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クラウゼヴィッツ 世界の革命家に大きな影響を与えた『戦争論』を著す

クラウゼヴィッツ 世界の革命家に大きな影響を与えた『戦争論』を著す

 クラウゼヴィッツは、プロイセン軍隊の創設、軍制の確立に尽力し、対ナポレオン戦争の経験を元に、戦略・戦術に関する名著『戦争論』を著したことでよく知られている。その思想は世界の軍人や革命家たちにも大きな影響を与えたといわれる。生没年は1780~1831年。

 カール・フォン・クラウゼヴィッツはプロイセン王国のマクデブルクで生まれた。父はマクデブルクの王室収税官だった。1792年、12歳のときにポツダムのフェルディナント親王歩兵連隊に入隊し、1794年にラインラントにおけるマインツ攻城戦で初めて戦闘に参加した。少尉に任官した15歳からの6年間はノイルッピンで過ごす。このとき所属していた連隊の連隊長の考課表によると、有能かつ熱心、頭脳明晰で好奇心旺盛と評価されている。

 クラウゼヴィッツは1801年、ベルリンの士官学校に入り、そこでシャルンホルストの下で軍事学を学んだ。1803年、プロイセン軍アウグスト親王の副官に任命され、6年間にわたって副官としての業務を行いながらも、軍事学の文献だけでなく、外交・文化・歴史・文学についての文献を多読し、マキャベリやモンテスキュー、カントの影響を受けて、独自の思考様式を育んだ。そして、ナポレオン戦争に従軍して1806年に親王とともにフランス軍の捕虜となるまで、多くの戦史研究や戦略論、政治評論などを執筆している。

 1807年、ティルジット講和条約が締結された後、クラウゼヴィッツは捕虜交換により釈放され、その後、フランス軍占領下にあったベルリンに帰還した。1809年、クラウゼヴィッツは陸軍省に勤務し、皇太子の軍事教育も担当した。1812年、フランス軍に対抗するため、一時期ロシア軍に軍籍を置きながら、参謀としてフランス軍と戦った愛国的な軍人でもあった。ナポレオン戦争終結後にはベルリンの陸軍大学校の校長として勤務している。『戦争論』の原稿はこの頃に執筆されたものだ。

 クラウゼヴィッツは1830年に校長を辞任して、七月革命の余波を受けたポーランドでの暴動を鎮圧するために派遣されるが、1831年にコレラで病死した。

 『戦争論』の思想は大モルトケをはじめとする後世の軍人たちや、レーニンをはじめとする革命家たちにも大きな影響を与えた。日本も例外ではない。クラウゼヴィッツの思想は、1867年に始まった明治維新による日本の国家建設以来、軍事のあらゆる分野に様々な影響を与えている。しかし、日本の軍人は『戦争論』に最も明確に述べられている戦争の本質について学ぶことよりも、ドイツを手本として軍事行動を計画し、実行する方法を学ぶことに熱心だった。

 日本陸軍は、ドイツ第二帝政期の初期におけるドイツの軍事思想を通じて、クラウゼヴィッツの思想を主として間接的に学んだ。彼らは師団レベルの基礎的な戦術と応用戦術に関する教育を受けた。その教育の特色は、クラウゼヴィッツが重視した理論と実際の統一にあった。この教育の成果は非常に大きかったので、このような教育法は陸軍大学の誇るべき伝統として、第二次世界大戦までそのまま継承された。

(参考資料)広瀬隆「クラウゼヴィッツの暗号文」、寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

 

モーセ 古代イスラエルの民族指導者で、最も重要な預言者の一人

モーセ 古代イスラエルの民族指導者で、最も重要な預言者の一人

 一般にはモーゼと呼称されることが多いが、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる、紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者モーセは、ここに取り上げる人物たちとかなりスケールは異なるが、紛れもなく大怪人といっていいのではないか。彼はユダヤ教、イスラム教、キリスト教など多くの宗教において、最も重要な預言者の一人とされる。

