お登勢 幕末、龍馬ら志士たちを保護した京都伏見・寺田屋の気丈な女将
お登勢は京都伏見の船宿「寺田屋」の女将だ。坂本龍馬はこのお登勢と懇意で、寺田屋を定宿としていた。龍馬はお登勢について、姉の乙女宛ての手紙で「学問があり、侠骨(きょうこつ)を具(そな)えた気丈夫な女性」と表現し、龍馬は彼女のことを土佐風に「おかァー」と呼んだと伝えられている。それほど、龍馬にとってお登勢は近しい存在だった。後に龍馬の妻となったお龍が、この寺田屋で働くようになったのも、元をたどれば戦で焼け出され、家族とともに住まいを失い、働き場も失ったお龍の身の上を案じて、龍馬がお登勢に働けるように頼み込んだからだった。また、別にお龍はお登勢の養女だったとの説もある。
お登勢は大津で旅館を経営していた大本重兵衛の次女として生まれた。お登勢の生没年は1829年ごろ(文政12年ごろ)~1877年(明治10年)。18歳のとき、京都伏見の「寺田屋」第6代目の主人、寺田屋伊助に嫁ぎ、一男二女をもうけた。だが、夫の伊助は放蕩者で、旅館の経営を顧ず、酒を飲みすぎ、それがもとで病に倒れ35歳の若さで亡くなった。そのため、寺田屋の経営は以後、彼女が取り仕切った。
伏見の寺田屋が歴史上の事変の舞台となったことは二回ある。初めは1862年(文久2年)、薩摩藩の内紛、尊皇派藩士同士の鎮撫事件だ。これは薩摩藩主・島津忠義の父で当時の藩の事実上の指導者だった島津久光が●千の兵を率いて上洛するのに合わせて突出、藩論を倒幕へ舵を切らそうとする有馬新七らの説得に失敗したため、久光の指示で、大山綱良、奈良原繁ら、とくに剣術に優れた尊皇派藩士を、有馬らの集合場所であり、薩摩藩士の京の定宿でもあった寺田屋に差し向け、事態を鎮撫しようとした事件だ。この際、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直次郎ら6名が死亡、田中謙介、森山新五左衛門の2名が重傷を負った。
二回目が「薩長同盟」を企図し、両藩の橋渡し役を演じた坂本龍馬捕縛ないし暗殺のため宿泊先の寺田屋を1866年(慶応2年)深夜、急襲したときだ。この「寺田屋事件」で、長州藩から派遣された龍馬の護衛役、三吉慎蔵とともに、伏見奉行・林肥後守配下の捕り方を迎え撃った龍馬は、死線をさ迷うほどの深傷を負った。だが、龍馬は幸運にもこの危難をくぐり抜けることができた。
寺田屋を舞台にした、この悪夢のような災禍をお龍とともにつぶさに見ていたのが、女将のお登勢だった。薩摩藩からの救援隊の到着が遅れていたら、龍馬の人生はここでピリオドを打っていたかも知れない。とすれば、この後の大政奉還も、「世界の海援隊」もなかったのだ。桂小五郎の求めに応じて、龍馬が薩長連合の約定書=薩長同盟の裏書を書いたのは、彼が寺田屋で遭難し、九死に一生を得た直後のことだった。
お登勢は人の世話をすることが大好きだった。龍馬をはじめ、幕府から睨まれていた尊皇攘夷派の志士たちを数多く保護した。このため、幕府から一時は危険人物と見なされ、入牢されそうになったこともある。気丈な名物女将だった。
(参考資料)宮地佐一郎「龍馬百話」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」