care のすべての投稿

新潟県でインドネシア人農業技術研修生受け入れ式

新潟県でインドネシア人農業技術研修生受け入れ式

 新潟県の農業技術を学ぶインドネシア人研修生の受け入れ式が4月28日、新潟県庁で行われた。研修生6人が受け入れ農家らと顔合わせ、研修への意気込みや心構えを語った。11月まで農家にホームステイして、栽培技術や経営管理などを学ぶ。新潟日報が報じた。

 同県の研修は1983年に始まり、新潟県国際農業交流協会(新潟県中央区)と県が協力して東南アジア諸国連合(ASEAN)の青年を毎年受け入れている。今回は20代の男性6人で、インドネシアの参加者は計153人となった。過去の参加者は帰国後、農業のリーダーとして活躍しているという。研修生たちは「コメと野菜を勉強したい」などと日本語で抱負を語っていた。

ジェトロがプノンペンで中小企業支援プラットフォーム

ジェトロがプノンペンで中小企業支援プラットフォーム

 日本貿易振興機構(ジェトロ)はカンボジアの首都プノンペンで4月27日、日本の中小企業の海外進出を効果的に支援するため、公的機関や金融機関などが連携する支援基盤「中小企業海外展開現地支援プラットフォーム」の発足式を開いた。2013年度にバンコク、ヤンゴン、ハノイ、ホーチミン、マニラ、ジャカルタ、ムンバイ、チェンナイなど8カ国10カ所に設置したのに続いて、14年度はプノンペン、ダッカをはじめ7カ所を追加する予定で、プノンペンが第1号となる。発足式では石毛博行・ジェトロ理事長、茂木敏充・経済産業相らがテープカットした。

富岡製糸場 国内18件目の世界遺産へ 6月に正式決定

富岡製糸場 国内18件目の世界遺産へ 6月に正式決定

 日本が世界文化遺産に推薦していた「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県富岡市など)について文化庁は4月26日、世界遺産への登録の可否を調査する「国際記念物遺跡会議(イコモス・本部パリ)が「登録が妥当」と国連教育科学文化機関(ユネスコ)に勧告したと発表した。6月にカタールの首都ドーハで開かれる第38回ユネスコ世界遺産委員会で正式決定する。

 「富岡製糸場」が正式に登録されれば、日本の世界文化遺産は2013年の「富士山」に次いで14件目。世界自然遺産も含めた世界遺産では国内18件目となる。近代産業遺産では国内初。富岡製糸場は政府がつくった日本初の官営製糸工場で、1872年(明治5年)に開業、その後、民間に払い下げられ、1987年まで稼働した。

 富岡製糸場と絹産業遺産群は富岡製糸場を中心に、半径40㌔以内にある養蚕関連施設の、近代養蚕農家の原形「田島弥平旧宅」(伊勢崎市)、国内標準の養蚕法を確立した「高山社(たかやましゃ)跡」(藤岡市)、冷風を利用した蚕の卵の貯蔵施設「荒船風穴(あらふねふうけつ)」(下仁田町)の計4施設で構成。

姫路城3年半ぶり雄姿「大修理」終え囲い外れる

姫路城3年半ぶり雄姿「大修理」終え囲い外れる

 世界遺産・国宝姫路城(兵庫県姫路市)の大天守最上層が、改装工事のための囲いが外され、約3年半ぶりに姿を現した。別名「白鷺城」とも呼ばれる白い外壁が、生まれ変わった美しい姿を見せた。市によると、2009年10月から「平成の大修理」に着工し、13年11月に終了。現在は囲いを解体する作業を進めている。8月ごろには大天守全体がほぼ見えるようになる見通し。内部の公開は15年3月27日から。

石川県白山市でワニに似た爬虫類の化石発見

石川県白山市でワニに似た爬虫類の化石発見

 石川県白山市教育委員会は4月24日、白亜紀前期にあたる約1億3000万年前の市内の地層から、ワニのような姿をした爬虫類「ネオコリストデラ類」の口先部分の化石3点が見つかったと発表した。調査団によると、ネオコリストデラ類の化石の発見は国内初で、世界では7例目。2002年と10年に、石川や岐阜など4県にまたがる「手取層群」と呼ばれる地層で発掘した。3つの化石は上顎や下顎に当たる部分で、長さ18~50㍉、幅約10㍉、厚さ5~20㍉。歯並びの特徴などから体長1~2㍍のネオコリストデラ類と考えられるという。

