臣の矜持を貫き通した人物だ。生没年は1822(文政5)~1897年(明治30年)。

 栗本鋤雲は幕府の典医を務めていた喜多村槐園(きたむらかいえん)の三男として生まれた。名は鯤(こん)。初名は哲三(てっさん)。瑞見。通称は瀬兵衛。1830年(文政13年)9歳のとき、安積艮斎の塾に入門。1843年、幕府の昌平坂学問所に入学し、校試において優秀な成績を修め褒賞を得ている。また、多紀楽真院、曲直瀬養安院のもとで医学と本草学を学んでいる。

1848年、17歳のとき奥医師・栗本瑞見の養子となり、六世瑞見を名乗り、家督を継ぎ、次いで奥医師となった。安政年間、医学館で講書を務めており、各年末には成績優秀により褒美を与えられている。このままゆけば、ずっと医師のコースを進み、法眼か法印ぐらいまで出世する、はずだった。

 順風満帆だった鋤雲だが、思いもかけない“蹉跌”が訪れる。1855年(安政2年)34歳のとき、オランダから献上された幕府蒸気船観光丸の試乗に応募したことから「漢方を旨とする奥詰医師が西洋艦に乗りたいとは不届き」と時の奥詰医長の咎めを受けたのだ。そして遂には侍医から追われて一時謹慎。1858年(安政5年)、蝦夷地在住を命じられて、函館に赴任することになったのだ。左遷だ。37歳のときのことだ。以後、鋤雲は函館で医学院の建設、薬園経営に尽力した。ただ、すぐその実力を認められて1862年、箱館奉行組頭に任じられ、樺太や南千島の探検を命じられた。

1863年、思いもかけない転機が訪れる。探検から戻ると幕府から即座に江戸へ戻るよう命令が出る。幕府も箱館における鋤雲の功績を評価していたため、昌平坂学問所の頭取、目付に登用された。鋤雲は箱館時代、フランス人宣教師メルメ・ド・カションと親交を結んだほか、フランス駐日公使ロッシュの通訳を務める人物と面識があったため、その経緯からロッシュとも仲が良くなった。上司の指示でメルメ・ド・カションに日本語と日本の書物の読み書きを教え、同時にカションからフランス語の伝授を受けたのだ。そのため幕府よりフランスとの橋渡し役として外国奉行に任じられる。そこで鋤雲は幕府による製鉄所建設や軍事顧問招聘などに尽力している。

また、彼は徳川昭武一行がパリで開催された万国博覧会の視察に訪れたときには、その補佐を命じられフランスに渡った。そして、そこで日本の大政奉還と徳川幕府の滅亡を知った。
 ヨーロッパにいた留学生をまとめ、引率して日本へ帰ったのが1868年(明治元年)の5月だった。幕府はすでになくなっている。47歳の鋤雲は隠退の道を選んだ。新政府からどんなに求められても官職には就かなかった。幕臣として幕府に忠義を誓い、重用された恩があるとの思いからだった。鋤雲とはそんな人物だった。

 1872年『横浜毎日新聞』に入り、翌年『郵便報知新聞』に編集主任として招かれた。この『郵便報知新聞』が維新後の鋤雲の、控えめな活動の舞台だった。月給150円。主筆を務めたこともあるが、自分はもっぱら文芸欄を担当、早いうちに主筆のポストを藤田茂吉に譲って一記者に戻った。主に随筆を書いて、1885年に同社を退くまで才筆を振るい、成島柳北、福地桜痴らとともに、当時の新聞界を代表するジャーナリストとして声名を馳せた。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、大島昌弘「小栗上野介 罪なくして斬らる」

小村寿太郎・・・幕末以来の不平等条約解消、関税自主権回復に尽力

 小村寿太郎は外務大臣として、日露戦争における戦時外交を担当し、1905年ポーツマス会議の日本全権として、ロシア側のウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印。また、幕末以来の不平等条約を解消するために尽力、1911年に日米通商航海条約を調印し、関税自主権回復による不平等条約の完全撤廃を実現した人物だ。生没年は1855(安政2)~1911年(明治44年)。

