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尾崎紅葉 明治の文豪は子規の革新性はなかったが俳壇の一方の雄

尾崎紅葉 明治の文豪は子規の革新性はなかったが俳壇の一方の雄だった

 『金色夜叉』で広く知られる尾崎紅葉は明治時代半ば、若くして文豪と仰がれた。その彼に作家とは別の顔がある。文学作品ほどには知られていないが、俳人としての顔だ。実は、彼は俳人としても一家を成す作者だった。ただ、井原西鶴崇拝の彼は、初期俳諧談林調の影響が尾を引き、同世代の正岡子規の革新性には欠けていた。しかし彼には、清新な作風の句も少なからずあり、明治俳壇の一方の雄だった。紅葉の生没年は1868(慶応3)~1903年(明治36年)。

 尾崎紅葉は江戸・芝中門前町(現在の東京都港区浜松町)で生まれた。本名は徳太郎。号は「縁山(えんざん)」「半可通人(はんかつうじん)」「十千万堂(とちまんどう)」などがある。帝国大学国文科卒中退。父は根付師の尾崎谷斎(惣蔵)、母は庸。

 徳太郎は1872年(明治5年)、4歳で母と死別し、母方の祖父母、荒木舜庵・せんのもとで育てられた。寺子屋・梅泉堂(現在の港区立御成門小学校)を経て府中学校(現在の日比谷高校)に進学。一期生で同級に幸田露伴、ほかに沢柳政太郎、狩野亨吉らがいた。だが、事情はよく分からないが、彼は中退した。その後、徳太郎は岡千仭の綏猷(かんゆう)堂で漢学、石川鴻斎の崇文館で漢詩文を学んだほか、三田英学校で英語などを学び、大学予備門入学を目指した。そして1883年(明治16年)東大予備門に入学。1885年(明治18年)、紅葉は山田美妙らと硯友社を設立し、「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼色懺悔』で認められ、これが出世作となった。1890年(明治23年)、彼は学制改革により呼称が変わった帝国大学国文科を中退した。

 ただ、彼はこの前年末に大学在学中ながら読売新聞社に入社していた。これにより以後、紅葉の作品の重要な発表の舞台は読売新聞となった。『伽羅枕』(1890年)、『多情多恨』(1896年)などが同紙に掲載され、読者の間で高い人気を得た。その結果、幸田露伴と並称され、明治時代の文壇で重きを成した。このため、この時期は「紅露時代」とよばれた。紅葉は1897年(明治30年)から読売新聞に『金色夜叉』を連載開始し人気を博したが、病没で未完のままに終わった。泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など優れた門下生がいる。

 冒頭にも述べた通り、紅葉には小説家ほどには知られていないが、俳人としての顔もあった。彼は、門下の小説家たちに句作りを指導し、句会を催す時には実に真剣に精進したという。俳句を作るときの観察力の訓練や、凝縮した表現法が、小説を作るうえでも大いに役立つと考えたかららしい。1895年(明治28年)、「秋声会」という俳句の会を結成し、指導したほど、俳句に熱心だった。秋声会のメンバーには泉鏡花(きょうか)、広津柳浪(りゅうろう)、川上眉山(びざん)その他小説の門弟たちがいた。

 最後に紅葉の句を紹介しておく。

 「春寒(しゅんかん)や日闌(た)けて美女の嗽(くちすす)ぐ」

 これは、彼の句の特徴の一つとされる艶麗な情緒の句だ。恐らく遊里の情景を歌ったものだろう。春は浅く、風はまだ肌寒い。早起きを怠った美女が、日もたけて起き出して嗽いでいる。

 もう一句、春の作品を紹介する。

 「鶯(うぐいす)の脛(すね)の寒さよ竹の中」

 庭先の竹の林にきている鶯。枝から枝へ飛び移る姿はいかにも春のものだが、その足がなんともきゃしゃで、寒そうだ-というものだ。普段なら気にもとめない鳥の「脛の寒さ」にふと気付いた風情の句で、春とはいえ、寒さが身にしみる日の一情景とみられる。

