紀 淑望・・・ 『古今和歌集』の真の序文、真名序の作者 道真鎮魂が目的

 『古今和歌集』には仮名序と真名序がある。仮名序の作者は紀貫之であり、真名序の作者がここに取り上げる紀淑望(きのよしもち)だ。普通の『古今和歌集』の写本では仮名序が巻頭に、真名序が巻末にある。また仮名で書かれた『古今和歌集』には、仮名の序文がふさわしいと思われるので、仮名序こそ10世紀初め、醍醐天皇の勅命によって紀貫之らが編集した『古今和歌集』の序文だと考えられてきた。

ところが、最近の研究によって、いろいろな点から、真名序すなわち漢文の序文こそが『古今和歌集』の真の序文であり、仮名序は真名序成立より後につくられたものであることが明らかになった。つまり、この紀淑望が書いた漢文の序文が、『古今和歌集』の真の序文というわけだ。

 では、なぜ真名序を『古今和歌集』の撰者ではなかった、この紀淑望が書いたのか。彼は、菅原道真の第一の弟子、紀長谷雄の嫡子だ。そこで、梅原猛氏は『万葉集』が柿本人麻呂の鎮魂を目的としたように、『古今和歌集』は菅原道真の鎮魂を目的としたものだった-という。紀貫之ら撰者が紀淑望に『古今和歌集』の序文を依頼したのは、勅撰集でありながら、紀氏の家集という色彩の強い『古今和歌集』の序文の作者として、立派な漢文の書ける「氏の長者」が書くことが適当だと判断したのだろう。それと、道真の第一の弟子の紀長谷雄の嫡子・淑望に序文を書かせて、暗に道真の鎮魂を図ろうとしたのだ-と梅原氏。

 真名序には『古今和歌集』成立の経緯が述べられているが、それによれば『古今和歌集』は、元々『続万葉集』と名付けられていた。それほどに、いにしえの奈良の都の『万葉集』は後代にも重んじられていたわけだが、『続万葉集』の内容、構成が不備であったために、改めて編纂しなおし、その名も『古今和歌集』と面目を一新。京の都の人と自然、思想と感情を基盤とした新しい平安朝の歌集が誕生したのだ。

そのため、『万葉集』の撰集のときが、古来より平城天皇の806年(大同元年)と伝えられてきたので、そこから十代、百年後の醍醐天皇の905年(延喜5年)を、『古今和歌集』の撰集のときとしたものとみられる。

 『万葉集』の時代の、永遠に後世に名を残す歌人の代表は柿本人麻呂だろうが、『古今和歌集』の時代は菅原道真だろう。人麻呂と同様、道真は、現世の悲劇的な人生にもかかわらず、あるいはそれ故にこそ、永遠に後世に名を残すため、道真にゆかりの深い人物に序文を書かせ、梅原氏が指摘するように、鎮魂の思いをも込めたのか。

 紀淑望の生年は不詳、没年は919年(延喜19年)。平安時代中期の学者・歌人。文人・紀長谷雄の長男。896年(寛平19年)、文章生となり、901年(延喜元年)、式部少丞平篤行を問者として方略式に応じ合格。醍醐朝のもとで備前権掾・民部丞・刑部少輔・勘解由次官・大学頭・東宮学士を歴任、913年、信濃権守を務めた。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、大岡信「古今集・新古今集」