 小村寿太郎は日向国飫肥(おび、現在の宮崎県日南市)藩の下級武士の子として生まれた。1870年、大学南校(東京大学の前身)入学。第一回文部省海外留学生に選ばれハーバード大学へ留学、法律を学んだ。帰国後、司法省に入省した。小村25歳のときのことだ。ただ、司法官時代の小村は英語ができるだけの無能な男と評価されていた。また、職務を離れると大酒を飲み女遊びが激しかった。

大審院判事を経て、明治17年、外務省へ転出。小村29歳だった。その頃の小村は父から相続した多重債務と、美人だが家事などは一切できないわがままな妻のヒステリーに悩まされ、精神的に荒んだ時期を過ごしていた。小村の月給150円に時代に、彼の父の負債額は未払い利息を含めて1万6000円にも達していた。

ところが、不遇の連続だった小村だが、幸運にも時の外務大臣、陸奥宗光の目にとまる。1893年(明治26年)、清国日本公使館参事官に抜擢されたことにより、ようやく小村の活躍が始まった。清国代理公使を務め、日清戦争の後、駐韓弁理公使、外務次官、駐米・駐露公使を歴任。1900年の義和団事件では講和会議全権として事後処理にあたった。

 1901年(明治34年)、小村は46歳という若さで第一次桂太郎内閣の外務大臣に就任。1902年締結の日英同盟を積極的に主張し、回避不可避と考えられていた日露戦争に対する備えをした。日露戦争における戦時外交を担当し、1905年、ポーツマス会議の日本全権としてロシア側のウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印した。日露戦争開戦当初、日本は有利に戦いを進めることができたものの、圧倒的な軍事力を誇るロシアに対して長期戦になった場合、日本の国力ではやがて形勢は逆転することは必至と判断した小村は、早くからロシアとの講和の必要性を説いた。しかし、緒戦での戦勝で日本が優勢にある状況下での講和は弱腰外交と受け取られ、受け入れてもらえず非難を浴びる。それでも小村は自らの信念を貫き、講和条約調印にこぎつけた。一筋繩ではいかない相手とのハードでタフなネゴだったが、これによって小村は優れた外務官僚としての評価を得た。ただ、その後アメリカの鉄道王ハリマンが日本に、満州における鉄道の共同経営を提案した際、首相や元老らの反対を押し切って拒否した。この件については評価の分かれるところだ。

 小村は1908年成立の第二次桂太郎内閣でも外務大臣に再任され、後世に名を残す役割を果たす。幕末、列強との間で締結した不平等条約の解消に取り組むことになったのだ。明治期の為政者の長年の懸案だった条約改正の交渉を行い、1911年、日米通商航海条約を調印し、関税自主権の回復を果たした。また、日露協約の締結や韓国併合にも関わり、小村は一貫して日本の大陸政策を推し進めた。

(参考資料)吉村昭「ポーツマスの旗」

岸田吟香・・・最初の社会部記者で、ヘボン博士の辞書編纂パートナー

 岸田吟香は日本において新聞が創刊されて間もない頃、ひらがなを多く使って読みやすく、分かりやすい文章表現をした、いわば最初の社会部記者であり、ヘボン式ローマ字で現代の日本にいまなお影響を及ぼしているヘボン博士の辞書編纂パートナーでもあった。

また、岸田吟香は目薬「精_水(せいきすい)」を販売するなど、薬業界の大立者としても知られる。幼名を辰太郎。名前は大郎、大郎左衛門、達蔵、称子麻呂、清原桜、作良(さくら)、銀次あるいは銀次郎などがある。また、墨江岸国華、墨江桜、墨江岸桜、岸国華、岸吟香、岸田屋銀治、桜井銀治郎などとも名乗った。号は吟香、東洋、桜草、筆名には吟道人がある。