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 春」

塙 保己一:数万冊の古文献を記憶し『群書類従』を 盲目の国学者

塙 保己一 数万冊の古文献を記憶し『群書類従』を編纂した盲目の国学者

 塙保己一(はなわほきいち)は、盲目ながら実に40年もの刻苦(こっく)研鑽の末、古典籍の集大成『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』を編纂した江戸時代後期の国学者だ。彼は、盲目のために人が音読したものを暗記して学問を進めたのだが、実に数万冊の古文献を頭に記憶した驚異の人物だった。その学識の高さは幕府にも知られ、総検校(そうけんぎょう)となり、「和学講談所」に用いられた。

 塙保己一は、武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)の農家の長男として生まれた。父・荻野宇兵衛、母・きよ。幼名は寅之助、失明後に辰之助と改めた。また一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗った。雨富検校に入門してからは千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一と改名した。塙は師の雨富須賀一検校の本姓を用いたもの。弟・卯右衛門。塙保己一の生没年は1746(延享3)~1821年(文政4年)。子に幕末の国学者、塙次郎がいる。次郎は保己一の四男で、本名は忠宝(ただとみ)。次郎は通称。『続群書類従』『武家名目抄』『史料』などの編纂に携わった。次郎は1863年(文久2年)、伊藤博文、山尾庸三の2人に暗殺された。

 塙保己一こと荻野寅之助は、7歳のとき肝の病がもとで失明した。あるとき修験者に生まれ年と名前を変えることを勧められ、年を2つ引き、名を辰之助と変えた。だが、視力が戻ることはなかった。荻野辰之助は1760年(宝暦10年)、15歳のとき江戸へ出て盲人として修行。17歳で盲人の職業団体、当道座の雨富須賀一検校に入門し、名を千弥と改め、按摩、鍼、音曲などの修行を始めた。しかし、生来不器用で、いずれも上達しなかった。また、座頭金の取り立てがどうしてもできず、自殺しようとした。その直前で助けられた千弥は検校に学問への思いを告げたところ、3年間経っても見込みが立たなければ国許へ帰すという条件付きで認められた。

 保己一の学才に気付いた雨富検校は、彼に様々な学問を学ばせた。国学・和歌を荻原宗固(百花庵宗固)に、漢学・神道を川島貴林に、法律を山岡浚明に、医学を品川の東禅寺に、和歌を閑院宮にそれぞれまなんだ。書物を見ることができないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。1769年(明和6年)には晩年の賀茂真淵に入門、わずか半年だったが『六国史』を学んだ。1775年(安永4年)、衆分からこう当に進み、塙姓に改め、名も保己一と改めた。

 塙保己一は1779年(安永8年)、彼にとっては生涯をかけたライフワークとなる『群書類従』の出版を決意した。1783年(天明3年)、保己一は遂に検校となった。1784年(天明4年)、和歌を日野資枝(すけき)に学んだ。1785年(天明5年)には水戸・彰考館に招かれて『大日本史』の校正にも参画し、幕府からも学問的力量を認められた。そこで保己一は1793年(寛政5年)、幕府に土地拝借を願い出て、「和学講談所」を開設、会読を始めた。ここを拠点として記録や手紙に至るまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが『群書類従』だ。また歴史史料の編纂にも力を入れていて、『史料』としてまとめられている。この『史料』編纂の事業は紆余曲折あったものの、東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられている。

 1819年(文政2年)、保己一のライフワークとなっていた『群書類従』が完成した。保己一は74歳になっていた。出版を決意し、その作業に着手したのが1779年(安永8年)、34歳だったから、実に40年の歳月が経過していた。この時点で併行して進められていた『続 群書類従』は、自らの手で完成させられなかったが、彼がこの事業を推進したからこそ、わが国の貴重な古書籍が散逸から免れ、人々に利用されてきた意義は大きい。

