渋川春海 日本人最初の暦「貞享暦」をつくった日本初の国産暦の生みの親
渋川春海は江戸時代前期の天文歴学者で、囲碁博士であり、神道家だ。江戸幕府の初代天文方を務め、1684年(貞享元年)「貞享暦(じょうきょうれき)」を作成、これが後の太陰暦の基となった。その意味で、彼はいわば日本初の国産暦の生みの親だ。渋川春海の生没年は1639(寛永16)~1715年(宝永5年)。
渋川春海は、江戸幕府碁方の安井家、一世・安井算哲の長子として京都・四条室町で生まれた。幼名は六蔵、のち父の名を継ぎ算哲と称した。諱は都翁(つつち)、字は春海、順正(のぶまさ)、通称は助左衛門、号は新藘(しんろ)。姓は安井から保井、さらに出身地にちなんで渋川と改姓した。1652年(慶安5年)父の死に伴って、二世・安井算哲となったが、当時まだ13歳だったため、碁方の安井家は一世・算哲の養子、算知に引き継がれており、彼は保井姓を名乗ることになった。
保井算哲は幼少時から学芸百般に才能を発揮し、碁を算知に学んで、江戸においては池田昌意から数学と暦法、京都では山崎闇斎に垂加神道、岡野井玄貞に天文学と暦法、土御門泰福に暦法と陰陽道をそれぞれ学んだ。これにより、彼は21歳のころには学者として諸国に知れ渡る存在となって、徳川光圀、保科正之、柳沢吉保の寵遇を受けたという。1659年(万治2年)、碁方の算知の力に預かったとみられるが、彼は20歳で御城碁に初出仕して本因坊道悦に黒番四目勝ち。その結果その後、25年間碁士を務めることになった。そして、その後、彼は人生の転機を迎える。その経緯はこうだ。
それは霊元天皇が土御門泰福に改暦を命じたことに始まる。土御門泰福は既述の通り、算哲(春海)が暦法と陰陽道を学んだ師だ。そこから、様々な事情や経緯はあったが、結論としては1684年(貞享元年)、算哲の手になる日本人最初の暦「貞享暦」が採用されたのだ。このことが、算哲のその後の運命を大きく転換させた。「貞享暦」の採用により、算哲は碁方から天文方に移り、新規召し抱え250石の禄を受け、渋川春海を名乗った。その後、渋川家は天文方として代々続き、碁方としての安井家は算知の系統で栄えていった。
ところで、当時の日本の暦事情はどうだったのか。江戸時代の暦は月を中心とし、1年を12カ月か13カ月とした「太陰太陽暦」だった。この暦では新月の日が月初の1日(ついたち)にあたる。そこで、日食は必ず1日に起こらなければならず、それに失敗すると、時の幕府の権威が失くなってしまうというわけだ。そのため、戦乱の時代から世の中が落ち着くと、暦に関心が持たれるようになる。当時、平安時代から使用されていた「宣明暦」による日食の予報は外れることがおおかったようだ。
そこで、当時盛んだった和算の視点から暦の検討が行われるようになった。1673年、春海は「授持暦」で改暦を行うことを上奏したが、運悪く1675年の日食は授時暦では当たらず、宣明暦では当たったのだ。このため、改暦は却下された。だが、春海は自ら太陽高度や星の位置を測り、前回の日食の予報の失敗の原因が、中国と日本の経度の差にあること突き止めた。そして、独自の方法で授時暦に改良を加えた「大和暦」をつくり、1683年に再び上奏した。しかし、これも採用されず、衆議は明の「大統暦」の採用となった。
春海の改暦運動は行き詰まった。だが、まだ道は残されていた。彼は囲碁方として幕府に仕えていたため、そのお勤めの中で会津の保科正之、水戸光圀など有力者と知り合っていたのだ。この強力な人脈が春海に味方した。保科正之や水戸光圀らは春海の改暦運動を後押し、明の大統暦と大和暦の優劣を天測で競うことになったのだ。結局ここで大和暦の優秀さが証明され、1684年(貞享元年)、大和暦(=「貞享暦」)が採用されることに決定、1685年(貞享2年)から施行されたというわけだ。
(参考資料)冲方 丁(うぶかた とう)「天地明察」