島津重豪・・・西洋文化に造詣が深かった浪費家は同時に藩の革命児だった

名君にも様々なタイプがある。悪いことをたくさんしているが、それを上回る大きな功績があり、その藩の地位を高めた藩主だ。その典型が島津氏第二十五代当主で、薩摩藩八代藩主・島津重豪(しげひで)だ。幕末、西南雄藩の中でも名君といわれた島津斉彬の曽祖父で、彼は32年の長きにわたって藩主の座にあって藩政を独占。贅沢三昧をして藩の財政を破綻させ、数々の苛政も行ったことで、愚君の評価を下す人が多い。

しかし薩摩藩は「革命児」ともいえる、この型破りの殿様の「無茶」の数々がなければ、明治維新の原動力などには到底なり得なかっただろう。生没年は1745(延享2年)~1823年(天保4年)。
 重豪は徳川十一代将軍家斉の岳父だが、徳川十五代の将軍の中で最も贅沢で、浪費家だったこの家斉に「薩摩の舅どのには及ばん」といわせたほど、並外れた浪費家だった。それくらい重豪の生活は華麗で、豪奢だった。その名が示すように、性豪放で進取の気性に富んでいた。泰平の世の大名にしては気宇が広大にすぎた。やること成すことが桁外れで規格にはまらない。国持大名らしさを求める幕府は何かにつけて枷(かせ)を着せた。怜悧な人だったから、我執を包みくらました。そのため、はけ口のない重豪の雄心は、わがままと贅沢となって表れた。

 江戸・薩摩藩下屋敷の茶屋を改めた高輪御殿に隠居していた重豪の居室は、西洋の文物であふれていた。晴雨出没人形、砂時計、吹笛琥珀、硝子刷毛、天眼鏡、紅毛硯、虫眼鏡、硝子鈴、オルゴール楽器、剣杖、鼓弓、硝子掛燈爐などのオランダ渡りの品々が異国的な雰囲気を高めていたという。それほど西洋文化に造詣が深く、蘭学に大変な興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりしている。

 彼が行った事績をみると、1773年(安永2年)、藩校・造士館や演武館を設立し、教育の普及に努めている。1779年(安永8年)には明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究を行っている。医療技術の養成にも尽力し、1774年(安永3年)医学院を設立、武士階級だけにとどめず、百姓・町人などにも教育の機会を与えた。

 このほか、老いてますます盛んな重豪は、曾孫の斉彬の才能を高く評価し、斉彬とともにシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。ちなみに彼はローマ字を書き、オランダ語を話すこともできたといわれている。

重豪の金に糸目をつけぬ贅沢品の蒐集で、薩摩藩の財政は破綻。晩年、彼はようやく藩の財政改革に取り組み、その立て直し役として調所笑左衛門広郷を重用。調所の大胆かつ狡猾な手法と、琉球を通じた密貿易により、その財政再建は孫の島津斉興の新政時に成果をみている。調所は500万両の赤字を埋め、60万両の黒字を出すまでに立て直した。

(参考資料)加藤_(けい)「島津斉彬」、八幡和郎「江戸三百藩 バカ殿と名君」
      奈良本辰也「日本史の参謀たち」、綱淵謙錠「島津斉彬」