 保己一はまた、既述の通り様々な師に学んだ和歌でも優れた資質を発揮した。

 「鴨のゐる みぎはのあしは 霜枯(しもが)れて 己(おの)が羽音ぞ 独り寒けき」

  保己一の和歌は新古今調で、華麗鮮明な影像に富み、とても盲目の人の作品とは思えない。

 盲人学者・塙保己一の名は海外にも知られているようで、「奇跡の人」ヘレン・ケラーは幼少時から「塙保己一を手本にしなさい」と両親から教育されたという。1937年(昭和12年)に来日した際も、彼女は保己一の記念館(生家)を訪れている。

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」

湯川秀樹 日本人を勇気付けた日本人初のノーベル賞受賞者

湯川秀樹 日本人を勇気付けた日本人初のノーベル賞受賞者

 湯川秀樹は周知の通り戦後、1949年(昭和24年)中間子理論で、日本人で初めてノーベル賞を受賞、日本人を勇気付けた理論物理学者だ。

 湯川秀樹は東京府東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区六本木)で生まれたが、幼少時、父・小川琢治の京都帝国大学教授就任に伴い、一家で京都府京都市へ移住。1919年、京都府立京都第一中学校(現在の洛北高校)に入学。中学時代の湯川はあまり目立たない存在で、渾名は「権兵衛」。物心ついてからほとんど口を利かず、湯川は面倒なことはすべて「言わん」の一言で済ませていたため「イワンちゃん」とも呼ばれていた。第一中学の同期には学者の子供が多く、同じくノーベル物理学賞を受けた朝永振一郎は一中で1年上、三高、京大では同期だった。1929年、京都帝国大学理学部物理学科卒業。1932年、湯川玄洋の次女、湯川スミと結婚し、湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となった。

 1934年、湯川は中間子理論構想を発表した。まだ27歳のときのことだ。そして1935年「素粒子の相互作用について」を発表。原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を理論的に予言した。この理論は1947年、イギリスの物理学者によって中間子が発見され、湯川理論の正しさが証明されることになった。すでに日中戦争中だっただけに、日本人学者は海外からはなかなか評価されなかったが、湯川はソルベー会議に招かれ、以後、アインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つようになった。1949年、中間子理論により湯川はノーベル物理学賞を受賞。敗戦、GHQの占領下にあって自身を失っていた日本国民に大きな影響を与えた。

 湯川の功績は、日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞したことだけではない。①アインシュタインらと平和運動に積極的に取り組んだこと②京都大学に「基礎物理学研究所」を設立、世界の研究者や、大学の枠を超えて若き研究者が集まり、思う存分意見を闘わせることができる国内・外研究者の“交流の場”をつくったこと③世界の物理学界に大きな刺激を与え続ける物理学の英文の論文雑誌「プログレス」を創刊したこと-などをその主要な功績に挙げることができる。

 湯川は、アインシュタインらが世界の著名科学者に呼びかけ、世界各国の指導者に核兵器廃棄を勧告した平和宣言「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名した11名(全員がノーベル賞受賞者)に名を連ねている。基礎物理学研究所は、湯川がノーベル物理学賞受賞を記念して設置された国内外の研究者の“交流の要(かなめ)”となった。1953年に第1回国際理論物理会議が開かれた。初回の会議参加者の中に、後にノーベル賞受賞者となる物理学者の名がある。同研究所は現在、理論物理、基礎物理、天体核物理まで広範囲に網羅、既成概念に捉われない広い視野で運営することを目指した湯川の精神が反映されている。

 「プログレス」は月刊。昭和21年の創刊時、湯川が資金の工面など発行に奔走。現在、800部が世界44カ国の研究機関に送付されている。プログレス創刊号に朝永振一郎の論文が掲載され、これが1965年(昭和40年)、朝永が日本人2人目のノーベル物理学賞の受賞対象論文となった。また、08年、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英、小林誠の対象論文もプログレスで発表されている。

(参考資料)梅原 猛・桑原武夫・末川 博「現代の対話」、梅棹忠夫「人間にとって科学とは何か」、上田正昭「日本文化の創造 日本人とは何か」、湯川秀樹編「学問の世界 対談集」、「人間の発見 湯川秀樹対談集」、梅原 猛「百人一語」

