日本政府はアフリカ全土で「稼げる農業」の普及に乗り出す。2014年度から研修や専門家派遣を始め、市場を意識して作付けできる小規模農家を2017年度までに5万人規模で育てる。従来型の食糧援助ではなく、経済活動として農業を育てて、食糧問題の解決や消費者市場の創出につなげたい考えだ。
政府はまず14年度から国際協力機構(JICA)の関西国際センター(神戸市)で、各国の農業省庁や地方政府の行政官を対象にした研修事業を始める。第1弾として5月中にエチオピアやルワンダなど。11月にはカメルーンやモザンビークなど合わせて18カ国向けに実施。生産現場から小売りまで、日本の農産品流通の現場をみてもらう。
その後、研修を受けた行政官らを軸に各国が農村での普及計画を立案する。一方で日本は15年度から研修や専門家のアフリカ各国への派遣を進め、技術指導者を計1000人規模で育成。育てた指導者が、市場動向をみて栽培する作物や作付けの時期を決める方法を農民に伝える。日本が従来取り組んできた稲作技術の普及、灌漑施設の整備も必要に応じて支援する。
アフリカでは人口の過半数が農村に住むが、小規模の農家が多く、農業機械や家畜の利用も遅れている。そのため生産性が低く、穀物を輸入に大きく頼る状況だ。そんなアフリカの人口は50年に約20億人に倍増する見込みで、国際的な穀物市場に大きな影響を与えかねない。国連などでも議題になっている。
月別アーカイブ: 2014年5月
三菱ケミカルが中国農協系企業と15省50カ所で植物工場
三菱ケミカルホールディングスは中国の農協組織と中国全土で野菜栽培システム「植物工場」の販売に乗り出す。同社傘下の三菱樹脂アグリドリーム(東京都中央区)が、江蘇省政府が直轄する「江蘇省チャイナコープ」の子会社と合弁で、5月下旬に無農薬野菜を自動栽培するシステムの販売会社を設立して営業を始める。
すでに河北省や山東省、四川省、広東省などから打診があり、2017年までに沿岸部、内陸部合わせて約15省の50カ所で植物工場の販売を見込む。中国で日本企業が商業ベースで植物工場事業を大規模展開するのは初めて。
これまで三菱樹脂アグリドリームと江蘇省チャイナコープは無錫市で植物工場の実証実験をし、無農薬野菜を育てて高級スーパーやデパートで試験販売。市価の5倍の価格でも売り切れるなど好評だった。消費者の安全な農作物への関心が予想以上に高いと判断し事業化に踏み切った。
農業法人をまとめるチャイナコープは中国各地にあり、中でも江蘇省の組織は売上高約5兆円と巨大で影響力を持つ。各省のチャイナコープ網を活用し中国全土の農業法人に販売する。当面メドとする15省で50カ所の植物工場の合計の野菜生産能力は年間約5000㌧。中国の無農薬野菜など高級野菜市場の1割弱に相当する。
三菱ケミカルの植物工場はコンテナ式装置で苗を育て、ビニールハウスに苗を移して太陽光と養液で水耕栽培する。コンピューター管理が特徴で、温度や湿度、空気の流れを計画し、水や養液、肥料を流して自動栽培する。害虫が入らない高機能フィルムを使うことで野菜を無農薬で育てられる。ホウレンソウだと露地栽培の約5倍の年20回収穫できる。
工場システム一式で3000平方㍍当たり販売価格は約1億円。農業フィルムなど工場建設に必要な部材を現地調達して、日本国内より数割コストを抑える。
大阪ガス財団の2014年度助成事業は総額2500万円
大阪ガス財団の2014年度助成事業は総額2500万円
大阪ガス国際交流財団はこのほど、2014年度の助成事業の総額を2500万円と決めた。この主な内訳は東カリマンタン州ボンタン市の小、中、高校に教育機材の助成、バンダアチェの移動図書館への図書贈呈に372万円、インドネシア大、バンドン工科大、ボゴール農業大、サラワク大の試験研究への助成金520万円、ボンタン市の高校、大学生やバンダアチェの小、中、高校生、ムラワルマン大やサラワク大の学生を対象とする奨学金支給867万円など。
