森田無絃 世にも稀なブスが射止めた尊皇派の奇人学者森田節斎の妻の座

森田無絃 世にも稀なブスが射止めた尊皇派の奇人学者森田節斎の妻の座

 森田無絃(もりたむげん)は、幕末から明治にかけて生きた関西の女学者だ。当時としては珍しい、女性の学者が生まれるについては、彼女自身が非常な学問好きだったことはもちろんだが、幼いころ痘瘡を患ったこともあって、世にも稀なブスだったため、彼女の父が恐らく嫁の貰い手がない娘を不憫に思い、せめて本人の好きなことをさせてやりたいと考え、親しい学者に娘を預けたためだ。

 森田無絃は摂津国高槻藩(現在の大阪府高槻市)藩士、小倉藤左衛門(おぐらとうざえもん)の娘だ。本名は琴子。小倉琴子は幼いころ痘瘡を患い、稀に見る不器量な娘だった。同じ女に生まれて、どうしてこうも違うのだろうと恨み言を言いたくなるほどだったという。ただ、彼女は非常に学問が好きで、娘時代から「秋花園(しゅうかえん)」という号を名乗っていた。森田無絃の生没年は1826(文政9)~1896年(明治29年)。

 父の藤左衛門は娘の学問好きを見込んで、親しい大坂の学者、藤沢東畡(ふじさわとうがい)のところに預けた。不器量な顔に生まれた娘に、せめて女学者として、名でも立ててくれれば、それなりの生き方ができるだろう-と考えたからだ。

 琴子が師とした藤沢は、日本の国体にも深い関心を寄せ、「天皇の系統による国体は、孔子の学説に叶っている」と唱えていた。琴子は学問を学びながら、藤沢家の家事の手伝いをするという、いわゆる内弟子だった。藤沢のもとには数多くの男の学生がいた。琴子は、藤沢が学問を教え始めると、その若い男の学生たちの後ろで、ひっそりと師の教えを聴いていた。だが、若い男子学生で、琴子に関心を寄せる者は誰もいなかった。琴子の器量が悪かったので、家事のお手伝いさんが、暇をみて先生の学問を片隅で聞いているのだろう-という程度にしかその存在を考えなかった。

 しかし、娘の琴子にとっては、そうした現実はショックだった。やはり同世代の男に目を向けてもらいたい。それがないため、彼女は次第に孤独になっていった。そうなると、自分でつけた「秋花園」という名前が、何か空々しくなった。美しくもないのに、秋の花の園などと名乗ることが、おこがましくも感じられた。そこで、彼女はその後、「無絃」と名乗るようになった。無絃の「絃」は琴に張った糸のことだ。自分の名が琴子なので、「絃の無い琴」という思いを込めたのだ。

 そんな琴子にとって、予想もしていなかったことが起こる。琴子を嫁に貰いたいという変わった男が現れたのだ。琴子が29歳のときのことだ。夫となったのは大和国(現在の奈良県)の儒学者、森田節斎(せっさい、44歳)だ。森田節斎は、幕末の“奇人学者”の一人だ。大和・五条の医者の息子に生まれた彼は、家業を継がないで、学問を修めた。世の中を鋭く見る目も持っていて、時世に合わせた学説を唱えるので、人気があった。そして、彼は大坂から関西地方を転々として歩き回った。頼山陽と非常に仲良くなった。江戸へも出て学んだ。後には、節斎の学問を慕って、長州(現在の山口県)の吉田松陰をはじめ遠くから訪ねてくる門人が何人もいた。

 節斎の学説は、尊皇論だ。ただ、彼は詩人だったので、尊皇倒幕を現す具体的な方法まで教えることができなかった。端的にいえば、若者たちを煽動して歩いていたのだ。ただ、1854年(安政元年)、44歳になっていたが、まだなぜか独身だった。高槻藩の鉄砲奉行に友人がいた。その友人の伝手で琴子のことを聞き、その彼女が藤沢の内弟子になっていると教えられた。節斎は藤沢とは旧知の仲だった。

 そこで、節斎はすぐ藤沢を訪ね、琴子を妻にしたい旨伝え、琴子本人と会った。そして、思わず心の中でアッと声をあげた。余りにも不器量だったからだ。だが、彼はそんなことでへこむような男ではなかった。琴子を藤沢門下一の女学者よ、と名指したうえで、節斎は「失礼だが、その器量で私以外の誰のところに嫁に行こうと考えておられますか?」と切り出した。押し付けがましい言い方だった。が、琴子は逆らわなかった。師の藤沢から節斎の噂を嫌というほど聞いていたからだ。藤沢は節斎を誉め称えていた。その本人にいま会っているのだ。琴子は、節斎を見返しながら、「いま日本で第一の文章家だとうかがっております森田節斎先生が、私を妻にしてくださるのでしたら、私は半分は師、半分は夫として仕えます」と答えた。

 節斎は琴子と結婚した。友達が「節斎先生、えらい美人をお貰いになったそうだな?」とからかった。節斎は平然と笑っていた。そして、自分のつくった俳句を示した。『どぶろくも 酒とおもえば 酒の味』これには友人たちも大笑いした。しかし、どぶろくに例えながらも、決して琴子をばかにしていないことを知って、それ以後はからかわなかった。 事実、節斎は琴子を尊敬していた。その学殖の深さと、文章力の確かさは、時折節斎を超えた。

 大和・五条は南北朝時代には南朝と縁の深いところだ。尊皇精神は脈々と続き、節斎にもその血は流れていた。節斎は付近の農民たちを集めて、いつか天皇の役に立つ兵士を育てようと、集団訓練を始めた。ところが、節斎にとっては想定外のことが起こった。中にいた過激派が京都の公家、中山忠光を担ぎ出し、「天誅組の乱」を起こしたのだ。乱はすぐ鎮圧されたが、幕府側は「この乱を裏で煽動したのは、森田節斎という勤皇学者だ」と狙い始めた。

 節斎と琴子は、五條にいられなくなって、中国地方に逃れた。倉敷で塾を開いた。このころから、節斎と一緒に弟子たちを教えていた琴子の発言力が強くなった。弟子を選んだり、あるいは追放したりすることに、琴子が干渉した。ある身持ちの悪い弟子をめぐって二人は言い合いになり、節斎は琴子を離縁してしまった。生まれた息子を節斎のもとに置き、傷ついた琴子は大坂に戻って、小さな塾を開いた。もう一人の女学者として十分に生活できた。一方、子供の面倒をみながら、倉敷にもいられなくなった追われる身の節斎は、放浪生活を続けた。そうなると、節斎の頭の中には琴子の姿がちらついた。

 森田節斎は、遂に幕府の権力に屈した。転向宣言をしたのだ。節斎の号を「愚庵(ぐあん)」と改めた。やがて、幕府が倒れた。明治維新になると、節斎と親しかった、いまは新政府の役人になっている春日潜庵(かすがせんあん)が心配して、節斎を探し回った。そして、「琴子さんのところに戻れ」と説得した。二人を迎えた琴子は、育った息子を抱きしめて泣き続けた。節斎は「やっと琴のところに戻ってきた」といった。涙の顔をあげた琴子はこういった。「いいえ、私は琴でも絃がありませんでした。あなたが私の絃だったのです。絃の無い毎日は、本当にさびしゅうございました…」。負け惜しみの強かった節斎は、頷きながら、思わずホロリと涙を落とした。家族の“きずな”が復活した瞬間だった。

 森田無絃の主な著作に『地震物語』『呉竹一夜話』などがある。

(参考資料)童門冬二「江戸のリストラ仕掛人」