東郷平八郎 日露戦争でロシアバルチック艦隊を撃滅した連合艦隊司令長官

東郷平八郎 日露戦争でロシアバルチック艦隊を撃滅した連合艦隊司令長官

 東郷平八郎は周知の通り、日露戦争・日本海海戦で連合艦隊司令長官として、当時世界で屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を、一方的に破って世界の注目を集め、「アドミラルトーゴー」として、その名を広く知られることになった。当時、日本の同盟国だったイギリスのジャーナリストらは、東郷を自国の国民的英雄・ネルソン提督になぞらえ、「東洋のネルソン」と称えた。

 東郷は、わが国の近代史を形づくるうえで、大きな影響を及ぼした人物だ。しかし軍人であり、その最大の活躍場面が海戦だったため、戦後の特異な風潮のもとに、歴史の表面から覆い隠され、教科書からも抹消された。彼自身が古武士的な、地道で控えめな性格であり、生涯の大部分を懸けて身を置いた海軍が、政治的には表舞台へは出にくい社会だった。そのため、87年という長い一生にもかかわらず、日清・日露の戦争中を除いては劇的要素に乏しく、いわば平々凡々に終始した。裏返せば、彼は日清・日露の戦争で鮮やかに輝くためだけに、遣わされた人物だったのかも知れない。

 東郷平八郎は薩摩国鹿児島城下の加治屋町二本松馬場(下鍛冶屋町方限、現在の鹿児島県立鹿児島中央高校付近)に薩摩藩士・東郷吉左衛門実友と、堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれた。幼名は仲五郎(なかごろう)。平八郎の生没年は1847(弘化4)~1934年(昭和9年)。

 鹿児島の加治屋町は、山口・萩と並んで多くの明治維新の元勲を輩出した町として有名だ。いまも西郷隆盛・従道兄弟はじめ、大久保利通、大山巖、山本権兵衛らとともに、この東郷平八郎の生誕の地の碑を見ることができる。平八郎は8歳のころから、道ひとつ隔てた大山家(大山巖)の前を通って、大山家のすぐ近くにある西郷家に習字を習いに行くのが日課だった。吉之介(隆盛)は流罪に処され家にはいなかったが、その弟の吉次郎が、平八郎を可愛がり、書道を教えるかたわら、四書五経の素読もさせた。平八郎は、剣術は薬丸半左衛門に弟子入りして示現流の稽古一本に打ち込んだが、武士としての教養は川久保清一の塾で漢学を修めた。また、彼はむっつりしていて言葉数は多くはないが、なにかひらめくものがあると、ぱっと意外なことをいう才気煥発の面も持ち合わせていた。14歳のとき元服して平八郎実良と名乗った。1867年(慶応3年)、分家して一家を興した。

 平八郎は西郷吉次郎の口から、兄の吉之介、そして神戸海軍操練所塾頭上がりの坂本龍馬らの考え方、そして彼らの動きを含め、激しく変わりつつある幕末の社会情勢を聞かされた。彼は龍馬や中岡慎太郎のように天下国家のために動き回る人たちをうらやましく思った。そして早く薩摩を離れ、国事のために身を捧げたいと思った。平八郎は薩摩藩士として薩英戦争(1863年)に従軍し、戊辰戦争(1868~69年)では新潟、函館に転戦して戦った。薩英戦争に敗れ大損害を受けた薩摩藩は、直ちに海軍の整備に着手。翌年の元治元年に、今までの蒸気方を改めて開成所を開き、海軍砲術、海軍操練、海軍兵法、航海術を学科の中に加えた。薩摩藩は慶応2年、開成所を陸軍方と海軍方に分ける通達書を発布した。平八郎は家老の小松帯刀が海軍掛を務める海軍方に進んだ。

 平八郎は明治維新後の新海軍で1871年(明治4年)~1878年(明治11年)までイギリスに留学。その後、海軍少佐(1879年)となり、「浪速」艦長として日清戦争に出役、中将(1898年)となった。そして1903年、連合艦隊司令長官になり、参謀に秋山真之を得て、日露戦争において当時、世界屈指といわれたロシアのバルチック艦隊を撃滅、日本を圧倒的勝利に導いたことは周知の通りだ。官位および位階は従一位、元帥・海軍大将。