同財団はインドネシアの学校に毎年助成金を贈っており、この教育援助は今年で23年目。国際親善への寄与を目的に教育機材の助成や奨学金支給を続けてきている。
台湾・新北市と沖縄市が無料WiFi相互利用サービス
ブータン料理に福井の児童ら挑戦 一流シェフが手ほどき
ムスリム向けに鶏スープの日本のラーメンを提供
ムスリム向けに鶏スープの日本のラーメンを提供
豚骨ラーメンが主流のインドネシアで、ムスリム向けに鶏スープベースの日本のラーメンを低価格で親しんでもらおうと意気込んでいるラーメン店がある。オーナーの松永基希さん(29)が2013年12月、東ジャワ州スラバヤ市内の「ロイヤルプラザ」に店を構えた「ラーメン将軍」だ。
鶏スープベースのオリジナル、ピリ辛、カレー、味噌の4種類、サイズは小、大の2つ。価格はオリジナル小サイズの9000ルピアから味噌大サイズの1万9000ルピアまでと、2万ルピア以下で日本ラーメンを味わうことができる。味玉や照り焼きチキンなどトッピングも充実させた。
インドネシアでは現在、「博多一幸舎」や「山頭火」「山小屋」など有名ラーメン店が出店しているが、華僑をターゲットに豚骨を煮込んでつくる豚骨ラーメンが多い。価格が高くても受け入れられ、人気があるからだ。
しかし、松永さんはインドネシアの大多数を占めるムスリムに目を向ける。ムスリムにラーメンを提供するには豚は使わず、低価格設定と味が重要だと強調する。食材はすべて国内で調達し味噌などもインドネシア産だ。現在はまだハラル認証は取得していないが、手続きを始めるという。
開店して半年。オープン時と比べ売り上げは約3割アップし、週末には平均100人の来客があるという。今後はFC店を増やし、東ジャワ州を皮切りにジャワ島全域への進出を目指すと意気軒昂だ。じゃかるた新聞が報じた。
レオナルド・ダ・ヴィンチ:偉人たちの上に聳え立つ万能の天才
レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネサンス期の偉人たちの上に聳え立つ万能の天才
レオナルド・ダ・ヴィンチは、西洋絵画史における最大の芸術家であり、独創的な科学者・技術者としてよく知られている。彼は私生児として生まれたが故に、記録によるといわゆる正当な教育を受けていない。この正当な教育を受けていないことと関係があると指摘する見方もあるが、彼は左利きで、多くの鏡面文字で書かれた書面を残している。鏡面文字は鏡に映った文字であり、一見しても何が書かれているのか、容易に判読できない。彼にはその幅広い領域の作品に多くの不明な点があるが、彼がどうしてこの鏡面文字を書けるようになったのか、またなぜ鏡面文字の書面を残したのかなど、謎は多い。
しかし、彼は絵画はもとより、彫刻、建築、土木はじめ、人体その他の科学技術に通じ、航空についても高い関心を持ち、驚くことに幅広い領域で後世に現実化する、地に足のついた、確実に実現可能な「未来予想図」を数多く書き残している。どうしてそのようなことができたのか。彼は、まさにイタリア・ルネサンス期に出現した、数多くの偉人たちの上に、さらに高くそびえ立つ、万能の天才だった。生没年は1452~1519年。
レオナルド・ダ・ヴィンチはイタリア北部トスカーナ地方の首都フィレンツェから20km余のヴィンチという小さな村で私生児として生まれた。父はセル・ピエロ・ヴィンチ、母は村娘カテリーナ。家は代々、13世紀以来公証人を務め、暮らしは楽な方だった。父ピエロは当時は独立して、フィレンツェの裁判管区の公証人となっていた。25歳の彼はカテリーナと呼ぶ村娘と恋におち、レオナルドが生まれたのだ。しかし、ピエロはカテリーナと別れ、同じ身分の娘アルビエーラと結婚した。一方、カテリーナもヴィンチ村の農夫に嫁いだ。したがって、レオナルドは父ピエロとカテリーナの”かりそめの恋”によってこの世に生を受けたわけだ。
