安藤昌益 身分・階級差別を否定し、徹底した平等思想を提唱した人物

安藤昌益 身分・階級差別を否定し、徹底した平等思想を提唱した人物

 安藤昌益(あんどうしょうえき)は、江戸時代中期の医師で独創的な思想家だ。農業を根本としたすべての人間が平等な社会を築くことを主張、徹底した平等思想を唱えたことで知られる人物だ。また身分・階級差別を否定して、すべての者が労働、「直耕」に携わるべきだと主張、これらの思想は後に「農本共産主義」と評された。「直耕」とは鍬で直に地面を耕し、築いた田畑で額に汗して働くという意だ。「士農工商」の厳然とした身分制社会だった江戸時代に、農家に生まれながら、これほど徹底した平等思想を唱えた人物がいたこと自体が驚きだ。

 安藤昌益は秋田大館二井田村(現在の秋田県大館市)の農家に生まれた。号は確龍堂良中(かくりゅうどうりょうちゅう)。安藤家の村の肝煎(きもいり=名主)の当主としての名は孫左衛門。代々、当主はこの孫左衛門を名乗った。昌益の生没年は1703(天禄16)~1762年(宝暦12年)。昌益は、当主を継ぐ長男ではなく、また利発だったことから、元服前後に上洛し、仏門に入った(寺は不明)。しかし、仏教の教えと現状に疑問を持ち、そのまま仏門に身を置くことはできなかった。そこで、どういう伝手かは不明だが、医師の味岡三伯の門を叩いた。味岡三伯は後世、方別派に属する医師だ。昌益はここで医師としての修行をした。そして、仔細は詳らかではないが、八戸で開業する以前に結婚し、子ももうけたとみられている。こうして昌益は陸奥国八戸の櫓(やぐら)横丁に居住し、開業医となった。

 八戸では講演会や討論会などを行い、八戸藩の行事に医師として参加している様子がうかがわれる。1744年(延享元年)の八戸藩の日記には、櫛引八幡宮で行われた「流鏑馬」の射手を昌益が治療したことが記録されている。また、昌益は同年、八戸の天聖寺で講演会、1757年(宝暦8年)にも同寺で討論会を開いたとの記録がある。その後、大館へ帰郷したとみられる。1756年(宝暦6年)、郷里の本家を継いでいた兄が亡くなり、家督を継ぐ者がいなくなった。このため1758年(宝暦8年)ごろ、昌益は二井田村に一人で戻った。結局、家督は親戚筋から養子を迎え入れ継がせたが、昌益自身も村に残り、医師として村人の治療にあたった。八戸ではすでに息子が周伯と名乗って、医師として独り立ちしていたからだ。思想家・安藤昌益の名は、出羽国に限らず周辺および関西にも知られていたとみられる。1759年(宝暦10年)前後に、八戸の、昌益の思想の根幹を成す「真営道」(詳細は後述)の弟子たちが一門の全国集会を開催し、昌益も参加している。参加者は松前はじめ、京都、大坂などからも集まり総勢14名。

 ところで、昌益の思想を最もよく表現しているのが、彼の著書『自然真営道(しぜんしんえいどう)』(全101巻)だ。これは、八戸藩主の側医を務めた弟子の神山仙確が昌益の死後、遺稿をまとめた哲学的、政治的論文だ。この内容は、共産主義や農本主義、エコロジーに通じるものとされているが、無政府主義(アナーキズム)の思想にも関連性があるという、間口の広さが見受けられる。また、昌益はこの著作の中で、日本の権力が封建体制を維持し、民衆を搾取するために儒教を利用してきたと見なし、孔子と儒教を徹底的に批判した。この著作の発見者、狩野亨吉に「狂人の書」と言わせ、ロシアのレーニンをもうならせたという。

(参考資料)野口武彦「日本の名著⑲安藤昌益」、安永寿延「安藤昌益」