 岸田吟香は1832年(天保4年)、美作国久米郡垪和(はが)村の酒造農家、岸田秀治郎の長男として生まれた。岸田家は天正年間、摂津から移住してきたと伝えられるが、先祖は記紀にも出てくる岸田朝臣だという説もあり、岸田自身それを意識していたふしがある。17歳のとき江戸へ出て津山藩の昌谷精渓、次いで林図書頭の塾に入って漢学を学んだ。そこで彼は藤田東湖と知り合い、水戸藩邸に出入りするようになったが、安政の大地震で負傷し、いったん郷里へ戻った。

その後、再び江戸へ出て、今度は下谷に塾を開いていた藤森天山の門に入った。天山は水戸派で徳川斉昭の信任を受け、海防策を建言したこともあり、藤田東湖とも親交があった。この頃、三河の挙母(ころも)藩から藩主内藤丹波守の侍講として招かれた。岸田は赴任したが、ほどなく「安政の大獄」が起こって、水戸派に対する大老・井伊直弼の徹底的な弾圧が行われた結果、岸田は理不尽にも閉門を命じられる破目になってしまった。

 こうして行く先がなく、食うに困っていた岸田の生活が劇的に変わるのは、ヘボンを訪ね、彼の家に移り住むことになってからだ。岸田30歳のことだ。ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士は、正しくはジェームス・カーティス・ヘップバーンといい、プレスビテリアン派教会の宣教師として1859年(安政6年)、妻クララとともに初めて日本の土を踏んだ。

ヘップバーンという名前は、現在では少しも発音しにくいものではない。しかし、幕末の日本人にはヘップバーンという発音は口にしにくかったようで、誰いうともなく、ヘボンになってしまった。ヘボンは1815年ペンシルバニア州の生まれで、プリンストン大学の神学科を卒業した後、ペンシルバニア大学で医学を修めた。医療は布教の強力な手段だからそういうコースを取る者は少なくなかった。

 来日したヘボン夫妻は神奈川の成仏寺に居住し、翌年近くの宗興寺で施療所を設けた。はじめは近寄らなかった日本人も、ヘボンの診察を受けてみるみるうちに回復するのをみて、続々と患者が押しかけるようになった。日本人はちゃっかりしていて、病気は治してもらうが、神の教えは敬遠するものが多かった。

ヘボンは布教の進まない原因の一つは、言葉のカベにあると考えた。ヘボンも妻のクララも診察には片言の日本語でも不自由することはなかったが、思想を伝えるとなると手に負えなかった。ヘボンは良い辞書が必要なことを痛感したが、当時は和英、英和の辞書はほとんどなかった。それなら自分で作ってみようとヘボンは決心した。

 ヘボンの家に移り住んだ岸田は、午前中はヘボンの診療を手伝い、午後には辞書の編纂に取り組むという生活だ。岸田の英語の勉強に最も効果があったのが、ヘボンが引き合わせてくれたジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵が創刊した「海外新聞」の編集の手伝いだった。「海外新聞」は日本人の手による日本語の、誰もが自由に購読できる新聞として最初のものだった。

岸田は「海外新聞」では、ほとんど無給に近い条件で働いた。ヒコのところで働くのは給料が目的ではなく、あくまでも英語の修得のためだ。その意味では、この新聞作りは大いに役立った。ヒコの訳した文章と原文の新聞記事を比較対照できるのだ。岸田の英語力は急速に伸びて、ヘボンの辞書編纂にも役立った。収容語数約2万語という、当時としては画期的な辞書の原稿が1865年、完成した。結局この辞書は1872年(明治5年)に出た第二版まで上海で印刷し、第三版(1886年・明治19年)からは日本で印刷されて、第七版(1903年・明治36年)まで出た。