 ところで、東郷が連合艦隊司令長官に決定するにあたって、こんな逸話がある。連合艦隊という名前は、日露戦争開始とともにつけられた名前で、平時は常備艦隊と言っていた。常備艦隊の司令長官が、戦時は連合艦隊の司令長官になる。当時の常備艦隊の司令長官は、日高壮之丞だった。当時の海軍大臣・山本権兵衛(ごんのひょうえ)が何もしなければ、そのまま日高が連合艦隊司令長官になるはずだったし、日高自身もそう思っていた。

 ところが、山本権兵衛は親友であり、勇将としても名声があった日高の首を切り、当時、舞鶴にいた東郷を持ってきた。東郷は当時、それほど有能な人物とは思われていなかった。それだけに、意外な人事だった。日高は怒った。そして、海軍大臣の部屋に飛び込んできた。そこで、山本は日高に説明した。「お前は非常に賢い人間だが、非常に癖があり、人間に対する好みも激しい。そして戦術にも偏ったことを好む傾向がある。そういう人間は総大将にはなれないんだ」と。

 その点、「東郷にはそういうところがない。それに東郷はおとなしい男で、上の、大本営の命令を聞く男だ。お前を連合艦隊の司令長官にしたら、大本営とけんかになって、お前は聞かないだろう。そうすると、戦争ができなくなる」。日高は返す言葉がなく、黙って退出していったという。山本権兵衛の沈着冷静な見識眼が東郷起用につながり、「アドミラルトーゴー」を生んだのだ。

(参考資料)真木洋三「東郷平八郎」、吉村昭「海の史劇」、豊田穣「西郷従道」、司馬遼太郎「薩摩人の日露戦争」、三好徹「日本宰相伝② 運命の児」、邦光史郎「物語 海の日本史」

定朝 寄木造りで仏像の制作技術に革命を起こした京仏師の巨人

定朝 寄木造りで仏像の制作技術に革命を起こした京仏師の巨人

 定朝(じょうちょう)は、平安時代後期に活躍した京仏師のトップに君臨した巨人で、分業による寄木(よせぎ)造りを推進、仏像の制作技術に革命を起こした人物だ。こうした功績と、藤原摂関家の氏長者(うじのちょうじゃ)・藤原道長の庇護を受けたこともあって、仏師として初めて、僧侶の位だった法橋(ほっきょう)、法眼(ほうげん)という僧綱位(そうごうい)を受け、仏師が造仏を通じて仏教興隆に貢献したという評価を受けた。このほか、定朝はそれまで寺院に所属し造仏を行ってきた立場から、独立した仏所を設けて弟子たちを擁し、限られた時間でも多くの造仏を行うというシステムをつくり上げた。

 定朝は仏師僧・康尚(こうしょう)の子。生年不明、没年は1057年(天喜5年)。文献上は多くの事績が伝えられ、各地には定朝作と伝えられる仏像が残っている。が、現存する確実な遺作は平等院鳳凰堂本尊の木造阿弥陀如来坐像(国宝)のみといわれている。ただ、「定朝洋式」が日本人の志向に合致し、その後の仏像彫刻に決定的な影響を及ぼしたことは間違いない。平安時代後期、京仏師は貴族の庇護の下で仏像制作に携わり、仏像修理が主な仕事だった奈良仏師および、後に生まれるその奈良仏師の巨人、運慶の境遇と比較すると、仏像制作の仕事には恵まれていた。

 定朝の特筆すべき功績の一つとして、まず挙げておかなければいけないのが、仏像の寄木造りの技法だ。10世紀までの仏像彫刻に多くみられた一本の木を素材とする一木造りから、定朝はそれまでなかった、数本の木を組み合わせて造る寄木造りの手法を生み出したのだ。この方法だと、分業で複数の仏師が同時に分担したパートの制作にかかれるわけで、大型サイズの仏像を含め、制作期間を大幅に短縮することが可能となった。定朝の主宰する工房は極めて大規模だった。それを裏付けるのが次の例だ。史料によると、1026年(万寿3年)8月から10月にかけて行われた、後一条天皇の皇后(中宮)威子(いし、天皇の外祖父・藤原道長の三女)の御安産祈祷のために造られた27体の等身仏は、125人もの仏師を動員して造られたことが判明している。

