『If 』④「足利尊氏が鎌倉で幕府を開設していたら」

『If 』④「足利尊氏が鎌倉で幕府を開設していたら」
 足利尊氏が幕府を鎌倉に置いていたら、足利氏による幕府政治も随分、様
相の異なったものになっていたでしょう。

南朝勢力の帰趨を大きく左右した幕府設置場所
 まず後醍醐天皇率いる吉野の南朝勢力が勢いを盛り返していたのは間違い
ないところです。楠木正成や新田義貞など後醍醐天皇の軍事勢力がそれまで
とは違った攻勢にでることも十分考えられます。それに伴って、南朝方に付
く勢力も出てきていたはずです。
 ただ、それには、天皇親政のスローガン一点張りではなく、武家に対する
論功行賞も約束する姿勢を打ち出すことが必要だったでしょうが。
 九州で勢力を挽回した尊氏は1336年(建武3年、延元元年)4月、上洛行
動を開始し、5月、楠木正成を大将とする建武政府軍を湊川の戦いで破り、
6月には再び入京に成功。そして、重要なのはこのとき、尊氏が光明天皇を
擁立した点です。一方、吉野に逃れた後醍醐天皇も「自分こそが正統の天皇
である」と主張したため、ここに北朝と南朝の二つが並立する60年にわたる
南北朝の争乱が始まることになったのです。

尊氏は「鎌倉」か「京都」か、幕府開設場所を諮問
 尊氏は1338年(暦応元年、延元3年)8月に待望の征夷大将軍に任命され
ました。将軍になれば、当然、幕府をどこに置くかという問題が、にわかに
クローズアップされることになりました。候補として挙げられたのは鎌倉と
京都です。源頼朝以来の武家政権の伝統から考えると、鎌倉ということにな
るでしょう。それが、京都に決められたのはどうしてなのでしょう。
 この問題を考えていくうえでヒントになるのが、1336年11月7日に制定され
た「建武式目」です。これは全文17カ条からなる尊氏による成文化した施政
方針というべきものですが、その冒頭に、幕府をそれまで通り鎌倉に置いた
方がいいか、他所(京都)に置いた方がいいか諮問した一文があります。
尊氏関係者の間でも意見が分かれていたことが分かります。上層武士たちの
多くは、鎌倉にそれぞれの屋敷を持っていたため鎌倉に幕府を置くことを主
張したでしょう。尊氏の弟・直義(ただよし)は「建武の新政」のときも
鎌倉の守りについていたので、鎌倉を主張したのではないでしょうか。

南朝勢力を牽制するため尊氏が「京都」に決断
 ところが、鎌倉主流と思われた情勢の中で、尊氏本人は鎌倉より京都の方
がよいと考えていたようです。一つは軍事的に、幕府を鎌倉に置くと、吉野
にいる南朝勢力が勢いを盛り返してくる可能性があるためです。吉野の動き
を牽制するためには、幕府は京都に置かなければならないという論法です。
そしていま一つは政治的な理由で、「国家行政権を握るには、国家の中央に
位置する必要がある」という考え方です。鎌倉にいて朝廷をリモートコント
ロールするのは大変です。それで京都に幕府を置いて直接的にコントロール
しようとしたのではないでしょうか。

鎌倉に幕府を置いていたら南朝の御所奪還の動きは強くなっていた
 もし、尊氏が周囲の意見に押されて鎌倉に幕府を置いていたら、後醍醐天
皇の配下の者たちが暗躍し、その京・御所奪還への動きは活発になっていた
でしょう。後醍醐天皇はかなり自己中心的な人物だったという印象は強いの
ですが、よくいえば「強烈な個性でぐいぐい引っ張って行った」ということ
です。賢明な判断に基づいて京都に幕府を置いた尊氏が京にいたにもかかわ
らず、後醍醐天皇はあれだけ粘り強く戦い続けたのですから。