『I f 』⑤「乙巳の変で蘇我入鹿が殺害されていなかったら」

『I f 』⑤「乙巳の変で蘇我入鹿が殺害されていなかったら」
 蘇我入鹿は周知の通り、皇極女帝の時代、「乙巳(いっし)の変」で暗殺
され、それが大化の改新の口火となります。そして、蘇我本宗家が滅びます。
しかし、もしここで蘇我入鹿が殺害されず、この難を逃れていたら、彼は最
終的に大王位の禅譲を受けていたかも知れません。

学識者で大陸の情勢にも明るかった入鹿
 蘇我入鹿は開明的な人物で、学識も備えていました。遣隋使として中国に
渡り、隋・唐と24年間にわたって留学していた僧・旻(みん)は帰国後、学
問所、講堂を開いています。その講堂に入鹿も中大兄皇子、中臣鎌足も通っ
ています。その僧・旻が「わが講堂に入る者で、宗我(蘇我)大郎(=そが
のたいろう)より優れた者はいない」と伝えています。

入鹿は禅譲制で大王位に就くことを考えていた?
 通説では、入鹿は大王になることまでは考えていなかったといわれている
のですが、彼は相当な学識者で大陸の政治情勢や文化に明るい人物でした。
ですから、蘇我本宗家の権勢を永続させるためにも、大王位に就くことを考
えたはずです。
 入鹿が狙いとしたその方法が、中国帰りの学問僧たちによってもたらされ
た禅譲制という制度です。入鹿は、祖父・蘇我馬子の娘が舒明天皇の妃にな
って産んだ古人(ふるひと)大兄皇子を大王にして、その大王から位を禅譲
させるという方法を考えていたようです。実はこれは、隋・唐で行われた方
法なのです。

いくつもある、入鹿が大王位を意識していた傍証
 蘇我入鹿が大王位を意識していた傍証は実はいくつもあるのです。『日本
書紀』によると、入鹿の父・蝦夷が葛城の高宮で、中国の天子にのみ許され
る「八佾(やつら)の舞い」を行ったり、今来(いまき)に双墓をつくって、
これを「大陵・小陵」と呼ばせ、大きい方を自分の、小さい方を息子の入鹿
の墓と定めたとも書かれています。
それから、645年には甘橿(あまかし)丘に巨大な屋形を建て、蝦夷の家を
「上の宮門(みかど)」、入鹿の家を「谷(はざま)の宮門」と呼ばせ、
子供たちを王子(みこ)と呼ばせています。これらはすべて入鹿の発案で、
彼が父の蝦夷を説得して行ったことなのです。中国では禅譲の前に権力者
が皇帝と同じようなことをするのです。

最大の豪族の家に生まれたエリートの弱さが、野望を未達に終わらせた
 ここまで準備しながら、入鹿の野望はなぜ成就しなかったのでしょうか。
それは入鹿が最大の豪族の家柄に生まれたエリートで、人間の苦界を見ない
で育った点にあるのではないでしょうか。「乙巳の変」の主導者の一人、
中臣鎌足などは地を這うようにして育ち、そこからのし上がってきた人物で
す。そんな鎌足に比べると、やはり入鹿には性格の甘さが感じられます。
入鹿の野望(=大王位)を真っ先に見抜いたのは恐らくこの鎌足でしょう。