父ピエロは才覚があり、その後、着々と地位を築き財産を増やしていったものの、なぜか芸術的才能はほとんどなかった。カテリーナは名もない村娘にすぎなかった。そんな両親から、どうして天才ダヴィンチが生まれたのか、全く謎としかいえない。余談だが、父ピエロは第一、第二の妻とは子をもうけなかったが、50歳の超えてから結婚した第三、第四の妻とは一ダースに近い子女をもうけるほどの絶倫男ぶりをみせた。これに対し、レオナルドは一生を独身で通し、およそ女性とは縁がなかった。
ところで私生児と聞くと、何か暗い運命を連想しがちだ。が、レオナルドの場合、私生児故に日陰者になるとか、世間からつまはじきされるとかいった心配はなかった。ルネサンス時代のイタリアでは、そういう出生は別に恥辱とは考えられなかったのだ。多くの著名な家門はじめ芸術家にも、なんらかの不純な血筋が入り、あるいは私生児というケースも決して少なくなかった。当時のイタリアでは個人の価値と才能が、他の西欧諸国の法律や習慣よりも幅を利かしていた。ヴィンチ村で幼少期を過ごしたレオナルドは、1466年ごろ画才を認められ、花の都フィレンツェのヴェロッキョの工房で修業することになる。レオナルド14歳ぐらいのときのことだ。このとき仲介したのが父ピエロだった。レオナルドの画才を知った父が、かねがね懇意のヴェロッキョを訪ね作品を見せ、レオナルドの並々ならぬ才能を認めたヴェロッキョが受けいれたからだ。
ヴェロッキョは優雅で洗練された技巧を示し、フィレンツェ派の頭目の一人で、彫刻家のほか画家、金細工師としても名を成し音楽や数学にも通じる万能人だった。したがって、彼の工房はさながら芸術家養成所の観を呈していた。ここでは顔料の科学的製法、油絵絵具の改良、衣服のひだの研究、青鋳銅造法などの新しい試みが行われ、明暗法や遠近法の研究も進んでいた。この工房には先輩格でボッティチェリ(1444~1510年)らも出入りしていた。フィレンツェ芸術文化の一端を担い、活気に満ちた工房に入ったことは、レオナルドの修業にどれほど寄与したことか、計り知れない。
レオナルドはヴェロッキョの工房で徒弟としてあらゆる基礎的技能を修め、1472年に徒弟時代を終えて、フィレンツェ画商組合に加わった。しかし、独立は難しく、1478年までは引き続き工房にいて仕事を手伝った。この助手時代にレオナルドは早々と天稟(てんびん)を現した。例えば、1473年8月5日の日付け入りの「風景素描画」だ。故郷ヴィンチ村付近のアルノ渓谷を写生したものと思われるが、右手の断崖絶壁の物凄さ、流れ落ちる滝の勢い、滝つぼの奔流、左手の堡塁(ほうるい)を巡らされた町の佇まい、その間を蛇行する川、遥かに展望される平野の趣きなど、これらすべてがレオナルドの周到な自然観察を示しているのだ。中世の型にはまった風景画、人物の単なる添えものとしての風景ではなかった。
師ヴェロッキョとの共作と伝えられる「キリスト洗礼図」にも、レオナルドならではの新鮮な手法がみられるのだ。例えば左端の天使の衣服のひだ。レオナルドはこの衣服のひだに特別の関心を払い、多くのデッサンを残している。また、豊かで美しい天使の髪だ。彼は美しい毛髪に異常なまでの愛着を持ち、毛髪美を表現するために工夫に工夫を重ねた。これは、写実的で15世紀の様式に従っているヴェロッキョの天使と比べると、その違いが際立つ。ヴェロッキョはこの絵を描いてからは、自分の本来の領域である彫刻に専心し、絵らしい絵は描いていない。彼は年少の弟子のレオナルドの天分にショックを受けたのだ。
