現代と違い、船に羅針盤など装備していなかった時代の航海は、天候次第で死と隣り合わせの、極めてリスクの大きいものだった。大黒屋光太夫はそんな時代の船頭で、乗った船が嵐に遭って大漂流。鎖国下の江戸時代、ロシア領に漂着。首都ペテルブルグで皇帝エカテリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半もの月日を経て、日本へ生還した人物だ。
この間、彼が移動した距離は壮大なスケールになる。それも、移動手段として犬ゾリぐらいしかなかった時代のことだから、その距離感は現代の何倍にも相当することだろう。それだけに、肉体的な頑健さはもちろんだが、それを成し遂げた精神力の強さ、生命力の強さには目を見張るものがある。
大黒屋光太夫は江戸時代後期の伊勢国白子(現在の三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭だ。生没年は1751(宝暦元年)~1828年(文政11年)。1782年(天明2年)12月、藩の囲い米などを積み、総勢18人が乗り込んだ神昌丸は江戸へ向け白子の港を出港した。
ところが、駿河沖付近で嵐に遭いそのまま半年以上も漂流。やがて、船は日付変更線を超えて1783年7月、北の果てアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。この寒さ厳しい島で8人の仲間が亡くなった。漂流中に1人死亡しており、これで死者は9人となった。
4年後、この島にラッコの皮をとりにきたロシア人が彼らをカムチャッカ半島のロシア人の町ニジニカムチャッカに連れて行ってくれた。ここで光太夫らは日本に帰りたいので助けてほしいと必死に当地の役人に願い出るが、当時日本は鎖国中。願いは不許可となる。ここでも3人の仲間が死亡。残った6人は翌1788年、帰国の件をシベリア総督に直接願い出ようとソリで8カ月を要し、シベリアの中心都市イルクーツクへたどり着く。しかし、シベリア総督の返事は「NO」だった。
失意の彼らに救いの手を差し伸べたのはフィンランド出身のキリル・ラクスマンという植物学者。彼はロシアの科学アカデミー会員に名を連ねており、自分と一緒に首都ペテルブルグまで行って皇帝から直接帰国の許可と支援を願い出ようと誘う。1791年、一行を代表して光太夫がラクスマンとともに、速ソリで6000・・をわずか2カ月で横断、首都ペテルブルグまで行った。
ラクスマンと光太夫の2人は皇帝エカテリーナ2世に2度も謁見することに成功。エカテリーナ2世は彼らに同情するとともに、これを機会にかねてから考えていた日本との交易を実現したいと考え、ラクスマンの息子のアダム・ラクスマン陸軍中尉(当時26歳)に遣日使節の命を与え、光太夫らとともに日本へ行くよう命じた。
この時点でイルクーツクの6人のうち1人が亡くなっており、庄蔵、新蔵の2人はロシアに残る道を選んだ(このうち新蔵はロシア人女性と結婚した)。そして光太夫、礒吉、小市の3人だけが帰国の途につくことになった。ラクスマンは彼ら3人を連れてオホーツクの港から船で根室へと入った。1792年10月、漂流から9年半後のことだった。待ちに待った帰国だったが、3人のうち小市はその根室で死亡してしまう。結局、生還できたのは光太夫と、最年少だった礒吉の2人だけだった。
光太夫、礒吉が帰国したとき、幕府の老中は松平定信で、彼は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだ。だが、2人が江戸に回送されるまでに定信が失脚してしまう。そのため、光太夫らのその後の運命も大きく左右されることになった。定信が老中職にあれば、恐らく2人はジョン万次郎(中浜万次郎)のように、外国との交渉役としての役割を与えられ活躍しただろう。
ところが、彼らは一転して「鎖国の禁を破って、外国に出た犯罪者」として扱われる身となってしまったのだ。その後は江戸で屋敷を与えられ、軟禁状態で過ごさなければならない破目に陥ってしまう。それでも数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交渉し、蘭学発展に寄与。桂川甫周による聞き取りを受け、その記録は「漂民御覧之記」としてまとめられ、多くの写本が残された。
また、桂川甫周は光太夫の口述と「ゼオガラヒ」という地理学書をもとにして「北槎聞略」を編纂した。光太夫の波乱に満ちた人生史は小説や映画などで度々取り上げられている。
(参考資料)井上靖「おろしや国酔夢譚」、井上靖「日本史探訪/海を渡った日本人 大黒屋光太夫」、吉村昭「大黒屋光太夫」