式子内親王 優れた、数多くの“忍ぶ恋”の歌を詠んだ正統派の女流歌人

式子内親王 優れた、数多くの“忍ぶ恋”の歌を詠んだ正統派の女流歌人

 式子(しょくし・しきし・のりこ)内親王は、第七十七代・後白河天皇の第三皇女だが、11年間にわたり、人間の男と交わってはならないという賀茂(かも)の斎院(さいいん)を務めたため、心に秘めた、藤原定家らとの“忍ぶ恋”の苦しみを詠んだ歌を数多く残した。厳しい禁忌(タブー)のもとに生き、その後は出家し、生涯を終えただけに、世俗の女性の恋とは異なる、忍ぶ恋の歌の真実を歌い上げている。定家とともに、『新古今和歌集』の優れた歌人だ。

 式子内親王の母は、従三位・藤原成子(なりこ、藤原季成の娘)。二条・高倉両天皇、以仁王は兄にあたる。1159年(平治元年)から、二条・六条・高倉の三天皇の11年間にわたり賀茂の斎院を務め、1169年(嘉応元年)病気のため退下した。そして、1194年(建久5年)ごろ出家したとみられる。生涯独身を通した。萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門斎院(おおいのみかどさいいん)などと称された。法号は承如法(しょうにょほう)。生没年は1149(久安5年)~1201年(建仁元年)。

 式子内親王は、明るい宮廷生活を送った女性ではなかった。その生涯は、源平争乱、朝廷・公卿の没落と武家の台頭という、歴史の転換期だった。崇徳天皇、以仁王、安徳天皇その他の人々の不幸な末路をも見た。それだけに、その歌にも、深い悲しみに洗われた人の持つ味わいがあるのだ。

 「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば 忍ぶることの 弱りもぞする」

 これは『新古今和歌集』、『小倉 百人一首』に収められた式子内親王の歌だ。歌意は、私の命よ、絶えるならいっそのこと早く絶えてしまってくれ。このまま生き長らえていると、この恋の苦しさを堪える力がだんだん弱くなって、忍び隠してきた心のうちの思いが、外に現れてしまいかねないから-というものだ。

 下二句では「忍ぶ」「弱る」と歌い込んで、心にまつわりつく恋のきずなをきっぱりと絶ちきれぬ、そうかといって恋の苦しみにも耐えられぬ、女心の哀切さがにじみでている。現代人には理解し難い王朝女性の恋の表現だろう。わが存在すべてを焼き尽くすほどの恋情に焦がれながら、一切を自分一人の中に隠し通すのだ。それは、恋の自然な発露からすれば、一種自虐的なものであり、それだけに相手に対する純粋な憧れの思いは、一層切なく哀しい。

 大岡信氏は「忍ぶ恋の苦しみを歌った歌はおびただしいが、その最も有名なものは恐らくこの式子の歌だろう」としている。

 式子内親王は、藤原俊成に師事して多くの優れた歌を詠んだ。俊成の『古来風体抄(こらいふうていしょう)』は式子内親王に奉った作品といわれる。俊成の息子、定家は1181年(養和元年)以後、折々に式子のもとへ伺候している。一説によると、内親王のもとで家司のような仕事をしていたのではないかともいわれているが、詳細は定かではない。定家の『明月記』にしばしば内親王に関する内容が登場し、とくに死去の前後にはその詳細な病状が記されていることから、両者の関係が相当に深いものであったことは事実だ。

 謡曲『定家』は式子と定家の恋を題材にしたものだが、真偽は不明だ。ただ、『渓雲問答』に次のような記述がある。二人の関係を定家の父、俊成は、ほのかに聞いていたが、あるとき定家の住まいを調べると、この歌を書いた式子の手跡があった。それで真剣になるのも道理だと思って、諌めなかったという。

 式子内親王は『新古今和歌集』には49首採られ、女流歌人中トップ、また入集歌数では第5位だ。小野小町、和泉式部らとともに、女流歌人として和歌の心を正統に継承した人物といえよう。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」、曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、高橋睦郎「百人一首」