 『旧約聖書』の『出エジプト記』によると、モーセはイスラエル人のレビ族の父アムラムと母ヨケベドとの間に生まれ、兄アロンと姉ミリアムがいた。モーセが生まれた当時、イスラエル人が増えすぎることを懸念したファラオは、イスラエル人の男児を殺すよう命令した。こうして殺される運命にあったモーセは出生後、しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、葦舟に乗せてナイル川に流された。そこへファラオの王女が通りかかり、彼を拾い、水から引き上げたので、マーシャー(引き上げる)から、「モーセ」と名付けられたという。

 成長したモーセは、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見てエジプト人を殺害。ファラオの追討軍の手を逃れてミディアンの地(現在のアラビア半島)に住んだ。モーセはミディアンでツィポラという女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日燃える柴の中から神(エホバ)に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(現在のパレスチナ周辺)へ導く使命を受ける。こうして彼の預言者としての活動が始まる。

 エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともにファラオに会い、イスラエル人退去の許しを求めたが、ファラオは拒絶、なかなか許そうとしなかった。そのため「十」の災いがエジプトにくだり、ようやくイスラエル人たちはエジプトから出ることができた。それでもファラオは心変わりして軍勢を差し向けるが、葦の海で水が割れたため、イスラエル人たちは渡ることができたが、ファラオの軍勢は海に沈んだ。映画『十戒』でも最大のダイナミックなシーンとして、リアルに表現されていただけに、ご承知の人も多いはずだ。その後、モーセはシナイ山で神から石版2枚の十戒を受けた。

 『レビ記』『民数記』『申命記』によると、その後のモーセはイスラエル人を導いて荒野を通って土地の王たちとの戦いを経つつ、カナンの地へ至った。しかし、カナンを前に民が神とモーセに不平を言ったため、神はさらに40年の放浪をイスラエル人たちに課した。モーセもメリバの泉で神の命令に従わなかったことにより、カナンの地へ入ることを許されなかった。そして、40年の期間が満ちたとき、モーセは民に別れの言葉を残した。その後、モーセはビスガの山頂で約束の地カナンを目にしながら、世を去ったという。没年齢は120歳。

(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

 

皇帝ネロ 治世当初“名君”も、母・妻殺害の暴挙で暗転

皇帝ネロ 治世当初“名君”も、母・妻殺害の暴挙で暗転

 王制、帝政、そして日本の武家社会などを含め統治形態は異なっても、トップの後継争いは常に血みどろの争いが付き物だ。古代ローマ帝国の場合も全く例外ではない。強い母の導きと画策で帝位に就いた第5代皇帝ネロは、キリスト教徒を迫害し、後世“暴君”の代名詞とされたが、果たして、等身大の皇帝ネロの姿はどうだったのだろうか。

 皇帝ネロは小アグリッピナ(母)と、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(父)の息子として生まれた。母は初代皇帝アウグストゥスの孫、大アグリッピナとゲルマニクスの娘だった。ネロの生没年は37~68年。皇帝在位は54~68年。生まれたときの名前はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス。

 40年、ネロが3歳のとき父グナエウスが死去。その翌年にカリグラが帝位に就くが、まもなくカリグラによって母が追放された。そのため、ネロは叔母に育てられた。しかし、その3年後カリグラが暗殺され、伯父のクラディウスが擁立され第4代ローマ皇帝になると、彼によって母はローマに戻ることを許された。この時点では初代皇帝の孫、ネロの母もようやくローマ市民に戻ったにすぎなかった。

 第4代皇帝クラディウスはメッサリナを妃として迎えており、すでに後継者ブリタンニクスがいた。ところが、メッサリナは48年に不義の咎で殺害され、幸運にも後妻としてネロの母がクラディウスと結婚、皇妃となったのだ。まさに人生の歯車がうまく回転し始めたわけだ。そして、その母の采配でブリタンニクスは徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになる。そこで、年少のブリタンニクスよりも後継者にふさわしいとみられるようになり、ネロをブリタンニクスよりも先に王位に就ける確約を得た。

  ここまできたら、あとは待っていればいいようなものだが、権力志向の強いネロの母は動きをみせる。54年、信じがたいことだが、その母が第4代皇帝クラディウスを暗殺してしまう。クラディウスが死ぬとネロが第5代皇帝に即位し、1年も経たないうちに、今度はネロがブリタンニクスを毒殺したのだ。