(参考資料)三好徹「近代ジャーナリスト列伝」、小島直記「無冠の男」

黒岩涙香・・・スキャンダル記事と翻案小説で『萬朝報』を東京一にした天才

 黒岩涙香は明治時代の作家、ジャーナリストで、彼が1892年(明治25年)に創刊した『萬朝報(よろずちょうほう)』は一時、“社会派”ネタと翻案ものを特徴として、最大発行部数30万部と東京一の発行部数を誇った超人気の新聞だった。

 黒岩涙香は土佐国安芸郡川北村大字前島(現在の高知県安芸市川北)に郷士の次男として生まれた。本名は黒岩周六。「香骨居士」、「涙香小史」などの筆名を用い、翻訳家、作家、記者として活動した。兄は黒岩四方之進。

涙香は、大阪専門学校で1年ほど英語を学び、その後上京して、成立学舎、慶応義塾に入り新聞に投稿することが多かった。そのうちの1本「輿論新誌」に投稿した、北海道官有物払い下げ問題の批判論文が官吏侮辱罪に問われて、16日間の懲役刑を食らった。出所してから『日本たいむす』『絵入自由新聞』の記者を経て、『都新聞』に入社した。そして、記者のかたわら、翻案の探偵小説を書いた。『都新聞』ではのちに主筆を務めた。

 涙香の翻案ものは、読者から非常な好評を博した。彼は、原作を日本人に向くように構成を変え、主人公の名前も日本名を使い、題名なども工夫を凝らした。ちなみに、彼の名を高めた第一作「法廷の美人」の原作名は「暗き日々(ヒュー・コンウェイ)」だ。これでは味も素っ気もない。ところが、「法廷の美人」となると、被告席に立たされる薄幸の悲しい運命が、そこはかとなく連想されるではないか。つまり、彼は見出しの付け方が抜群に上手だったのだ。

 涙香は1892年(明治25年)、『萬朝報』を創刊した。30歳のときのことだ。
題字には「よろず重宝」の意味がかけられていた。後年、力をつける幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦らが参画したタブロイド版の日刊新聞だった。萬朝報は簡単・明瞭・痛快をモットーとし、社会悪に対しては徹底的に追及するという態度と、涙香自身の連載翻案探偵小説の人気によって急速に発展、1899年(明治32年)には発行部数が、東京の新聞中1位を達成した。

当時の新聞は、現代と違って見出しは極めて簡略で、ぶっきらぼうなものだった。時代は少し下るが、例えば日露戦争の旅順戦を伝える読売新聞のニュースの見出しをみると、「旅順陥落」「旅順開城の手続」「開城談判の調印」といった具合だ。そんな中で、涙香はとくに、小説の題名については非凡なセンスを発揮した。デュマの『モンテクリフト伯』を『巌窟王』とし、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を『噫(ああ)無情』と改題したのは、よく知られている。

 涙香は、読者に好奇心を起こさせるような題名をつけた『鉄仮面』『白髪鬼』『幽霊塔』『巌窟王』『噫無情』などの代表作を次々に掲載し、評判を取り、萬朝報のウリとなった。また人気を博した企画が、連載「名士蓄妾調べ」だった。これは当時の、いわゆる名士たち四百数十人が囲っていた愛人を徹底的に調べあげたもので、彼女たちの前身から、いつごろそういう関係になったか、どういうきっかけがあったか、どこに住んでいるか、その別宅の購入費や規模までを書いたのだ。徹底的なスキャンダル記事だ。伊藤博文、桂太郎、山県有朋らの政界の大物はむろんのこと、渋沢栄一らの財界人、北里柴三郎、森鴎外、勝海舟らの知名人は、根こそぎ萬朝報の餌食になった。これが「三面記事」の語源ともなった。

 黒岩涙香の萬朝報と当時、発行部数で覇を競ったのが秋山定輔の『二六新報』だ。二六新報は明治33年2月から発行され、翌年に10万部を超え、それまで1位だった萬朝報を2万部もリードした。秋山は涙香より5歳年下だった。だが、三好徹氏は涙香と秋山を「天才的な資質において、同時代の誰よりも抜きん出ていた」としている。涙香にとって秋山は強力なライバルだったわけだ。