 1052年(永承7年)、関白・藤原頼通が父・道長から譲り受けた別荘「宇治殿(うじでん)」を寺に改め、開創したのが平等院だ。平等院鳳凰堂の本尊、定朝の最高傑作といわれる阿弥陀如来坐像について少し記しておこう。穏やかな顔に、たっぷりした頬の膨らみ、瞑想する半眼の目、豊かな胸元、そして結跏趺坐(かっかふざ)して上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)を結ぶ。背後には金色の光背、頭上にも、まばゆい金色の方・円二重の天蓋が覆い、周りには浄土の空に楽(がく)を奏でて飛翔する菩薩が舞う。

 皇円が著した史書「扶桑略記(ふそうりゃっき)」によると、阿弥陀如来坐像が鳳凰堂(阿弥陀堂)に安置されたのは1053年(天喜1年)2月19日。阿弥陀如来坐像は午前2時、京の仏所(工房)を出発、正午近くに宇治に到着。遷座式は天台宗寺門派園城寺(三井寺)の長吏明尊(ちょうりみょうそん)を導師に営まれた。周りを多くの僧たちが念仏を唱えながら行道(ぎょうどう)。散華(さんげ)のなかに楽人が舞い、妙なる雅楽が奏でられた。こうして、極楽浄土がここに舞い降りたのだ。

 阿弥陀如来坐像の安置される阿弥陀堂が鳳凰堂の名で呼ばれるようになったのは、江戸時代の初期といわれる。建物が鳳凰の姿を思わせ、また中堂の屋根に一対の鳳凰が飾られることに由来するという。この一対の鳳凰、北像と南像で大きさは異なるが、2像とも総高は1m足らず。これも定朝の意匠といわれる。

(参考資料)「日本史探訪/藤原氏と王朝の夢」、「古寺を巡る⑬ 平等院」

鳥井信治郎 「やってみなはれ」精神で、国産ウイスキー事業化に挑む

鳥井信治郎 「やってみなはれ」精神で、国産ウイスキー事業化に挑む

 サントリーの創業者・鳥井信治郎(とりいしんじろう)はブドウ酒の輸入販売から始め、日本人の口に合う甘味ワインの製造・販売に成功、国産ウイスキーづくりに挑んだ。そして苦難を乗り越えて、国産の洋酒を日本に広く根付かせた人物だ。社風をうまく表現した、部下への指示は「やってみなはれ」。自らもチャレンジ精神こそ企業活力の源泉であることを体現してみせた。鳥井信治郎の生没年は1879(明治12)~1962年(昭和37年)。

 鳥井信治郎は大阪市東区(現在の大阪市中央区)釣鐘(つりがね)町で両替商、父・忠兵衛、母・こまの二男として生まれた。忠兵衛40歳、母・こま29歳のときの子だ。10歳年長の兄・喜蔵(長男)、6歳上の姉・ゑん(長女)、3歳上のせつ(二女)の兄姉があり、彼はその末っ子だった。父は早く歿しており、彼は80歳まで生き周囲の人に豊かな愛情を注いだ母親に育てられた。

 信治郎は1887年(明治20年)、大阪市東区(現在の大阪市中央区)島町の北大江小学校へ入学。小学校を卒業した彼は、北区梅田出入橋の大阪商業学校へ入り、そこに1~2年在学した後、1892年(明治25年)、数え年14歳で親の家を出て、道修(どしょう)町の薬種問屋、小西儀助商店に丁稚奉公に出た。薬種問屋は旧幕時代までは、草根木皮の漢方薬だけ商っていたが、明治になると洋薬を多く輸入し、ブドウ酒、ブランデー、ウイスキーなどの洋酒も扱っていた。