 ところで、暴君の代名詞のようにいわれる皇帝ネロだが、治世初期は予想外に、“名君”の評判もあったほど良かった。それは家庭教師で哲学者セネカと親衛隊長官セクトゥス・アフラニウス・ブッルスの補佐によるものだ。しかし、そのメッキは徐々に、そして確実に剥がれていく。ネロはまず59年に母を殺害する。これは公私にわたり強引に干渉してくる母が疎ましくなったためだった。また、62年には妻オクタヴィアを、姦通罪(冤罪)を理由に殺害してしまう。そして、人妻だったポッペア・サビナと強引に結婚するのだ。無茶苦茶としかいいようがない。

   62年に側近の一人、親衛隊長官ブッルスが急死。この頃からもう一人の側近セネカも遠ざけられて、ネロの統治は破綻していく。64年にローマで大火が発生するが、人々はネロが自分の宮殿を建てるために、街に放火したと噂したという。真偽のほどは分からないが、そこでネロは、こうした噂を打ち消すべくキリスト教徒に罪を着せて、迫害する挙に出る。恐らくネロのこうしたやり方に、側近だったセネカが強く苦言を呈して諌めたためだろう。65年にはそのセネカが自殺させられているのだ。

 あとは坂道を転げ落ちるように、皇帝ネロの治世は暗転していく。68年にタラコンネシス属州の総督ガルバらによる反乱が起こり、各地の属州総督がこれに同調。遂には元老院から、ネロは“国家の敵”とされてしまう。ここまできてはさすがのネロもなすすべなく、同年自ら命を絶ち、30年の生涯を閉じた。

(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

ヒトラー 政権掌握後「指導者原理」唱えて民主主義を排除し“暴走”

ヒトラー 政権掌握後「指導者原理」唱えて民主主義を排除し“暴走”

 「ナチのファシストで独裁者」アドルフ・ヒトラーは第二次世界大戦を引き起こし、ヨーロッパ全土を恐怖に陥れた「狂信的殺人鬼」とも称された。そんな巨悪なイメージとは別に、青年時代のヒトラーは純粋な芸術に取り組む小人物だったという。それが、どうして、どこで、数多くの“虐殺”を行っても動じない“独裁者”に変わったのか。

 アドルフ・ヒトラーは、ドイツとの国境近くのオーストリアの小さな町、ブラウナウで税関吏の子として生まれた。父アロイスは小学校しか出ていなかったが、税関上級事務官になった努力家だった。アドルフはアロイスの3番目の妻クララとの間に生まれた。名前のアドルフは「高貴な狼」という意味で、ヒトラーは後に偽名として「ヴォルフ」を名乗っている。認知した父の姓は「ヒドラー」だったが、「ヒトラー」と改姓。ヒトラーの生没年は1889~1945年。

 父アロイスは厳格で自分の教育方針に違反した行為をすると、情け容赦なく子供たちに鞭を振るった。少年時代のヒトラーは成績が悪く、2回の落第と転校を経験しており、リンツの実業学校の担任の所見では「非常な才能を持っているものの、直感に頼り努力が足りない」と評されている。歴史や美術など得意教科は熱心に取り組むが、数学、フランス語など苦手教科は徹底して怠ける性質だったという。

 ヒトラーは若くして両親を失い、ウィーンで画家になろうとして失敗し、同市の公営施設を常宿として絵を描いて売ったり、両親の遺産に頼ったりして生活した。その間に下層社会や大衆の心理について見聞、体験したことが、後に政治活動するうえで役立った。

 1913年、オーストリアで兵役につくことを嫌ってドイツのミュンヘンに逃れた。第一次世界大戦が始まるとドイツ軍に志願兵として入隊し、とくに伝令兵として功を立てて、一級鉄十字章を受けた。ドイツ革命(1918~19年)の後、ミュンヘンの軍隊内で軍人のための政治思想講習会に出席して、民族主義思想を固めた。