 萬朝報が発行部数で東京の新聞中1位を取る前年、明治31年に涙香が打ち出したユニークで、型破りな宣伝コピーがある。彼は萬朝報の永遠無休日を宣言し、「世界は今日より萬朝報なくては夜の明けぬことと為れり」と宣伝。文字通り「永世無休」の看板を掲げたのだ。

(参考資料)三好徹「近代ジャーナリスト列伝」、小島直記「無冠の男」

紀 淑望・・・ 『古今和歌集』の真の序文、真名序の作者 道真鎮魂が目的

 『古今和歌集』には仮名序と真名序がある。仮名序の作者は紀貫之であり、真名序の作者がここに取り上げる紀淑望(きのよしもち)だ。普通の『古今和歌集』の写本では仮名序が巻頭に、真名序が巻末にある。また仮名で書かれた『古今和歌集』には、仮名の序文がふさわしいと思われるので、仮名序こそ10世紀初め、醍醐天皇の勅命によって紀貫之らが編集した『古今和歌集』の序文だと考えられてきた。

ところが、最近の研究によって、いろいろな点から、真名序すなわち漢文の序文こそが『古今和歌集』の真の序文であり、仮名序は真名序成立より後につくられたものであることが明らかになった。つまり、この紀淑望が書いた漢文の序文が、『古今和歌集』の真の序文というわけだ。

 では、なぜ真名序を『古今和歌集』の撰者ではなかった、この紀淑望が書いたのか。彼は、菅原道真の第一の弟子、紀長谷雄の嫡子だ。そこで、梅原猛氏は『万葉集』が柿本人麻呂の鎮魂を目的としたように、『古今和歌集』は菅原道真の鎮魂を目的としたものだった-という。紀貫之ら撰者が紀淑望に『古今和歌集』の序文を依頼したのは、勅撰集でありながら、紀氏の家集という色彩の強い『古今和歌集』の序文の作者として、立派な漢文の書ける「氏の長者」が書くことが適当だと判断したのだろう。それと、道真の第一の弟子の紀長谷雄の嫡子・淑望に序文を書かせて、暗に道真の鎮魂を図ろうとしたのだ-と梅原氏。

 真名序には『古今和歌集』成立の経緯が述べられているが、それによれば『古今和歌集』は、元々『続万葉集』と名付けられていた。それほどに、いにしえの奈良の都の『万葉集』は後代にも重んじられていたわけだが、『続万葉集』の内容、構成が不備であったために、改めて編纂しなおし、その名も『古今和歌集』と面目を一新。京の都の人と自然、思想と感情を基盤とした新しい平安朝の歌集が誕生したのだ。

そのため、『万葉集』の撰集のときが、古来より平城天皇の806年(大同元年)と伝えられてきたので、そこから十代、百年後の醍醐天皇の905年(延喜5年)を、『古今和歌集』の撰集のときとしたものとみられる。

 『万葉集』の時代の、永遠に後世に名を残す歌人の代表は柿本人麻呂だろうが、『古今和歌集』の時代は菅原道真だろう。人麻呂と同様、道真は、現世の悲劇的な人生にもかかわらず、あるいはそれ故にこそ、永遠に後世に名を残すため、道真にゆかりの深い人物に序文を書かせ、梅原氏が指摘するように、鎮魂の思いをも込めたのか。

 紀淑望の生年は不詳、没年は919年(延喜19年)。平安時代中期の学者・歌人。文人・紀長谷雄の長男。896年(寛平19年)、文章生となり、901年(延喜元年)、式部少丞平篤行を問者として方略式に応じ合格。醍醐朝のもとで備前権掾・民部丞・刑部少輔・勘解由次官・大学頭・東宮学士を歴任、913年、信濃権守を務めた。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、大岡信「古今集・新古今集」

