皇女和宮 公武合体派の主導による政略結婚の被害者となった悲劇の女性

皇女和宮 公武合体派の主導による政略結婚の被害者となった悲劇の女性

 皇女和宮は、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約の内約があったにもかかわらず、「公武合体」という朝廷と幕府の政治的な都合で、この婚約を解消させられ、第十四代将軍・徳川家茂(いえもち)に嫁した、悲劇の女性となった。和宮の生没年は1846(弘化3)~1877年(明治10年)。皇女和宮は、第百二十代・仁孝天皇の第八皇女として生まれた。生母は勧行院(かんぎょういん)橋本経子。和宮が生まれたときには、父の帝はすでに崩御し、兄の孝明天皇の御代になっていた。

 幕府は、反対勢力に強硬な姿勢を貫き「安政の大獄」を断行した大老・井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺された後、朝廷との融和を図ろうとする「公武合体派」の安藤信正が老中首座となった。安藤は朝廷側の岩倉具視と諮り、十四代将軍家茂の御台所(みだいどころ=正室)に皇女を迎えようとしたのだ。それまで、宮家出身の御台所や御簾中(御三家、御三卿の正室)はあったが、皇女というのは前例がない。

    いや、正確には江戸時代、将軍家と天皇家との縁組がまとめられたことは二度あった。一つは二代将軍秀忠の娘、和子(まさこ)が、第百八代・後水尾(ごみずのお)天皇の中宮として入内している。いま一つは、七代将軍家継と八十宮吉子内親王の縁組がそれだ。父・六代将軍家宣の死去に伴い、わずか4歳で将軍になった家継の相手に決まった皇女・八十宮はまだ数えで3歳だった。婚約の儀式は執り行われていたが、家継がわずか8歳で亡くなったため、両家の関係は婚約のみに終わり、江戸時代初めての天皇家と徳川家の縁組は実らなかったのだ。ただ、すでに結納の儀も済んでいたことから、八十宮は生涯、亡き家継の婚約者として過ごすことを余儀なくされた。

 家茂の相手の皇女候補、実は3人がリストアップされていた。和宮の姉で桂宮を継いだ淑子内親王(32歳)、孝明天皇の皇女・寿万宮(すまのみや、2歳)そして和宮だった。和宮は家茂と同年で、年齢はつりあっていたが、すでに有栖川宮熾仁親王との婚約が勅許になっていた。したがって、一時は寿万宮の成長を待つことに落ち着きかけた。ところが、不幸にして寿万宮が夭折してしまった。そこで、熾仁親王に辞退を強要して、和宮に親子(ちかこ)の名を賜り内親王宣下のうえ降嫁が決まったのだ。

 こうして和宮は16歳で家茂のもとに嫁した。幕府にとって、和宮降嫁による「公武一和」は、単なるスローガンではなく、必死の方策だった。繰り返すが、この結婚は最初から政治主導のものだった。それだけに、幕府を警戒した朝廷は、和宮降嫁にあたってこまごまとした条件を付けていた。①下向後、大奥に御同居の御方がおられないようにする。ただし、例えば天璋院は西の丸、本寿院(十三代将軍家定の生母)は二の丸というように別殿に住まわれるのなら構わない②下向後、天璋院や本寿院と往来や対面などはせず、年始やそのほかの節は、すべて使者で済ませる③別殿の御方から使者を遣わすときは、堂上の娘が使者を務めるとき以外は御目通りをしない-といった内容だ。

    将軍の正室となりながら、その将軍の義母や前将軍の生母との同居を拒否し、往来や対面も使いで済まそうというのだ。さらに使いには、旗本の娘ではなく、公家の娘を立てろという。これでは、大奥に波風が立つのも当然だった。しかし、こうした条件は江戸では全く考慮された形跡がない。京都や政治の最前線で交渉する酒井忠義と、江戸にいる老中とでは、考え方も認識も全く違っていたし、大奥はそうした政治とは無縁の世界だった。幕府の男子役人が何を約束してこようと、大奥には大奥の流儀があるということだったのか。

 勝海舟が回想しているように、初めは和宮と天璋院は大層仲が悪かった。それはお付きの女中が反目しあってことから生じたものだった。和宮が連れてきた女中たちは事あるごとに関東の風儀を笑ったし、大奥にも長い間の伝統に培われた儀礼が確立していた。この「御風違い」による対立や反目は、なかなか解消しなかった。天璋院、和宮、それぞれが将軍家と朝廷の威光を背負っているだけに、それも当然のことだった。

 家茂は1866年(慶応2年)、幕府軍による第二次長州征討の最中、大坂城中で病没した(享年21)から、和宮の結婚生活はわずか4年ほどだった。だが、夫婦仲は睦まじいものだったようだ。また、ともすればぎくしゃくするケースがあった天璋院とも、明治になってからは心うち解けたという。

 家茂の病没後、静寛院宮(せいかんいんのみや)と称した和宮(=親子内親王)が官軍の江戸城総攻撃を前に、東征大総督宮の熾仁親王に交渉して「最後の将軍・慶喜の助命と徳川宗家存続」を実現すべく尽力したのは、徳川家の嫁としての意識が確かだったからといわれている。

 和宮には江戸へ下向するときに詠んだ、次のような歌かある。

「惜しまじな君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」

   彼女は、その身の不運を知りながらも、公武合体の実を挙げるべく下向すると決めた以上、この身に懸けてやり遂げよう-との思いに燃えていたのだ。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、宮尾登美子「天璋院篤姫」、勝海舟 勝部真長編「氷川清話」、司馬遼太郎「最後の将軍」、海音寺潮五郎「江戸開城」