千葉周作 北辰一刀流の創始者で 水戸藩の剣術師範を務める

千葉周作 北辰一刀流の創始者で 水戸藩の剣術師範を務める

 千葉周作は江戸時代、先祖伝来の「北辰無想流」を発展させた「北辰一刀流」の創始者で、千葉道場の総師範だ。その道場、玄武館は幕末三大道場の一つとして知られ、この北辰一刀流門下から多数の幕末の著名人を輩出した。千葉周作の姓は平氏。名字は千葉、通称は周作、諱は成政。生没年は1793年(寛政5)~1856年(安政2年)。出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山の2つの説がある。先祖をたどると、桓武平氏・良文の流れで、坂東八平氏の名門の一つ千葉氏で、千葉常胤にたどりつく。

 周作は7、8歳のころから父について家伝の北辰流を習い、その偉才ぶりを発揮した。15歳のとき、一家は江戸を目指して出郷。水戸道中松戸宿(現在の千葉県松戸市)に落ち着き、父は浦山寿貞(じゅてい)と号して馬医に、周作・定吉兄弟は中西派一刀流の浅利又七郎義信のもとに入門した。やがて非凡の才を認められて、江戸の宗家、中西忠兵衛子正(つぐまさ)に学び、寺田宗有(むねあり)、白井亨(とおる)、高柳又四郎らの指導を受けて、修行3年で免許皆伝を許された。

 1820年(文政3年)、周作は27歳のとき北関東から東海地方への廻国(かいこく)修行を試み、各流各派の長短得失を知り、伝統的な一刀流兵法を改組する必要性を痛感した。そこで、周作は1822年(文政5年)、北辰・一刀流を合わせ、さらに創意を加えて「北辰一刀流」を標榜し、日本橋品川町に道場を開き、玄武館と称した(後に神田於玉ヶ池に移転した)。この玄武館は、初代・斎藤弥九郎が1826年(文政9年)九段下の俎橋付近に開設した練兵館(神道無念流)、桃井春蔵が京橋河岸に開設した士学館(鏡新明智流)とともに、幕末江戸三大道場と呼ばれた。これらの三大道場にはそれぞれ特徴があって、練兵館は「力の斎藤」、士学館は「位の桃井」、そして玄武館は「技の千葉」と称された。

ところで、周作の弟、定吉は京橋桶町に道場を持って、「桶町千葉」と称された。北辰一刀流門下から坂本龍馬、山岡鉄太郎(後の鉄舟)、清河八郎(浪士組幹部)、さらに新選組幹部の藤堂平助、山南敬助、伊東甲子太郎らを輩出している。また、練兵館からは桂小五郎(後の木戸孝允)、高杉晋作ら長州藩士を中心とした面々、士学館からは武市半平太、岡田以蔵らが出ている。

 北辰一刀流は精神論に偏らず、合理的な剣術だったため人気を得た。それまでの剣術は、習得までの段階が8段階で、費用も時間も多くかかるのに対し、北辰一刀流の教え方は主に竹刀を使用し、段階を3段階と簡素化したことが大きな特徴だ。坂本龍馬は安政年間、この江戸・千葉定吉道場で剣術修行した。1856年(安政3年)8月から1858年(安政5年)9月まで籍を置いた。そして、千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法、一巻」を授かっている。

 1835年(天保3年)、周作の盛名を聞きつけた水戸藩前藩主の徳川斉昭の招きを受けて剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けた。また、弟の定吉は鳥取藩の剣術師範となっている。

(参考資料)司馬遼太郎「北斗の人」、津本陽「千葉周作」、宮地佐一郎「龍馬百話」