小泉八雲・・・日本文化に深い愛情と理解を示した「日本紹介者」の一人

 ギリシア生まれのイギリス人、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は日本文化に深い愛情と理解を示し、日本の伝承に取材した、「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「むじな」などの『怪談』をはじめ多くの作品を残した。アーネスト・フェノロサ、ブルーノ・タウト、アンドレ・マルローらと並び著名な「日本紹介者」の一人だ。小泉八雲の生没年は1850(嘉永3)~1904年(明治37年)。

 小泉八雲の本名はパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)。ファーストネームはアイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んでいるが、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的でこの名をあえて使用しなかったといわれる。ファーミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に「Hearn」をローマ字読みして「ヘルン」と表記したのが広まり、当人も「ヘルン」と呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。名前の「八雲」は島根県松江市に在住していたことから、出雲国の枕詞の「八雲立つ」に因むとされる。

 ラフカディオ・ハーンはギリシアのレフカダ島でアイルランド人の父と、ギリシア人の母との間に生まれた。2歳のとき、アイルランドのダブリンに移るが、まもなく父母の離婚により、同じダブリンに住む大叔母に引き取られた。16歳のとき、ケガで左眼を失明、父の病死、翌年大叔母の破産など不幸が重なり、学校を退学する。そして19歳でアメリカへ渡り、24歳のとき新聞記者となった。その後、外国文学の翻訳、創作を発表して文才を認められ、ハーバー書店の寄稿家となった。

 ラフカディオ・ハーンは16歳のとき左眼を失明して隻眼となって以降、晩年に至るまで、写真を撮られるときは必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、俯(うつむ)くかして、決して失明した左眼から写らないようにポーズを取っている。

 ラフカディオ・ハーンは1890年(明治23年)、特派記者として来日。その後、まもなく東京帝国大学のチェンバレン教授や文部省の紹介で、島根県尋常中学校および師範学校の英語教師となった。ここでは籠手田知事、西田千太郎などの知己を得たこともあって、松江の風物、心情が大変気に入った。そして、松江の士族、小泉湊の娘、小泉節子と結婚し、武家屋敷に住んだ。この後、節子との間に、三男一女をもうけた。

 しかし、日本贔屓のハーンも閉口したことがあった。冬の寒さと大雪だ。そのため、彼は1年3カ月で松江を去り、熊本第五高等中学校へ転任。熊本で3年間暮らし英語教師を務めた。長男も熊本で誕生している。1896年(明治29年)、帰化し、「小泉八雲」と名乗った。八雲が赴任していた当時の熊本は西南戦争の後、戦争の焼け跡から復興し、急速に西洋化されつつあった殺風景な町だったが、質実剛健で感情をあまり表に表そうとしない熊本人魂や、路地裏の地蔵祭りなど伝統的な風俗とか飾らない行商人との会話などにとくに興味を抱いていたといわれる。そして、その後、八雲は勤務先を神戸のクロニクル社、上京して東京帝国大学で英文学の講師、さらに早稲田大学と変えている。

 この間、彼は「日本瞥見記」「東の国から」「知られぬ日本の面影」などの随筆で、生活に密着した視点から日本を欧米に紹介した。1904年(明治37年)アメリカで刊行された「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「むじな」などの話で知られる『怪談』は日本の古典や民話などに取材した創作短編集だ。

 小泉八雲は日本文化の基層を成すものは「神道」と考えた。そして、神道を「祖先崇拝」の宗教と捉え、祖先崇拝とはまた死者崇拝とみた。ここで最も基本的な感情は、死者に対する感謝の感情だ。この死者に対する感謝の感情は、日本の庶民の中にはまだ根強く残っていて、それが極めて美しい道徳を形成していることを驚きの目で見つめている。日本の伝統的な精神や文化に興味を持った八雲は、明治以来のいかなる日本人より、はるかに深く日本の思想の意味を理解していたのだ。

