土方歳三 新選組の副長から、戊辰戦争を転戦した徹底した実践派

 土方歳三は1868年(慶応4年)、下総(現在の千葉県)流山で近藤勇と別れた後、「戊辰戦争」を通して幕臣として官軍と戦い、鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、宇都宮城の戦い、会津戦争、箱館戦争を転戦。幕府側指揮官の一人として図抜けた軍才を発揮して、蝦夷共和国・陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取の要職にも就いている。

しかし、歳三の公式の剣の腕前は高くはなかったようだ。天然理心流道場では歳三は中極意目録までの記録しか現存していない。行商中に学んだ様々な流派のクセが取れなかったのか?ただ、型には一切とらわれず、縦横無尽に闘い、最後は相手を倒すという徹底した実践派で、まさに実戦では滅法強かったといわれている。そうした合理精神は近代戦術にも抵抗なく、柔軟に理解を示して実践させることにつながり、戊辰戦争でも成果を挙げている。歳三の生没年は1835(天保6)~1869年(明治2年)。

 土方歳三は武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)に10人兄弟の末っ子として生まれた。諱は義豊。雅号は豊玉。土方家は多摩に広がる豪農の家系で「お大尽(だいじん)」と呼ばれる大百姓だった。出生前に父、土方義諄(ぎじゅん)が亡くなり、6歳の時に母も失い、次兄の喜六夫妻に育てられた。14~24歳ごろまで奉公に出ていたといわれる。奉公先には松坂屋上野店の支店、江戸伝馬町の木綿問屋などが挙げられる。

 その後、歳三は実家秘伝の「石田散薬」(骨折・打ち身の秘伝薬)を行商しつつ、各地の道場で他流試合を重ね修業を積んだといわれる。日野の佐藤道場に出稽古にきていた天然理心流四代目の近藤勇(後の新選組局長)とはこのころ出会ったと推測され、歳三は1859年(安政6年)、天然理心流に正式入門した。

 1863年(文久3年)、歳三は近藤道場(試衛館)の仲間とともに、十四代将軍家茂警護のための浪士組に応募し、上洛する。同年8月18日の「八月十八日の政変」後、壬生浪士組の活躍が認められ「新選組」が発足。その後、新見錦切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺。そして、権力を握った近藤勇が局長となった。歳三は副長の地位に就き、局長・近藤勇の右腕として京都治安警護維持にあたった。新選組は助勤、監察など職務ごとに系統的な組織づくりがなされ、頂点は局長だが、実際の指揮命令は副長の歳三から発せられたとされる。

 1864年(元治元年)の池田屋事件の際は半隊を率いて、長州・土佐藩士が頻繁に出入りしていた四国屋方面を探索して回ったが、こちらには誰もいなかった。そこですぐ池田屋の応援に駆け付けたが、直ちに突入せずに池田屋の周囲を固め、後から駆け付けた会津藩、桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組ただ一隊の手柄を守った。まだ立場の弱い新選組のことを考えての行動で、歳三らしい冷静な機転だ。このパフォーマンスの効果は絶大で、池田屋事件の恩賞は破格なものとなった。その結果、新選組の“勇名”は天下に轟いた。

 幕府からは近藤を与力上席、隊士を与力とする内示があったが、ここでも歳三は策を講じる。歳三は近藤を諌め、狙いは与力よりも大名と、次の機会を待つよう近藤を説得したといわれている。こうした一方、歳三は鉄の戒律「局中法度」をつくり、新選組内部では常に規律を隊士らに順守させ、規律を破った隊士に対しては切腹を命じており、隊士から恐れられていたという。そのため、新選組隊士の死亡原因の第一位は切腹だったといわれているほど。

(参考資料)司馬遼太郎「燃えよ剣」、鈴木亨「新選組99の謎」、三好徹「さらば新選組」