周防内侍 四代の後宮に出仕し内侍として仕えた、宮中で人気の女官

周防内侍 四代の後宮に出仕し内侍として仕えた、宮中で人気の女官

 周防内侍(すおうのないし)は、平安時代後期の女流歌人だ。後冷泉・後三条・白河・堀河の四代(在位1045~1107年)の62年間、後宮に出仕し、内侍として仕えた女官だ。宮仕えが長期にわたり、歌がうまかったので、宮中でもいい顔だったとみられる。その証拠に、多くの男が彼女宛てに歌を贈ったことが、勅撰集に見い出される。

 周防内侍は周防守・平棟仲(継仲の説もあ)の娘で、ここからその呼び名が出た。本名は仲子(ちゅうし)。生没年は不詳。四代の天皇に仕えた後、1108年(天仁元年)以後、病のため出家し、1111年(天永2年)までの間に没したとみられる。歌は『後拾遺和歌集』『金葉集』『詞花集』『新古今和歌集』など勅撰集に35首が収められている。

 「春の夜の夢ばかりなる手枕(たまくら)に かひなく立たむ名こそ惜しけれ」

 これは『千載和歌集』『小倉百人一首』に収められている歌だ。歌意は、春の短い夜に、夢をみるくらいのほんの短い時間、あなたの腕を借りて枕にすることで、つまらない噂を立てられては、口惜しい限りです。

 『千載和歌集』雑の部に、「二月(きさらぎ)ばかり月のあかき夜、二条院にて人々あまた居あかして物語などし侍りけるに、内侍周防より伏して枕もがなと忍びやかにいふを聞きて大納言忠家、是を枕にとて、腕(かひな)を御簾(みす)の下よりさし入れて侍りければ、よみ侍りける 周防内侍」と詞書(ことばがき)がある。どのような状況のもとで、この歌が詠まれたかがよく分かる。当時の宮廷人の趣味的、遊蕩(ゆうとう)的な雰囲気がよく表現されている。

 早春の月夜、徹夜で女房らがしゃべり合う。「枕がほしいなあ」と周防内侍がいう。通りすがりの大納言・藤原忠家が「これを貸しましょう」と腕を御簾の下から差し入れた。そのたわむれに対して、「これくらいのことで、浮き名を立てられてはやりきれません。せっかくですが、お断りします」と答える代わりに、この歌を詠んだのだ。周防内侍の当意即妙の才気がみなぎっている。

 そして、この続きがある。忠家は

 「契ありて春の夜深き手枕を いかがかひなき夢になすべき」と返している。歌意は、あなたと私との間はさきの世からの縁で、ひとかたならぬ仲です。春の夜更けに、私の手をあなたが枕にするのです。どうしてつまらない夢に終わらせましょうか-という意味だ。

 こういう宮廷の男女関係のありようは自由といえば自由だが、ふしだらになる一歩手前で品を失わなかったのは、女の誇り高い態度もさることながら、それを許した男の女に対する、尊敬を失わない距離の取り方に負うところが大きい。男が大納言という高位の殿上人で、女が受領階級出身の女房であることを考えれば、これは奇跡に近いことだ。

 平安時代、紫式部(一条天皇の中宮彰子に仕えた)や清少納言(一条天皇の中宮定子に仕えた)の例を持ち出すまでもなく、中級貴族ぐらいまでの子女が宮中に出仕することはよくあることで、決して珍しいことではない。だが、その期間が四代の天皇にわたって60年余にもなると、これは異例のことだ。周防内侍はそれだけの間、宮中に仕えた女官だけに、備わった歌のうまさとともに、内部事情には当然明るく、官僚たちにとって無視できない存在でもあったとみることができる。

(参考資料)曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、高橋睦郎「百人一首」