シェークスピア生誕450年 英の故郷で祝賀祭

シェークスピア生誕450年 英の故郷で祝賀祭

 英国の劇作家、ウィリアム・シェークスピアが4月23日、生誕450周年を迎えた。故郷のストラトフォード・アポン・エイボンでは同日夜、祝賀の花火が打ち上げられ、週末には町を挙げて祝賀祭が盛大に開かれる。「ハムレット」「マクベス」など数々の名作を残したシェークスピアは1564年生まれ。正確な日は不明だが、伝統的に洗礼の数日前にあたる4月23日が誕生日とされる。

 

知恩院「御影堂」天蓋は寛永年間の作 繊細な文様で特定

知恩院「御影堂」天蓋は寛永年間の作 繊細な文様で特定

 修理事業関係者によると、約100年ぶりに大規模修理されている浄土宗総本山知恩院(京都市東山区)の国宝「御影堂」の内陣天井を飾る天蓋が、彫金技術などから、御影堂が再建された寛永年間(1624~44年)の製作と判明した。天蓋は本体が約3㍍四方、高さ約1.5㍍。木製で、メッキと彫金が施された銅板で装飾されている。

 銅版に施された文様の繊細さや、文様の間に細かな円を浮き立たせる技術「七魚子(ななこ)」の精緻さ、再建時の作とされる厨子(ずし)「宮殿」の金工とも様式が似ていることから、寛永年間の製作と特定した。御影堂は1604年に建立、焼失を経て、39年に再建された。

鳳凰堂の翼廊の屋根飾り「露盤宝珠」も平安期の製作か

鳳凰堂の翼廊の屋根飾り「露盤宝珠」も平安期の製作か

 京都府宇治市の世界遺産、平等院は4月19日、国宝の鳳凰堂左右にある翼廊の屋根飾り「露盤宝珠(ろばんほうじゅ)」が平安時代に作られた可能性があるとの調査結果を発表した。平等院によると、露盤宝珠は翼廊の屋根に、それぞれ取り付けられ、重さは140㌔と150㌔。高さはいずれも105㌢で、6つの部材からなり、大部分が青銅製。

 平成の修理のため2013年11月に取り外され、蛍光エックス線で成分調査したところ、銀とアンモニアの割合が平安時代の作とされる鳳凰像と共通していたことから、露盤宝珠の製作も同時期だった可能性があるという。

東日本大震災の被災旧家から戊辰戦争の文書見つかる

東日本大震災の被災旧家から戊辰戦争の文書見つかる

 戊辰戦争(1868~69年)の際、仙台藩の村人が旧幕府勢力に宿や食料を提供したと記した文書が、東日本大震災の津波で浸水した宮城県石巻市長面地区の旧家から見つかったことが4月17日、分かった。解読した宮城学院女子大の平川新学長は、地域の村々が戊辰戦争にどう関わっていたのかを示す貴重な史料-と話している。

 文書は仙台藩にあった尾崎浜(現石巻市)の代表者が残していた。子孫が住んでいた旧家は津波で1階が浸水したが、文書は神棚に保管されていて無事だった。表紙に「徳川様御人数旅宿御賄諸事入料並金代請払手控帳」とあり、1868年の記録だった。明治新政府への降伏を決めた仙台藩と交渉するため、尾崎浜にきた旧幕府勢力に、村人が宿や食料を提供したとみられ、米のほか、サケや豆腐、酒などが記されていた。

木曾義仲 後白河法皇の術中にはまり、死に急いだ悲劇のヒーロー

木曾義仲 後白河法皇の術中にはまり、死に急いだ悲劇のヒーロー

 木曾義仲(源義仲)は1180年(治承4年)、以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れた以仁王(もちひとおう)の遺児を北陸宮として擁護し、「倶利伽羅(くりから)峠の戦い」で平氏の大軍を破って、源氏の中でもいち早く上洛した。ところが、①都の治安維持・回復に失敗した②皇位継承問題に介入した-ことなどから、後白河法皇と対立。不幸にも従兄弟にあたる源頼朝・義経と戦う破目になり、「粟津の戦い」で義経の軍勢に討たれた。わずか30年の生涯だった。