 ヒトラーは1919年、ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党、すなわちナチス)という国家主義と社会改良主義を結び付ける小党に入党した。そして、1921年に党首となった。1923年、ミュンヘン一揆を起こすが、失敗。それ以後、ワイマール共和制打倒・ベルサイユ条約打破・反ユダヤ主義を主張し、議会制民主主義の制度的枠組みの中で党勢を拡大していき1933年、首相に就任した。就任すると直ちに、ワイマール憲法に基づく緊急命令の発動や授権法の制定によって、権力基盤を固めた。そして翌年、大統領を兼ねて総統となった。

 政権掌握までの過程は民主的だった。しかし、政権掌握後に「指導者原理」を唱えて、民主主義を無責任な衆愚政治の元凶として退けたことが、その後の“暴走”を招いたわけだ。以後、ヒトラーは再軍備宣言(1935年)・ラインラント進駐(1936年)・スペイン内乱への介入(1936年)・ミュンヘン会談(1938年)と軍備を拡張する中で積極外交を展開した。そして1939年、ポーランド侵攻によって第二次世界大戦への勃発を招き、ヨーロッパを広範な戦禍に巻き込むとともに、ドイツを敗北に導いた。1944年には保守派がヒトラーの暗殺を含むクーデター計画を実行したが、失敗に終わった。ヒトラー自身はベルリン陥落寸前の1945年4月30日、ベルリンの首相官邸の地下壕で、前日、結婚式を挙げた17歳の花嫁、エヴァ・ブラウンと「心中」、ピストル自殺した。

 ヒトラーの思想は『わが闘争』の中に見い出される。アーリア人種が文化創造の主体であるという生物学的な人種理論を唱える一方で、「民主主義、議会主義、マルクス主義、拝金主義などがユダヤ人の世界支配の陰謀に基づく」という「反ユダヤ主義」を主張し、「民俗共同体」を人種的生存の核として位置付けた。

 秘密国家警察(ゲシュタポ)や強制収容所の存在が象徴するように、ヒトラー独裁の下では国民の自由は抑圧され、またユダヤ人が迫害された。だが、他方で失業問題の克服や社会的階層秩序の流動化、そしてなによりも外交上の成功によって、少なくとも1937~38年ごろまでのヒトラーが国民の相当程度の支持を得ていたことも見逃せない。

 

(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

 

カンボジアに「高田学校」PKOの犠牲者遺族らが建て替え

カンボジアに「高田学校」PKOの犠牲者遺族らが建て替え

 国連平和維持活動(PKO)に従事していた1993年、カンボジアで武装集団に殺害された岡山県警警視、高田晴行さん(当時33歳)の遺族が建て替え事業に取り組んできた現地(カンボジア・オッドーミアンチェイ州)の小学校舎が完成した。母の幸子さん(81)=岡山県倉敷市=と、姉の国府和子さん(59)=同県総社市=は5月4日の晴行さんの命日を前に、4月30日に現地で開かれた「TAKATA HARUYUKI SCHOOL」と命名された新校舎の贈呈式に参加した。

 高田さんはカンボジア北西部のタイ国境付近を移動中に銃撃された。現場近くの日本のNPOや地元住民が悲劇を忘れないようにと建てたとされる小学校があり、晴行さんの名前から「ハル学校」と呼ばれていた。2013年5月、老朽化が進む校舎の建て替え資金を集めようと、幸子さんと和子さんが東京のNPOと協力して基金を設立。5カ月で目標額の約800万円超が集まった。

 隙間だらけだった木造校舎が、新校舎の完成で三つの教室を持つ鉄筋レンガ造りへと生まれ変わり、約50人の子供たちはかつてのように雨漏りの心配なく、授業が受けられるようになった。毎日新聞が報じた。

 

大阪・中之島で「天下の台所」支えた土蔵跡4棟出土

大阪・中之島で「天下の台所」支えた土蔵跡4棟出土

 大阪市教育委員会と大阪市博物館協会大阪文化財研究所は5月2日、同市北区中之島の蔵屋敷跡発掘調査で、江戸時代の土蔵跡4棟分が見つかったと発表した。蔵屋敷内に少なくとも4棟の土蔵が所狭しと建ち並んでいたことが分かり、担当者は「大坂の繁栄を支えた蔵屋敷の構造の一例を知ることができた。『天下の台所』の具体的な姿を復元するうえで、重要な手掛かりになる」としている。

