尾形光琳・・・装飾的大画面を得意とした「琳派」の代表的画家

 尾形光琳は、後世「琳派」と呼ばれる、装飾的大画面を得意とした画派の代表的画家だ。主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝文化時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。その非凡なデザイン感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、デザインなどに与えた影響は大きい。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。

 尾形光琳は京都の富裕な呉服商「雁金屋」の当主、尾形宗謙の次男として生まれた。光琳の生没年は1658(万治元年)~1716年(享保元年)。5年遅れて、陶芸家として名高い弟、乾山が生まれている。雁金屋は、祖父宗伯の頃には宮中御用を務めるほどで、京でも揺るぎのない富める商人であった。物心ともに豊かな環境に生まれ育った光琳は、幼いときから父に連れられ、二条関白家をはじめ公家の屋敷にも出入りし、よく能の相手を務めたという。豊かな情操の世界に遊んだ少年時代、後に花開く光琳の天分は、こうして蓄積されていった。

 光琳が30歳の時、父宗謙が死去。光琳の兄が家督を継ぎ、光琳は二つの家屋敷と能道具一式、それに大名などへの貸付証文などを譲られ、金利生活者として一生を送ることのできる保証を得た。しかし、彼は遊興三昧の日々を送り、相続した莫大な財産を使い果たし、弟の乾山にも借金するありさまだった。光琳が40歳になって画業に身を入れ始めたのも、こうした経済的困窮が一因だった。
 画家として立った光琳が常に思い浮かべるのは、呉服商だった生家、雁金屋の店先の華やかな打掛・小袖などの呉服の数々だった。この「美しきもの」が、少・青年期の彼の美意識の成長に大きな影響を与え、一生の拠りどころになったであろうことは容易に想像できる。彼が尊敬してやまない俵屋宗達が、その家業だった扇絵にその構成の基本を置いたように、光琳もまた「きもの絵」を忘れなかったようだ。

 1701年(元禄14年)、44歳の時、光琳は「法橋(ほつきょう)」に叙せられた。ようやく画家として世に認められた光琳だったが、能や茶の湯や音曲に日々を送り、遊里に通い詰める放蕩三昧の日々が続く。この頃には父より譲られた屋敷はすでになく、家宝を質入し借財も多かった。彼にとって快楽の追求は美の追求であり、親の遺産を食い潰し、食い潰すことを糧とする創作生活だった。この時代、芸術と称するものは公卿や武門の名家の貴族が育てた伝統だったことは確かだが、光琳の芸術は非常に貴族的であると同時に、その貴族を逆に眺め返している。商人としての本当の生活的なポイントから睨み返しているという要素がある。だから、いわゆる庶民的なバイタリティーを持つと同時に、貴族的な教養が絢爛として彼の血の中に流れているというわけだ。

 年号が宝永と改まった頃、光琳は江戸へ下向している。もう50歳近い。当時の江戸の人口は100万人。元禄前後の50~60年間に大名貸しの貸し倒れで破産した京の商人は50を数え、光琳の生家、雁金屋も破産した。江戸に迎えられた光琳は大名酒井雅楽頭の扶持を受けながら、制作に励む。しかし、江戸は光琳にとって、必ずしも居心地のよい場所ではなかった。やがて、50歳を超えた彼は京へ戻っていく。江戸は権力の中心であって、芸術の中心ではなかったのだ。

彼の二大代表作「紅白梅図屏風」と「燕子図屏風」の大作が、いずれも元禄も終末を迎えた頃から、さらに宝永・正徳と時代が下る晩年の作であることを思えば、この二点の作品は、光琳の晩年を飾るにふさわしい。

(参考資料)岡本太郎「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」