   歴史に「たら」「れば」を言っても仕方がないのだが、それを承知で、あえていわせてもらうなら、義仲がいま少しうまく立ち回っていれば…と考えざるを得ない。義仲が嫡子・義高を頼朝のもとに人質として差し出していることを考え合わせると、頼朝・義経との共闘・同盟を視野に入れて行動するという選択肢はなかったのだろうが、こうも簡単に後白河法皇の術中にはめられて身動きできなくなった格好で、“自滅”に陥ることもなかったのではないか。

   後白河法皇は、西国に退却した平氏を追討するように、義仲をけしかけながら、裏では鎌倉の頼朝と取引し「征夷大将軍職」を与えて、義仲追討の院宣を出しているのだ。法皇の腹黒い、したたかさには舌を巻かざるを得ない。これに対し義仲は手も足も出ない。木曽の山中で育ったためか、格式が重んじられる、都での公家との交渉ごとに不慣れだったことも当然あろう。不幸にもそういうことに長けたブレーンもいなかった。だが、どうみても粘り強く難局をしのぎ、打開していくというような姿勢が全くみられないのだ。そこには武骨で、死に急いだ悲劇のヒーローの姿があるだけだ。

 木曾義仲は河内源氏の一族、源義賢の次男。母は遊女。幼名は駒王丸、のち義仲。別名は木曾次郎、木曾冠者、朝日将軍。生没年は1154(久寿元)~1184年(寿永3年)。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は武蔵国の大蔵館(現在の埼玉県嵐山町)とする伝承もあるが、義賢が居住していた上野国多胡郡(現在の群馬県多野郡)の可能性もある。父義賢は甥の義平(頼朝の兄)に殺され、義仲は木曽に逃れ、元国司・中原兼遠の手で育てられた。義仲13歳のとき、京へ行き石清水八幡宮で元服し、「木曽次郎義仲」と名乗った。

 義仲が平家追討のため挙兵したのは1180年(治承4年)、27歳のときのことだ。そして、倶利伽羅峠の戦いで自軍のほぼ2倍の平家の大軍を破り、1183年(寿永2年)、遂に都へ攻め上った。上洛した義仲軍にとって期待されたのは、飢饉続きと、我が世を謳歌する平氏の狼藉で荒廃した都の治安回復だった。しかし、義仲はまずこの都の治安維持・回復に失敗してしまった。また、義仲軍の大軍が都に居座ったことにより食糧事情の悪化を招いた。さらには挙兵から上洛までの経緯から、以仁王の遺児、北陸宮を強引に推して、皇位継承問題に介入したことで、最高権力者・後白河法皇と不和となってしまったことも、取り返しのつかない、大きなつまずきとなった。

 義仲軍は西国へ退却した平氏を追討するため、山陽道にいた。義仲は水島で平家の水軍に破れ、法皇に裏切られたことを知る。頼朝が兵を差し向けてきたことを知ると、義仲麾下の軍は次々と離脱していった。必死の思いで都に戻った義仲軍3000は、八方塞がりの状況に直面し、いつのまにかわずか700になっていた。だが、ここで義仲は反転、攻勢に出る。法皇を討つ覚悟を決め、院の御所、法住寺を攻めて後白河法皇を捕らえ、幽閉した。

 1184年(寿永3年)、義仲は待望の征夷大将軍になったが、悲しいことに命運は尽きた。源範頼・義経率いる約2万の鎌倉軍が迫っていたのだ。そして、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)が最期の舞台だった。義仲が戦死したとき、嫡子・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいた。彼は身の危険を感じ、逃亡を図ったが討たれ、義仲の家系は絶えた。

 今日、木曾義仲の功績を正当に評価する史料は極めて少ない。ほとんだが義仲=敗者=悪-を前提に論じたものだ。意外にも江戸時代の学者の中には公正に評価した人物がいる。徳川六代将軍家宣の侍講、新井白石は著書『読史余論(とくしよろん)』で、「すべて平家の兵をやぶりて、都を追い落とせし事、ことごとく義仲が功なり」と義仲の功績を称える義仲論を説いている。そして、『平家物語』や『源平盛衰記』などは鎌倉時代になって作られた物語で、これらは後白河法皇、源頼朝の立場を正当として位置づけ、義仲の功績を覆い隠し、悪の一切を義仲の責めにして押し付けている-と後世の義仲に対する低い評価を断罪している。

(参考資料)杉本苑子「悲劇の風雲児」、海音寺潮五郎「武将列伝」、安部龍太郎「血の日本史」、松本利昭「木曽義仲」、永井路子「絵巻」、加来耕三「日本補佐役列伝」