(参考資料)梅原猛「百人一語」

吉備真備 いったん失脚の憂き目に遭いながら復活した実力者

 吉備真備は、聖武天皇の御世、橘諸兄政権下で“怪僧”玄●(日ヘンに方、読みはボウ)とともに重用された時期があり、玄_と同じように失脚の憂き目に遭いながら復活。称徳天皇の御世、右大臣に昇進して左大臣の藤原永手とともに政治を執るという、地方豪族出身者としては破格の出世を成し遂げた有為な人物だ。学者から立身して大臣にまでなったのは、近世以前ではこの吉備真備と菅原道真のみだ。吉備真備の生没年は695(持統天皇9)~775年(宝亀6年)。

 吉備真備は備中国下道郡(後の岡山県吉備郡吉備町、現在の倉敷市真備町)出身で、父は右衛士少尉下道圀勝(しものみちのくにかつ)、母は楊貴(八木)氏(大和国=後の奈良県の豪族)。下道氏は吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族。

 吉備真備(当時の下道真備=しもつみちのまきび)は716年(霊亀2年)22歳のとき遣唐留学生となり、翌年入唐。以後18年間唐にあって、儒学、天文学、音楽、兵学などを学び、735年(天平7年)、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測量鉄尺)、楽器(銅律管、鉄如方響、写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)など多くの典籍を携えて帰国した。

 帰朝後の真備は、聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、橘諸兄が政権を握ると同時期に遣唐留学生・留学僧として派遣され、同時期に帰国した僧・玄●(ボウ)とともに重用された。しかし、740年(天平12年)に大宰府で起こった藤原広嗣の反乱が如実に物語っているように、それが度を超えていたため人々の批判を買うことになった。それでも真備は741年に東宮学士として皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇、称徳天皇)に『漢書』や『礼記』を教授した。また、そうした功績から746年(天平18年)には吉備朝臣の姓を賜った。

 ところが、孝謙天皇即位後の750年には同天皇を後ろ楯に、藤原仲麻呂が強大な権力を掌握。仲麻呂により、遂に真備は中央政界では失脚、筑前守、肥前守に左遷されてしまった。だが、決して真備はこれでは終わらなかった。751年に遣唐副使として再び入唐。そして753年には鑑真を伴って無事に帰国したのだ。

 真備は754年(天平勝宝6年)には大宰少弐に昇任、759年(天平宝字3年)に大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。そして764年には(天平宝字8年)には造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こした際には従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して乱鎮圧に功を挙げた。称徳天皇の御世、弓削道鏡の下で中納言、大納言、そして右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手とともに政治を執ったのだ。

 吉備真備は地方豪族出身者としてはまさに破格の出世だった。学者から立身 して大臣にまでなったのも、近世以前ではこの真備と菅原道真のみだ。それも、 一度は中央政界で失脚しながら、遣唐副使として入唐、再出発し、帰国後は大 宰府で実績を積み、70歳で遂に都へ復帰したのだ。学者から身を起こした彼の 忍耐強い性格はもちろんだが、ここまで頑張り抜けたのは、やはり執念としか いいようがない。
 吉備真備には様々な伝承がある。まず彼は唐で「仙術」を学んでいる。また彼は「夢」を買って出世したという(『宇治拾遺物語』)。このほか、梅原猛氏によると、「祭星法」という術を用い、実はこの法により出世したともいう。この秘法を用い出世したもう一人の人物が、藤原鎌足だ(『宿曜占文抄』)。

(参考資料)梅原猛「海人と天皇」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

公慶・・・戦禍で焼失した大仏殿再建に生涯を懸けた三論宗の僧

 公慶は、戦火で無残に傷ついた奈良・東大寺の大仏の修理および、焼失した大仏殿の再建に生涯を懸けた江戸時代前期の三論宗の僧だ。公慶は幕府の許可を得てただ一人、勧進活動のため精力的に全国を行脚した。ただ、悲しいことに彼は大仏殿の落慶を見届けることなく、江戸で亡くなった。公慶の生没年は1648(慶安元)~1705年(宝永2年)。