 信治郎はこの店に数年いるうちに、時代の先端をいく新感覚を身につけるとともに、洋酒の知識を深めることができた。後年、彼が日本におけるウイスキー醸造業の開拓者となる素地は、この店でつくられたのだ。小西儀助商店で3~4年働いた後、彼は博労(ばくろう)町の絵具、染料問屋の小西勘之助商店へ移った。この店でも3年、合わせて7年ほどの徒弟時代を終えて、西区靭中通2丁目で1899年(明治32年)、鳥井商店を開業し、ブドウ酒の製造販売を始めた。数え年21歳のときのことだ。この年、父・忠兵衛が亡くなった。

 信治郎は、1906年(明治39年)には鳥井商店を寿屋洋酒店に店名を変更した。翌年には「赤玉ポートワイン」を発売した。1923年(大正12年)にはわが国初の美人ヌードポスターを発表、大きな反響を呼んだ。翌年には大阪府・島本町に山崎にウイスキー工場をつくった。木津川、桂川、宇治川の三つが合流し、霧が発生しやすい点が、スコッチウイスキーのふるさとに似ていた。竹林の下から良質の水も湧き出ていた。1926年(大正15年)には喫煙家用歯磨き「スモカ」を発売した。

 寿屋が初めてビール事業に進出したのは1928年(昭和3年)のことだ。横浜市鶴見区で売りに出ていたビール工場を101万円で買収。新市場に打って出たのだ。当時のビール業界は4社の寡占。価格も大瓶1本33銭と決まっていた。寿屋はそこに1本29銭でなぐり込みをかけ、さらに25銭まで値下げした。こんな大阪商人の思い切った安値攻勢に手を焼いた麒麟麦酒は、寿屋が他社の空き瓶にビールを詰め、自社の「オラガビール」のラベルを貼って出荷している点に着目し、商標侵害だと提訴した。麒麟は「ビール瓶を井戸水で冷やす際にラベルがはがれ、元の商標が表に出る」と主張。寿屋は敗北した。

 寿屋のビール工場は1カ所だけ。自社瓶しか使えないと、空き瓶の回収に膨大な手間とコストがかかる。負けず嫌いの信治郎は、ガラス研削用のグラインダーを20台導入した。他者の空き瓶から商標部分を削り取るためで、彼の執念の強さを感じることができる。そこまで手をかけたビール工場も1934年(昭和9年)、売却せざるを得なくなった。2年前には好調だった喫煙家用歯磨き事業を売却していたが、同時並行で進めていたウイスキー事業が難航し、資金繰りが逼迫してきたからだ。普通の経営者なら、追い詰められたとき、現金収入のあるビール事業や歯磨き事業を残し、メドが立たないウイスキー事業を整理していたはずだ。だが、そうしなかった信治郎のこだわりが、サントリーの歴史を運命付けたのだ。

 話は前後するが、信治郎がウイスキー事業への進出を決めた1920年代前半、信治郎は全役員の反対に遭った。そのころ英国以外でウイスキーをつくる計画は、荒唐無稽と思われていた。仕込みから商品化まで何年もかかるうえ、きちんとした製品になる保証はないからだ。「赤玉ポートワイン」の販売で得た利益をつぎ込みたいという信治郎に対し、将来ものになるかどうか分からない仕事に全資本をかけることはできない-と反対の合唱だった。ところが、信治郎は反対の声を聞けば聞くほど、事業家意欲を燃やし、「誰もできない事業だから、やる価値がある」と意思を貫き通したのだ。これがサントリーに流れ続けるベンチャー精神の源泉となった。

 創業者・信治郎は“やってみなはれ”を信条としていた。そして、その後継者・佐治敬三は“やらせてみなはれ”を信条とした。「やらせてみなければ人は育たない」。それはいわば、男の向こう傷は仕方がないということで、積極的に飛び出せば何かトラブルが起こる。しかし、何もしないで自滅するよりはいいじゃないかということでもあった。彼はさらに、経営の知恵はつまずき、考え、学び、迷うことの繰り返しの中から生まれてくる。明日の道は、今日の失敗と挑戦が創り出すものだと説いている。信治郎に始まるサントリーの社業の歴史には、こうしたチャレンジ精神が色濃く息づいている。