 江戸時代後期の19世紀の大坂・中之島には120ほどの蔵屋敷が建ち並んでいた。今回の調査は、中之島西部にある約2100平方㍍が対象。2014年1月に発掘調査を開始し、基礎に石積みを用いた建物跡が見つかった。石積みは3~4段ある堅牢な構造で、幅は8.2㍍、長さは34.7㍍。蔵1棟の床面積は約286平方㍍と想定できるという。                  

唐招提寺の金堂回廊は東西78㍍ 西面で遺構発見

唐招提寺の金堂回廊は東西78㍍ 西面で遺構発見

 奈良県立橿原考古学研究所は5月1日、奈良市の唐招提寺の金堂(国宝、奈良時代末ごろ)の西面回廊の遺構が初めて見つかり、回廊全体の東西規模が約78㍍だったと判明したと発表した。回廊は全周にわたり、中央を壁で仕切って内外の両側に廊下を設けた「複廊」だったとみられる。創建時の姿を探る貴重な手掛かりという。複廊は東大寺や興福寺などでみられる形式。唐招提寺は鑑真が創建した私寺だが、大規模な官寺と同様の構造と風格を持っていたことが分かった。

吉井勇の再婚を祝福、うらやむ斎藤茂吉のはがき

吉井勇の再婚を祝福、うらやむ斎藤茂吉のはがき
 歌人・斎藤茂吉(1882~1953年)が友人の歌人、吉井勇(1886~1960年)に送ったはがきが京都府立総合資料館(京都市左京区)で見つかった。再婚をうらやむ歌が記されており、吉井の研究者からは作風の違う2人の親交の深さが分かる資料として注目されている。資料館からは、1937年から戦後にかけて、茂吉から届いた24通が見つかった。2人の交友は知られていたが、やりとりが直接確認できる資料は未発見だった。
 不倫騒動を起こした妻と別れ、長く思いを寄せていた女性と再婚した吉井を祝福するはがきも。日中戦争の南京陥落よりも君の新生活が喜ばしいという意味の「勝鬨(かちどき)のうづもよけれど南なる君が家居もにくからなくに」との歌が記されている。消印の日付は37年12月20日。このころは茂吉の妻も不倫騒動を起こし、別居中の茂吉が愛人と温泉旅行に行った直後。斎藤茂吉記念館では「茂吉のこのころの複雑な心境がうかがえる。妻の不倫という共通の体験が仲を深めたのだろう」と話している。

十市皇女「壬申の乱」を戦った大海人皇子を父に大友皇子を夫に 

十市皇女「壬申の乱」を戦った大海人皇子を父に大友皇子を夫とした女性 

 古代、万葉の頃は数奇な運命に導かれるように薄幸の生涯を送った女性は様々いるが、十市皇女(とおちのひめみこ)ほど身を裂かれるような、悲劇的な選択を迫られた女性は極めて少ないだろう。彼女は、古代日本の最大の内乱「壬申の乱」(672年)を両軍の最高指揮官として戦った大海人皇子(おおあまのみこ)と大友皇子を、それぞれ父と夫に持った女性だった。父と夫が戦う事態はまさに異常としか言いようがない。

 十市皇女の動静はほとんど記録に残っておらず、まさに謎だらけだ。生年にもいくつかの説がある。653年(白雉4)や648年(大火4年)など確定しない。没年は678年(天武天皇7年)だ。天武天皇の第一皇女(母は額田王・ぬかだのおおきみ)であり、大友皇子(明治期に弘文天皇と遺贈された)の正妃。

 父の大海人皇子が、兄の天智天皇から大田皇女、鵜野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)の2人の皇女を娶ったことから、両者の関係を緊密にする意味も加わって、大海人皇子の方からは妻・額田王との間に生まれた皇女=十市皇女が天智天皇の長子、大友皇子の妻として迎えられた。このことが彼女にとって、冒頭に述べた通り後に大きな悲劇を生むことになった。