1482年、レオナルドはフィレンツェからミラノへ移る。30歳のときのことだ。ミラノ公国を治めるスフォルツァ家の当主・ルドヴィーコ・スフォルツァ宛てに、レオナルドは自分が軍事技術者で発明家であることをアピールする自己推薦状を書き、これを受け容れたルドヴィーコに17年間にわたり仕えた。画家・芸術家は当時、低くみられていたため、幅広い才能に恵まれたレオナルドはあえて画家を前面に出さなかったのだ。その後、次々と出される軍事技術上の発明研究命令に応えたレオナルドは、スフォルツァ家当主の信頼を得て、友人扱いを受けるようになった。
1499年、ルイ12世率いるフランス軍の侵攻でミラノが陥落。やむなくレオナルドは1500年にマントヴァへ、さらにヴェネツィアに、そして暮れにフィレンツェに戻った。1502年8月からレオナルドは、ローマ教皇軍総指揮官チェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の庶子)の軍事顧問兼技術者として働いた。しかし、8カ月程度でフィレンツェに戻り、アルノ川の水路変更計画やヴェッキォ宮殿の壁画「アンギアリの戦い」(未完)などの仕事に従事した。
1506年、スイスの傭兵がフランス軍を追い払うと、マクシミリアン・スフォルツァが治めるミラノに戻った。そこで、後に生涯の友人となり、後継者ともなったフランチェスコ・メルツィに出会った。1513~1516年ごろはミラノ、フィレンツェ、ローマをたびたび移動していたと思われる。当時、ローマにはラファエロやミケランジェロが活動していた。ただ、ラファエロはレオナルドの絵を模写し、影響を受けているが、ミケランジェロとの接触はほとんどなかったとみられる。
1515年に即位したフランス王フランソワ1世は、同年ミラノを占領した。このときレオナルドはボローニャで行われたフランソワ1世とローマ教皇レオ10世の和平交渉の締結役に任命され、フランソワ1世に出会った。運命的な出会いだった。以後、レオナルドはよほどの信頼を得たのか、このフランソワ1世の庇護を受けることになる。1516年からは王の居城、アンボワーズ城に隣接する、フランソワ1世が幼少期を過ごしたクルーの館に招かれ、年金を受けて余生を過ごした。そして3年後の1519年、レオナルドはそのフランスのクルーの館で亡くなった。享年67歳。
完成したものは極めて少ないが、レオナルドは絶え間なく仕事をした。しかも、前人未到のものばかりだ。芸術分野以外では建築・土木、科学技術などに通じていたが、まだほとんど触れていない人体・解剖学について少し記しておきたい。
レオナルドが解剖学に興味を持ったのはヴェロッキョの工房にいたときからだが、第一ミラノ時代にかなりの研究が進み、多くのスケッチを残した。絵画を描く前提を通り越して、解剖学そのものが課題となったのだ。1489年には頭蓋骨についての研究を行い、90年代には循環器系の図や縦断面による男女性交図まで描いた。サンタ・マリア・ヌボア病院を利用して老人の死体を解剖し、老人の血管、動脈硬化、肝臓の硬化について克明なノートを書いた。
第二ミラノ時代はフランス王の保護で生活が落ち着いたので、水力学と並んで解剖学の研究に打ち込んだ。また、ミラノの解剖学教授マルカントニオ・デルラ・トルレに会って教えを受けた。この期には骨と筋肉との運動、胸と胴の器官、心臓および血流、発生などの研究が中心課題となった。
最後にレオナルドの二大名作について、少し記しておく。
<最後の晩餐>レオナルドがいつごろから描き始めたか、正確には分からない。絵のあるサンタ・マリア・デルレ・グラツィエ修道院はミラノ城の近くにあり、ルドヴィーコ・スフォルツァは1492年に修道院の食堂を改築するようにブラマンテに命じ、この食堂の後壁にロンバルディア派の凡庸な画家モントルファノ(1440~1504年)がキリスト磔刑図を描いた。これは1495年に完成された。そこで食堂の前壁にレオナルドが「最後の晩餐」を描くように命じられたのだ。したがって、制作の開始を1495年ごろと推定できる。
