江戸と呼ばれていたこの町が東京に生まれ変わろうとする戦争があった。上野戦争だ。この時、この町は大きな戦災を被ってもおかしくなかった。ところが、戦火から救うべく唯ひとり作戦に苦しみつつ、それを見事成し得た一人の戦術家がいた。大村益次郎だ。
益次郎は文政7年(1824)、現在の山口市鋳銭司の、のどかな農村で生まれている。父、村田孝益は医業のかたわら、田3反を耕す村医者だった。益次郎も18歳で近くの蘭医、梅田幽斎に学び、続いて九州日田の広瀬淡窓の塾に入った。そして弘化3年(1846)21歳の時、全国にその名を知られていた大坂、適塾の緒方洪庵の門を叩く。嘉永2年(1849)彼はここでは塾頭をも務め、オランダ語などは、師をも凌ぐほどだったといわれる。
ところが、彼は所期の目的である蘭方医学よりも西洋兵学の研究に熱中し始める。軍制、砲術、築城…と、適塾所蔵の洋書のうち、彼が親しむようになったのは、西洋兵学に関する書物だった。彼はどうして、医学とは一見縁遠い兵学にのめりこむことになったのか。それは、彼一流の時勢認識で、これからの時代に最も必要とされるのは医学よりもむしろ西洋兵学だということを、明敏に見抜いたのだ。この点、彼は抜群の語学力に恵まれていた。
だが、彼は一介の村医者に過ぎない。したがって、彼の才能を生かす場も手がかりもなかった。5年後、彼は洪庵に才能を惜しまれつつ故郷に舞い戻り、村人相手の医者の生活にひたってしまう。当時、わが国でも最高の医術や蘭学を修めていた益次郎も、村医者としては失格だった。自分を誇るふうでもなく、人にこびずはよしとしても、人付き合いのまずさだけは終生変わることがなかったからだ。嘉永6年(1853)、30歳の益次郎は逃げ出すようにして故郷の鋳銭司村を去った。
その後、益次郎は家業を捨て、緒方洪庵の勧めもあって蘭学の才能を買った伊予宇和島藩に出仕する。藩主・伊達宗城は高禄をもって彼を遇した。この時、彼は百姓身分から村田蔵六を名乗る侍となったのだ。ちょうど30歳、ペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航した嘉永6年(1853)のことだ。宗城の命を受けた益次郎は、ここで日本人では最初ともいうべき蒸気船を造り上げ、人々の度肝を抜いた。そのかたわら西洋兵書の翻訳にも手を染め、独自の兵法を編み出し、兵学者として頭角を現すのだ。
安政3年(1856)、藩主・宗城の参勤に従って江戸へ上った益次郎は、宇和島藩に在籍のまま彼に目をつけた幕府に雇われ、幕府の洋学所、蕃書調所の助教授、さらには講武所の教授手伝も兼ね、西洋兵学者としての名が高まっていく。ちなみに、講武所の教授陣には勝海舟、高島秋帆らが名を連ねていた。そうなると、今度は長州藩が放ってはおかなかった。長州藩では洋式学所(博習堂)の改組などに取り組んでいたが、どうしてもリーダーの人材が足りない。そこで、もともと藩領内出身の益次郎の存在が注目されることとなり、ぜひ我が藩で召し抱えて能力を発揮させるべきだ-との声が高まり、益次郎の召還が藩議決定をみる。
益次郎の長州藩帰属が正式に実現したのは、桜田門外の変の翌月、万延元年(1860)4月のことだ、ただ、長州藩が提示した報酬は百姓同様の極めて低いものだった。それにもかかわらず、幕府の要職や宇和島藩の高禄を未練もなく捨て、彼は長州藩の士分に列し、郷国のために尽力することになる。
益次郎が仕える間もなく、長州は疾風怒涛、動乱の時代を迎える、文久3年(1863)、八・一八の政変、翌年の蛤御門の変、外国艦隊との下関戦争…など。慶応元年(1865)、幕府の第二次長州征伐の噂が高まったその年、益次郎は木戸孝允の推挙により軍務大臣に抜擢された。そして藩命により、村田蔵六を改め、大村益次郎を名乗ることになる。翌慶応2年、四境戦争、いわゆる第二次長州征伐の折りは、海軍・高杉晋作、陸軍・益次郎がすべての作戦を立てた。
2年後の慶応4年(1868)、益次郎は大政奉還で開城した江戸城にいる。上野彰義隊攻撃の総司令官とされているのだ。これは西郷隆盛や木戸孝允の英断によるものだったが、この時までほとんどの官軍首脳たちは、まだ益次郎の能力を信じていなかったといわれる。アームストロング砲を主力に、十数藩による完璧の布陣と、江戸の市中が戦火にかからぬことを第一とした益次郎の綿密な作戦により、上野戦争はわずか一日で終わった。
その後、箱館戦争に至る戊辰戦争の全戦線の平定を終えた彼は新国家の建設に取りかかる。明治2年(1869)9月、益次郎は京都木屋町で突然刺客に襲われ、2カ月後、この傷が悪化し46歳の生涯を閉じた。
(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、司馬遼太郎「花神」、「日本史探訪/22 上野戦争の官軍総司令官 大村益次郎」司馬遼太郎