 既述のとおり、彼女の生涯は詳らかではない部分が極めて多く断定できないのだが、彼女の人生にとってぜひ記しておかなければならないのが、天武天皇の皇子(長男)、高市皇子(たけちのみこ)との悲恋に終わった恋だろう。高市皇子は天武天皇存命時は皇子の中では草壁皇子、大津皇子に次ぐNo.3の座にあったが、天武天皇が亡くなった後、大津皇子、そして草壁皇子が亡くなるとNo1に昇り詰め、690~696年は太政大臣を務め持統天皇政権を支えた有力な皇子だ。相手としては何の問題もない。したがって、政略結婚として大友皇子のもとに嫁ぐことがなければ、彼女はきっと高市皇子との恋を成就させたのではないか。

 それを裏付けるのが相手の高市皇子の動静だ。高市皇子は詳らかなところは分からないが、実は当時の皇族としてはかなり異例の年齢まで正妃を持たず、独身だったからだ。恐らく高市皇子は愛しい十市皇女を想い続け、妻を迎える気にならなかったのではないかとみられるからだ。まさに相思相愛だったのだ。

 そんな彼女だったからか、大友皇子の正妃としての境遇に心底馴染めない側面があったのか、父母への思慕が勝っていたのか、こんな説が残っている。『宇治拾遺物語』などでは、十市皇女が父・大海人皇子に夫・大友皇子の動静を通報していたことが記されている。大海人皇子にとって、迫りくる娘婿・大友皇子との雌雄を決する決戦「壬申の乱」に至る過程で敵方、近江大津京の情報は喉から手が出るほど欲しかったに違いない。その役割を彼女は主体的に担ったのかも知れない。

 彼女には、その死についても謎がある。詳しい経緯はわからないが、彼女は未亡人であったにもかかわらず、泊瀬倉梯宮(はつせくらはしのみや)の斎宮となることが決まる。通常は斎宮といえば未婚の女性が選ばれるのだが。そして678年(天武天皇7年)、まさに出立の当日、4月7日朝、なぜか彼女は急死してしまう。王権をめぐって自分の父と夫が戦うという、非情の運命を背負わされた女性の悲しすぎるエンディングだ。

 『日本書紀』は「十市皇女、卒然に病発して宮中に薨せぬ」と記されている。7日後の4月14日、亡骸(なきがら)は大和の赤穂の地に葬られた。彼女はまだ30歳前後だ。この不審な急死に対し、自殺説、暗殺説もある。

 1981年、「比売塚(ひめづか)」という古墳の上に建てられた比売(ひめ)神社に、彼女は祀られている。この比売神社は現在、奈良市高畑町の一角にある。

(参考資料)黒岩重吾「茜に燃ゆ」、豊田有恒「大友皇子東下り」

明正天皇 幕府の圧力で退位した父帝の後、7歳で即位859年ぶり 女帝

明正天皇 幕府の圧力で退位した父帝の後、7歳で即位した859年ぶりの女帝

 第百九代・明正(めいしょう)天皇は、徳川二代将軍秀忠の娘、東福門院和子(まさこ)を母に持つ、第百八代後水尾(ごみずのお)天皇の第二皇女で、奈良時代の第四十八代称徳(しょうとく)天皇以来、実に859年ぶりの女帝として即位した。この徳川氏を外戚とする唯一の天皇の誕生を機に、『禁中並公家諸法度』に基づく江戸幕府の朝廷に対する介入が本格化したのだ。ただ、明正天皇の治世中は、将軍家の度重なる強い圧力を嫌って突然退位した前天皇、父の後水尾による院政が敷かれ、明正天皇が朝廷において実権を持つことは何ひとつなかったという。彼女自身、幕府と朝廷=母の実家と父帝の板ばさみとなり、ある意味で悲劇のヒロインだったともいえる。

 明正天皇の幼名は女一宮(おんないちのみや)、諱(いみな)は興子(おきこ)。明正天皇の在位は1629(寛永6)~1643年(寛永20年)、生没年は1624(元和9)~1696年(元禄9年)。奈良時代以来の女帝、明正天皇の誕生は、今日、後水尾天皇による「俄の御譲位」事件として記録されている。父の後水尾天皇から突然の内親王宣下と譲位を受け、興子内親王として践祚(せんそ)。わずか数え年7歳のときのことだ。