「最後の晩餐」の主題は周知のとおり、『ヨハネ伝』第十三章第二十一節以下にみえる。イエスが弟子たちのうちの一人が、イエスを裏切ることを告げるくだりだ。この劇的な瞬間は、レオナルド以前にも多くの画家たちによって描かれた。しかし、レオナルドはそれらとは根本的に違った。
レオナルドは二つの点で伝統から離れた。彼はユダを孤立から取り出し、それを他の人々の列の内に置き、次いでヨハネが主の胸に横たわるというモチーフから解放されている。そして、中央に他の何人とも似ない主宰的人物、キリストを配置し、十二人の使徒を左右にそれぞれ二つの三人のグループを形作った。まさにレオナルドの新機軸だった。中央のキリストはもはや死を覚悟してか、従容としている。これに反して、他の使徒たちはあるいは驚き、怒り、悲しみ、疑っている。実際、レオナルドほど人間心理の表れである、笑う、泣く、怒る、絶望するなどの表情をつぶさに観察した画家はいない。「最後の晩餐」には、この観察眼が見事に結実しているのではないか。
ところで、西洋絵画史上屈指のこの名画くらい、数奇な運命にもてあそばれたものはない。絵が完成したとき、人々はどんなに感嘆したことだろう。修道院食堂の壁に描かれた横9m、高さ4mの壮大な晩餐図は、色彩といい、明暗といい、構図といい、すべてが画期的だった。だが、その画期的試み故に、修道院食堂の外部条件の故に、さらには後世の放置や破壊の故に、レオナルド畢生の傑作は無残にも損傷されていった。
元々、修道院は湿地に建てられていたことに加え、壁が硝石を含む石からできていた。そのため、湿気が絵を侵し、画面を傷つけていったのだ。その結果、油絵の微妙な色調とかやわらかな味を台無しにした。その後も16世紀から18世紀にかけて数度にわたる戦火をくぐり、また無能な修正が行われるなど、この名画には全く不似合いな、悲惨な状況に遭遇し続けた。
<モナリザ>モナリザはレオナルドの代表作であるばかりでなく、世界中の人が知っている西洋絵画史上の最高傑作の一つであることはいうまでもない。それでいてなぜか、この絵には不明な点が少なくない。モナ・リザ(リザ夫人の意)は、リザ・ディ・アントニオ・マリア・ディ・ノルド・ジョルディーニという長い名の、ナポリの上流階級出の夫人だ。フィレンツェの富裕な市民フランチェスコ・デル・ジョコンダの三度目の妻となった。それ以外のことは一切分からない。
レオナルドはチェザレ・ボルジアのもとから戻った1503年初めに、肖像画に着手した。当時24、25歳だったと思われる。マントヴァのゴンザガ侯妃で、当時世界第一等の女性といわれたイザベッラ・デスケの懇願にも応じなかった彼が、「モナリザ」の制作を引き受けたのは、何か特別な理由があったのか。レオナルドにとって夫人が理想の女性と映ったのか、その点も判然としない。ともかく彼は「アンギアリの戦い」制作の合い間にも、「モナリザ」に手を加え、ミラノに赴くまで絵筆を置かなかったし、フランスにも持参したくらいだ。黒いヴェールを被り、眉毛のない顔、横向きの姿勢など、この肖像画ではすべてが中央のモナリザの微笑に集中するといっていい。この微笑が何を表そうとしているのか。その解釈は古来、様々だ。
いずれにせよ「モナリザ」がレオナルドの創作の頂点を成し、ゴシック初期以来300年にわたって西欧の芸術発展の核心に迫る作品だったことは誰もが認めるところだ。完成作ではなかったが、会心の作だった。この絵はフランスのフランソワ一世が直接レオナルドから買い上げ、以後フランスの所有となった。しかし、度々の洗滌や修理で亀裂が生じ、原作の繊細な描写を消してしまった点が惜しまれる。
(参考資料)西村貞二「レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネサンスと万能の人」
藤原薬子 平城天皇の威を借り、兄と背後から政治をろう断した悪女?
藤原薬子 平城天皇の威を借り、兄と背後から政治をろう断した悪女?
