新島八重は幕末から昭和初期の日本女性で、同志社創立者の新島襄の妻として有名な人物だ。また、戊辰戦争時には会津若松城籠城戦で、断髪・男装し、砲術者として奮戦したことが知られており、後に「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれる、武士の魂を持った女性、男勝りの“猛女”でもあった。生没年は1845(弘化2)~1932年(昭和7年)。史料によっては「新島八重子」と書かれている場合もある。旧姓は「山本」。
新島八重は、会津藩の砲術師範だった山本権八・さく夫妻の三女として生まれた。戊辰戦争が始まる前に、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授を務めていた川崎尚之助と結婚したが、会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが、戦の最中、尚之助は行方不明になった。また、この戊辰戦争で八重は父と弟を失った。
八重の長兄、山本覚馬は師の林権助が江戸出府を命じられた際に随行し、佐久間象山、勝海舟に師事。また西周らとも親交があり、全盲となりながらも京都府の府政を担い、後に新島襄と同志社を創立している。
1871年(明治4年)、八重は京都府顧問となっていた実兄、覚馬を頼って上洛する。翌年兄の推薦により、京都女紅場(にょこうば)(後の府立第一高女)の舎監兼教導試補となった。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになった。
八重は兄のもとに出入りしていた新島襄と知り合い、1875年(明治8年)府知事・槇村正直の仲人で襄と婚約。女紅場を退職、翌年襄と結婚した。1876年(明治9年)、八重は京都初の洗礼を受けた。全国的にまだキリシタン迫害の気風が残っていただけに、女性が堂々と洗礼を受けることは相当の勇気が必要だったと思われる。ともあれ、欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦だった。
1878年(明治11年)、同志社女学校が正式に開校となり、同志社社長に襄、結社人山本覚馬、教師は外国人宣教師があたった。
1890年(明治23年)、夫の襄が46歳の若さで病気のため急逝。二人の間には子供がおらず、新島家にも襄以外に男子がいなかったため、養子を迎えた。ただ、この養子とは疎遠で、その後の同志社を支えた襄の多くの門人たちともソリが合わず、同志社とも疎遠になっていったという。この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知り合った円能斎で、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し、裏千家流を広めることに貢献した。
当時の女性としては珍しく、精神的にも経済的にも自立した八重は、世間の目に左右されることなく、自分の気持ちに忠実に生きたといえよう。日清・日露戦争では篤志看護婦となって、劣悪な環境の下で傷病兵の看護にあたった。看護婦の中には伝染病で亡くなった女性もいたほど。その功績により勲七等、そして勲六等を受章し、1928年(昭和3年)、昭和天皇の即位大礼の際に、銀杯を授与された。その4年後、夫の襄の死から42年間、一人で過ごした寺町丸太町上ルの自邸(現在の新島襄旧邸)で、八重は87年の生涯を閉じた。
(参考資料)徳富猪一郎「蘇翁夢物語-わが交遊録」