 幕府による後水尾天皇への圧力として象徴的だったのが、無位無官の女性=春日局の参内だった。春日局は本名・山崎福、明智光秀の重臣、斎藤利三の娘、応募して徳川三代将軍家光の乳母となった気丈な女性だ。お福は将軍の代参として伊勢両宮に参詣の途次、京都に立ち寄り、参内したいと申し出た。しかし、無位無官の女性が参内するなどいうのは、前代未聞のことだ。そのため、公卿の誰かの子として、禁裏に招かれる体裁をとるということになった。だが、お福は老女なので、養家となるべき相応の公卿が見当たらない。そこで、やむなくとられた手段は、伝奏・三条西実条の姉妹分という扱いだった。ちなみに、春日局とは室町時代の将軍家の乳人(めのと)の称で、このときお福はそれに倣って、「春日局」の称号を許されたのだ。

 こうした体裁を整えたうえでお福は予定通り参内、禁中御学問所で天皇と対面し、西の階(きざはし)近くに召されて勾当内侍(こうとうのないし、長橋局)の酌で天盃(てんぱい)を受けた。『大内日記』によると、このときお福は、後水尾天皇の中宮和子(明正天皇の母)のいる中宮御所で、京都所司代・板倉重宗と落ち合い、そこから伝奏・実条の案内で参内したらしい。いずれにしても、お福は上首尾に天盃を賜り、面目を施したのだ。しかし、地下(じげ、無位無官)の女性が幕府の威光を背に強引に参内したというので、公卿らの憤懣はうっ積した。

 後水尾天皇の退位のきっかけとなった事件として指摘されるのが紫衣(しえ)事件だ。これは幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝廷・幕府間の対立事件で、江戸時代初期の両者の最大の不和確執だ。事の始まりはこうだ。幕府は1613年(慶長18年)、「勅許紫衣並 山城大徳寺 妙心寺等諸寺入院の法度」、1615年(元和元年)に「禁中並公家諸法度」を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。しかし、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。

 これを知った徳川三代将軍家光は1627年(寛永4年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして、多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じたのだ。この事件をきっかけに、こうした介入に承服できない後水尾天皇は、退位の決意を固めたといわれる。

 幕府には無断で、突然ではあったが、譲位を迫る将軍家の強引な仕儀に屈する形で、後水尾天皇は後継に幼女を据え、退位した。しかし、このことは後を託された明正天皇にとって、きわめて悲しい運命を科されたことをも意味した。それは、古代より天皇となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない-という不文律があったからだ。

 この不文律は元来、皇位継承の際の混乱を避けることが主要な意図だった。だが、後水尾天皇はこの不文律を利用し、徳川将軍家に対して反撃に出たのだ。皇室から徳川家の血を絶やし、後世までその累が及ばぬようにするという意図をもって、娘に白羽の矢を立て、明正天皇を即位させたとの見方があるのだ。後水尾天皇は将軍家の、天皇家に対する無礼な振る舞いに立腹、一時的な感情に支配されて退位したように見せながら、実際にはしたたかに計算したうえで明正天皇を誕生させたともいえるのだ。幕府の意向を十分汲みながら、皇室から徳川の血を排除するという、一石二鳥の妙手だったわけだ。事実、後水尾天皇は明正天皇への譲位後も朝廷内においては院政を敷き、引き続き実権は握っていたのだから。院政は本来、朝廷の法体系の枠外のしくみで、「禁中並公家諸法度」ではそれを統制できなかったのだ。

 明正天皇は1643年、21歳で異母弟の後光明(ごこうみょう)天皇に譲位。以後54年間、女性の上皇として宮中にあった。崩御後、古代の女帝、第四十三代・元明(げんめい)、第四十四代・元正(げんしょう)両天皇の一字ずつを取って明正院と号した。

(参考資料)今谷 明「武家と天皇- 王権をめぐる相剋」、笠原英彦「歴

      代天皇総覧」、北山茂夫「女帝」