藤原薬子は平城(へいぜい)天皇が皇太子(安殿親王)のとき、長女を皇太子に仕えさせるため、付き添いとして宮中に上がったところ、母の薬子も皇太子の目にとまり、愛を受けるようになってしまう。彼女は中納言藤原縄主との間に三男二女と5人の子を産んでいたのにだ。相当、魅力にあふれた、すばらしい中年女性だったのだろう。
最初は父で時の桓武天皇の怒りに触れ、薬子は宮中から追放される。ところが、延暦25年(806)3月、桓武天皇が崩御すると宮廷の女官の資格を取ったうえで再び宮中に復帰、後宮を束ねる尚侍(ないしのかみ)に就任する。 安殿親王は延暦25年(806)5月即位し、年号を大同と改め平城天皇となった。その翌日、平城天皇の12歳年少の同母弟、賀美能親王を皇太子に立てた。平城朝がスタートすると、薬子は天皇の威を借りて傍若無人の振る舞いに出る。薬子の兄の藤原仲成までもが勝手な行動に出て、大いに周囲のひんしゅくを買った。薬子が天皇の寵愛を一身に集めているのをよいことに、仲成は伊予親王事件に揺れる南家を尻目に藤原式家の繁栄を図った。
平城天皇は生来病弱で、藤原氏内部の抗争などにも翻弄されたが、桓武天皇が都の造営や蝦夷征討によって国家財政を逼迫させたのを受けて、財政の緊縮化と公民の負担軽減とに取り組んだ。また官司の整理統合や冗官の淘汰を進め、官僚組織の改革に先鞭をつけた。この間、天皇は何度か転地療養を試みたが、その効なく在位3年余りにして大同4年(809)4月、皇位を賀美能親王(嵯峨天皇)に譲り、平城旧京へ隠棲した。
ところが、嵯峨朝がスタートしてほどなくすると、平城上皇の健康はにわかに回復へと向かい、いまだ30代という若さも手伝って国政への関心を示し、上皇の命令と称して政令を乱発するありさま。当然のことながら、側近の薬子や仲成も政治の舞台への未練を捨てきれず、遂に平城上皇に重祚するよう促した。 上皇方の動向を苦々しく思っていた朝廷も、当初は摩擦を避けるため薬子らの横暴にじっと耐えてきたが、その結果「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態に立ち至った。
強気の上皇方は大同4年11月、平城京に宮殿を新たに造営しようとした。そして翌5年、上皇から平城京への遷都を促されるに及んで、遂に嵯峨天皇の朝廷は「二所の朝廷」といわれる事態を打開しようと立ち上がった。朝廷は仲成を捕縛するとともに、正三位の薬子の官位を剥奪した。事態の急変に慌てた上皇は東国への脱出を試みたが、朝廷の命を受けた坂上田村麻呂の軍勢によって行く手を阻まれ、失意のうちに平城京に戻って剃髪し、出家した。薬子は毒を仰いで自殺して果て、仲成も射殺された。
この「薬子の変」により、嵯峨天皇の皇太子だった平城天皇の第三皇子、高岳(たかおか)親王は廃太子となり、代わって大伴皇子(後の淳和天皇)が立太子し、上皇の系統と悪しき側近政治はここに絶たれた。
藤原薬子が本当に悪女だったのか、平城天皇を心から愛し続けた一途な女性だったのか、ドラマチックな彼女の真の人生を書き残したものがなく、本当のところは分からない。
(参考資料)永井路子対談集「藤原薬子」(永井路子vs池田弥三郎)、北山茂夫「日本の歴史4/平安京」、杉本苑子「檀林皇后私譜」
クラウゼヴィッツ 世界の革命家に大きな影響を与えた『戦争論』を著す
クラウゼヴィッツ 世界の革命家に大きな影響を与えた『戦争論』を著す
クラウゼヴィッツは、プロイセン軍隊の創設、軍制の確立に尽力し、対ナポレオン戦争の経験を元に、戦略・戦術に関する名著『戦争論』を著したことでよく知られている。その思想は世界の軍人や革命家たちにも大きな影響を与えたといわれる。生没年は1780~1831年。
カール・フォン・クラウゼヴィッツはプロイセン王国のマクデブルクで生まれた。父はマクデブルクの王室収税官だった。1792年、12歳のときにポツダムのフェルディナント親王歩兵連隊に入隊し、1794年にラインラントにおけるマインツ攻城戦で初めて戦闘に参加した。少尉に任官した15歳からの6年間はノイルッピンで過ごす。このとき所属していた連隊の連隊長の考課表によると、有能かつ熱心、頭脳明晰で好奇心旺盛と評価されている。
クラウゼヴィッツは1801年、ベルリンの士官学校に入り、そこでシャルンホルストの下で軍事学を学んだ。1803年、プロイセン軍アウグスト親王の副官に任命され、6年間にわたって副官としての業務を行いながらも、軍事学の文献だけでなく、外交・文化・歴史・文学についての文献を多読し、マキャベリやモンテスキュー、カントの影響を受けて、独自の思考様式を育んだ。そして、ナポレオン戦争に従軍して1806年に親王とともにフランス軍の捕虜となるまで、多くの戦史研究や戦略論、政治評論などを執筆している。