 公慶は丹後(京都府)宮津出身。1660年(万治3年)、東大寺大喜院の英慶(えいけい)について出家。13歳のときのことだ。公慶は同寺竜松院に住したが、1567年(永禄10年)の兵火に遭い大仏殿が焼失し、以後は大仏が露座のままとなっていることを嘆き、1683年(天和3年)、大仏殿再興を発願。翌年、幕府・寺社奉行の許可を得た。ただ、その許可の内容は、勧進は「勝手次第」、「幕府は援助せず」というものだった。それでも公慶は全くめげず、大勧進職(だいかんじんしき)となり、全国に懸命に勧進。着工にこぎつけた。

1692年(元禄5年)、4年の歳月を経て大仏の修理が完成して開眼供養が行われた。この開眼供養は3月8日から4月8日まで1カ月間にわたり営まれ、1万2800人の僧、一般参詣者20万人余に達したといわれ、奈良全体が未曾有の賑わいをみせた。

大仏の修理が終われば後は、肝心の大仏殿の再興だった。公慶の見積りでは大仏殿再興にかかる費用は18万両だった。公慶はこれだけの大事業を成し遂げるには、公的な力に頼る以外ないと判断。大仏修理の功績があった今回は、護持院・隆光の仲立ちで桂昌院(第五代将軍徳川綱吉の母)-そして綱吉に拝謁することに成功。大仏殿の再興への協力を願い出たのだ。その結果、幕府の全面協力を取り付けたのだった。幕府は公慶が見積もった目標額に応えるため、勘定奉行・荻原重秀を最高責任者に据えた。これにより、大仏殿再建は事実上幕府の直轄事業となった

 幕府の支援を受けることになったことで、再建のメドはついたかに思われたが、公慶は勧進活動を止めることはなかった。民衆に対し、大仏との“結縁”の機会を広めるためだった。ただ、幕府の支援はあったが、恐らく資金的な問題からと思われるが、大仏殿のスケールは当初、公慶が考えたものよりは縮小されている。小さくなったのだ。

 これだけ精力的に勧進活動を展開した公慶だけに、あとは感動の大仏殿完成の日を待つだけ-のはずだった。だが、悲しいことに、彼は大仏殿の落慶を見ることなく1705年(宝永2年)、江戸で病を得て58年の生涯を閉じた。翌年、公盛が公慶の功績を称え、勧進所内に御影堂を建立し、仏師性慶と公慶の弟子即念が製作した御影像を安置した。現在、東大寺境内の一角に建っている公慶堂と、堂内に安置されている公慶上人像がそれだ。待望した大仏殿の落慶は公慶が没した4年後、1709年(宝永6年)のことだ。現在の大仏殿・中門・廻廊・東西楽門はこのとき再建されたものだ。

 東大寺大仏殿の本尊、大仏は華厳経の教主毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)の金銅座像で、高さ五丈三尺五寸(現尺、約14.7・)。聖武天皇の発願により749年(天平勝宝1年)竣工。752年(天平勝宝4年)開眼供養が盛大に営まれた。その後、1180年(治承4年)、源平合戦の際、平重衡の南都焼き討ち、1567年(永禄10年)、三好三人衆と松永久秀の合戦で、それぞれ兵火に遭い、大仏殿はじめ多くの伽藍、さらに大仏も被災している。そのため、大仏も改鋳され、台座蓮弁の一部だけが当初のもので、胴身は鎌倉時代、頭首は江戸時代元禄期のものだ。1180年の最初の被災の際は、俊乗房(しゅんじょうぼう)重源(ちょうげん)上人が抜擢されて、勧進職を務めた。

(参考資料)古寺を巡るシリーズ「東大寺」