小姉君 蘇我氏台頭に貢献したが、姉とは対照的に悲運の途たどる

小姉君 蘇我氏台頭に貢献したが、姉とは対照的に悲運の途たどる

 小姉君(おあねのきみ)は蘇我稲目(いなめ)の娘で、同様に欽明天皇の妃となった姉・堅塩媛(きたしひめ)とともに、大和朝廷における蘇我氏の勢力台頭および権力拡大に貢献した女性の一人だ。小姉君は、欽明天皇との間に5人の皇子・皇女を産んだ。茨城皇子(うばらきのみこ)、葛城皇子(かずらきのみこ)、穴穂部間人皇女(あなほべの はしひとの ひめみこ、聖徳太子の母)、穴穂部皇子(敏達天皇の弟)、泊瀬部皇子(はつせべのみこ、後の崇峻天皇)がそれだ。ただ後年、この小姉君系の皇子たちは悲しい運命をたどった者が多く、姉の堅塩媛系と明暗を分けた。

 蘇我氏は古代史における最大の氏族で、馬子の時代から蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)などが大王家に対して専横を極め、大化改新で滅ぼされたという悪のイメージが強い。だが、この蘇我氏、実は6世紀初頭に稲目が突然、大臣(おおおみ)として出てくるまでは、歴史に登場してくることもあまりなかった謎の多い氏族なのだ。突然、勃興して、古代史の一番のキーポイントを握る存在となった割には、『古事記』『日本書紀』における稲目以前の記述があまりにも簡単すぎる。

『古事記』や『公卿補任(くぎょうぶにん)』などをもとに、蘇我氏の系譜をたどってみると、祖先は伝承の人物・武内宿禰(たけしうちのすくね)の子、蘇我石川宿禰から始まり、満智(まち)-韓子(からこ)-高麗(こま)-稲目と続く。満智からが実在の人物とされている。韓子、高麗も百済の名前なので、蘇我氏は百済系渡来人の総領家として漢(あや)氏や秦(はた)氏を従え、大伴氏や物部氏らの軍事家系ではなく、財政を管理する新しい官僚として登場。大和政権の財政を仕切った氏族だった。

 蘇我氏台頭のいま一つの大きな要因が、聖徳太子の事績にあるように仏教を、熱意を持って取り入れたことと、稲目が大王=天皇の妃に堅塩媛・小姉君の2人の娘を入れて大王家の外戚になったからだ。馬子時代以降の蘇我氏隆盛の要因は、欽明天皇に嫁いだ堅塩媛と小姉君の姉妹による閨閥づくりにあるが、この姉妹のその後の生涯はなぜか明暗を分けた。用明天皇、推古天皇が皇位に就き繁栄を続ける姉・堅塩媛系に対し、小姉君系はどうしたわけか悲運をたどった。

   小姉君系のその一人、崇峻天皇は同じ蘇我氏一族でありながら、馬子の指示を受けた東漢直駒(やまとのあやの あたいこま)に殺害されているし、聖徳太子も母方は小姉君系であり、太子の皇子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)もやがて、入鹿(馬子の孫)に一族を滅ぼされているのだ。馬子-入鹿らはなぜ、同じ父、そして祖父にあたる稲目の娘・堅塩媛系を正統視し、小姉君系を排斥・排除していったのか。

     もちろん、これには有力豪族、物部氏との対立を抜きには語れない。対立の構図は「堅塩媛-用明天皇-蘇我馬子」と「小姉君-穴穂部皇子-物部守屋」だ。587年(用明2年)、用明天皇が逝去。守屋は皇位継承者に穴穂部皇子を推した。兄弟相続なら、用明天皇の次は穴穂部だ。これに対して、謀略家の馬子は兄弟相続の慣習を踏まえながらも、小姉君系の勢力を分断させるという秘策に出た。馬子は穴穂部の同母弟の泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)を担ぎ出したのだ。そして、穴穂部と当時、険悪な状態にあった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ、のちの推古天皇、母は堅塩媛)に取り入り、穴穂部皇子と宅部皇子(欽明天皇の皇子、穴穂部派)の殺害の詔(みことのり)を出させて、この二人を殺してしまったのだ。この結果、守屋は擁立すべき穴穂部皇子を失い、いよいよ孤立していった。

 こうしてみると、『日本書紀』に記されている同母姉妹の堅塩媛と小姉君は、やはり真っ赤なウソで、二人は実は姉妹ではなかったのではないか-と考えざるを得ない。確かに系図上は姉妹として記されてはいるのだが、これは体裁を繕っているに過ぎず、何か重大な謎が隠されているに違いない。確かに、馬子にとって、対立していた物部守屋との戦いを勝利に導くための策略重視の側面を割り引いても、どうして実姉(小姉君)が産んだ皇子たち(=馬子にとっては甥)をあれほど簡単に殺害できるのか。容易に答えは出てこない。とすれば、堅塩媛と小姉君は同母の姉妹ではなく、小姉君は馬子にとってよほど対立関係にあった人物を母に持っていたのではないかと推察される。

   小姉君の生没年は不詳。史料によると、小姉君は絶世の美女だったようだ。気品にあふれ、はたを圧する、近寄り難いほどの容姿・容貌に恵まれていたと思われる。これに対し、姉の堅塩媛は並みの容貌だった。そこで、小姉君に対し、逆らい難い嫉妬心が生まれ、堅塩媛本人はもとより、この姉に同情した弟・馬子の意を受けた忠臣・関係者が、小姉君を孤立化させる動きをしていったとの指摘もある。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「古代史への旅」、井沢元彦「逆説の日本史②古代怨霊編」、神一行編「飛鳥時代の謎」永井路子「冬の夜、じいの物語」