1807年、ティルジット講和条約が締結された後、クラウゼヴィッツは捕虜交換により釈放され、その後、フランス軍占領下にあったベルリンに帰還した。1809年、クラウゼヴィッツは陸軍省に勤務し、皇太子の軍事教育も担当した。1812年、フランス軍に対抗するため、一時期ロシア軍に軍籍を置きながら、参謀としてフランス軍と戦った愛国的な軍人でもあった。ナポレオン戦争終結後にはベルリンの陸軍大学校の校長として勤務している。『戦争論』の原稿はこの頃に執筆されたものだ。
クラウゼヴィッツは1830年に校長を辞任して、七月革命の余波を受けたポーランドでの暴動を鎮圧するために派遣されるが、1831年にコレラで病死した。
『戦争論』の思想は大モルトケをはじめとする後世の軍人たちや、レーニンをはじめとする革命家たちにも大きな影響を与えた。日本も例外ではない。クラウゼヴィッツの思想は、1867年に始まった明治維新による日本の国家建設以来、軍事のあらゆる分野に様々な影響を与えている。しかし、日本の軍人は『戦争論』に最も明確に述べられている戦争の本質について学ぶことよりも、ドイツを手本として軍事行動を計画し、実行する方法を学ぶことに熱心だった。
日本陸軍は、ドイツ第二帝政期の初期におけるドイツの軍事思想を通じて、クラウゼヴィッツの思想を主として間接的に学んだ。彼らは師団レベルの基礎的な戦術と応用戦術に関する教育を受けた。その教育の特色は、クラウゼヴィッツが重視した理論と実際の統一にあった。この教育の成果は非常に大きかったので、このような教育法は陸軍大学の誇るべき伝統として、第二次世界大戦までそのまま継承された。
(参考資料)広瀬隆「クラウゼヴィッツの暗号文」、寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」
モーセ 古代イスラエルの民族指導者で、最も重要な預言者の一人
モーセ 古代イスラエルの民族指導者で、最も重要な預言者の一人
一般にはモーゼと呼称されることが多いが、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる、紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者モーセは、ここに取り上げる人物たちとかなりスケールは異なるが、紛れもなく大怪人といっていいのではないか。彼はユダヤ教、イスラム教、キリスト教など多くの宗教において、最も重要な預言者の一人とされる。
『旧約聖書』の『出エジプト記』によると、モーセはイスラエル人のレビ族の父アムラムと母ヨケベドとの間に生まれ、兄アロンと姉ミリアムがいた。モーセが生まれた当時、イスラエル人が増えすぎることを懸念したファラオは、イスラエル人の男児を殺すよう命令した。こうして殺される運命にあったモーセは出生後、しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、葦舟に乗せてナイル川に流された。そこへファラオの王女が通りかかり、彼を拾い、水から引き上げたので、マーシャー(引き上げる)から、「モーセ」と名付けられたという。
成長したモーセは、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見てエジプト人を殺害。ファラオの追討軍の手を逃れてミディアンの地(現在のアラビア半島)に住んだ。モーセはミディアンでツィポラという女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日燃える柴の中から神(エホバ)に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(現在のパレスチナ周辺)へ導く使命を受ける。こうして彼の預言者としての活動が始まる。
エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともにファラオに会い、イスラエル人退去の許しを求めたが、ファラオは拒絶、なかなか許そうとしなかった。そのため「十」の災いがエジプトにくだり、ようやくイスラエル人たちはエジプトから出ることができた。それでもファラオは心変わりして軍勢を差し向けるが、葦の海で水が割れたため、イスラエル人たちは渡ることができたが、ファラオの軍勢は海に沈んだ。映画『十戒』でも最大のダイナミックなシーンとして、リアルに表現されていただけに、ご承知の人も多いはずだ。その後、モーセはシナイ山で神から石版2枚の十戒を受けた。
『レビ記』『民数記』『申命記』によると、その後のモーセはイスラエル人を導いて荒野を通って土地の王たちとの戦いを経つつ、カナンの地へ至った。しかし、カナンを前に民が神とモーセに不平を言ったため、神はさらに40年の放浪をイスラエル人たちに課した。モーセもメリバの泉で神の命令に従わなかったことにより、カナンの地へ入ることを許されなかった。そして、40年の期間が満ちたとき、モーセは民に別れの言葉を残した。その後、モーセはビスガの山頂で約束の地カナンを目にしながら、世を去ったという。没年齢は120歳。
(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」