小村寿太郎・・・幕末以来の不平等条約解消、関税自主権回復に尽力

 小村寿太郎は外務大臣として、日露戦争における戦時外交を担当し、1905年ポーツマス会議の日本全権として、ロシア側のウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印。また、幕末以来の不平等条約を解消するために尽力、1911年に日米通商航海条約を調印し、関税自主権回復による不平等条約の完全撤廃を実現した人物だ。生没年は1855(安政2)~1911年(明治44年)。

 小村寿太郎は日向国飫肥(おび、現在の宮崎県日南市)藩の下級武士の子として生まれた。1870年、大学南校(東京大学の前身)入学。第一回文部省海外留学生に選ばれハーバード大学へ留学、法律を学んだ。帰国後、司法省に入省した。小村25歳のときのことだ。ただ、司法官時代の小村は英語ができるだけの無能な男と評価されていた。また、職務を離れると大酒を飲み女遊びが激しかった。

大審院判事を経て、明治17年、外務省へ転出。小村29歳だった。その頃の小村は父から相続した多重債務と、美人だが家事などは一切できないわがままな妻のヒステリーに悩まされ、精神的に荒んだ時期を過ごしていた。小村の月給150円に時代に、彼の父の負債額は未払い利息を含めて1万6000円にも達していた。

ところが、不遇の連続だった小村だが、幸運にも時の外務大臣、陸奥宗光の目にとまる。1893年(明治26年)、清国日本公使館参事官に抜擢されたことにより、ようやく小村の活躍が始まった。清国代理公使を務め、日清戦争の後、駐韓弁理公使、外務次官、駐米・駐露公使を歴任。1900年の義和団事件では講和会議全権として事後処理にあたった。

 1901年(明治34年)、小村は46歳という若さで第一次桂太郎内閣の外務大臣に就任。1902年締結の日英同盟を積極的に主張し、回避不可避と考えられていた日露戦争に対する備えをした。日露戦争における戦時外交を担当し、1905年、ポーツマス会議の日本全権としてロシア側のウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印した。日露戦争開戦当初、日本は有利に戦いを進めることができたものの、圧倒的な軍事力を誇るロシアに対して長期戦になった場合、日本の国力ではやがて形勢は逆転することは必至と判断した小村は、早くからロシアとの講和の必要性を説いた。しかし、緒戦での戦勝で日本が優勢にある状況下での講和は弱腰外交と受け取られ、受け入れてもらえず非難を浴びる。それでも小村は自らの信念を貫き、講和条約調印にこぎつけた。一筋繩ではいかない相手とのハードでタフなネゴだったが、これによって小村は優れた外務官僚としての評価を得た。ただ、その後アメリカの鉄道王ハリマンが日本に、満州における鉄道の共同経営を提案した際、首相や元老らの反対を押し切って拒否した。この件については評価の分かれるところだ。

 小村は1908年成立の第二次桂太郎内閣でも外務大臣に再任され、後世に名を残す役割を果たす。幕末、列強との間で締結した不平等条約の解消に取り組むことになったのだ。明治期の為政者の長年の懸案だった条約改正の交渉を行い、1911年、日米通商航海条約を調印し、関税自主権の回復を果たした。また、日露協約の締結や韓国併合にも関わり、小村は一貫して日本の大陸政策を推し進めた。

(参考資料)吉村昭「ポーツマスの旗」