(参考資料)杉森久英「美酒一代 鳥井信治郎伝」、邦光史郎「やってみなはれ 芳醇な樽」、佐高 信「逃げない経営者たち 日本のエクセレントリーダー30人」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 鳥井信治郎」

 

嵯峨天皇 大家父長制のもと王権を統べ、平安文化を開花させた天皇

嵯峨天皇 大家父長制のもと王権を統べ、平安文化を開花させた天皇

 「薬子の変」を経て、朝廷が安定を回復した、嵯峨天皇・上皇の御世、嵯峨が大御所として文字通り王権を統べていた時代、弘仁、天長、承和にわたる30年間は政局も安定し、平安文化が花開いた時期だ。空海(弘法大師)、小野篁(たかむら)ら多くの人材が輩出し、律令制を整備するため『弘仁格(きゃく)』『弘仁式』が編纂され、勅撰の漢詩集『凌雲集(りょううんしゅう)』や『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』が編まれ、唐風文化が隆盛となった。能筆家の嵯峨天皇が、空海、橘逸勢(はやなり)とともに「三筆」と称されたことは周知の通りだ。嵯峨天皇の生没年は786(延暦5)~842年(承和9年)。

 嵯峨天皇は桓武天皇の第二皇子。諱を神野(賀美能、かみの)といい、母は父・桓武の皇后、藤原乙牟漏(おとむろ)。806年(大同元年)5月、兄・平城(へいぜい)天皇の皇太子となり、809年(大同4年)病気の兄から譲位され、即位した。皇后には橘嘉智子(かちこ)を立て、交野(たかの)女王と大原全子(おおはらのまたこ)を妃に迎えた。橘嘉智子との間には正良(まさら)親王(後の仁明天皇)、正子(せいし)内親王(淳和天皇の皇后)をもうけ、交野女王との間には有智子(うちこ)内親王、大原全子との間には源融(とおる)が生まれた。

 病気のために譲位したはずの平城上皇が、譲位後にわかに健康を取り戻したか、側近の藤原薬子や兄・仲成らとともに、政権奪回を目指して容喙(ようかい)するようになった。そこで嵯峨天皇は巨勢野足(こせののたり)や藤原冬嗣を蔵人頭に任じてこれに対抗した。810年(弘仁元年)、平城上皇方が平城遷都の命を出したことから、征夷大将軍として名を馳せた坂上田村麻呂らを派遣して上皇方を制圧した。これにより、上皇は出家、薬子は自害、仲成は射殺され、皇太子・高岳親王も廃されたため、嵯峨天皇の朝廷は安定を回復した。

 嵯峨天皇は、性格的に兄の平城上皇とは違い、穏やかでゆったりした人物だった。彼は決して親政の姿勢を崩さなかったが、政治を多く公卿グループに委ねるという方針をとっていた。そして、父・桓武とは大いに異なり、14年間の執政に飽き飽きして、何とか王座を離れようとしていた。823年(弘仁14年)4月、嵯峨は冷然院(れいぜんいん)という離宮に移り、右大臣・藤原冬嗣に退位を伝えた。冬嗣は即座に反対した。しかし、嵯峨は皇太弟に皇位を譲った。即位したのが淳和天皇だ。

 嵯峨上皇が冷然院で自適の生活を始めたのは38歳のときだ。嵯峨はこれから19年間、文字通り大御所として、弟の淳和の時代、嫡子の仁明の治世の前半を見守ることになる。嵯峨上皇の大家父長制のもとに、王権の継承はすこぶる平穏に行われた。嵯峨も父・桓武に劣らず女色を好み、多数の妻を擁し、50人くらいの子女をもうけた。そして、身分の高くない母の子女には源(みなもと)姓を与えて臣籍にうつした。仁明朝に至って、彼らの多くは政界に進出し、中でも源常(ときわ)は、左大臣・藤原緒嗣(おつぐ)の没した年の翌844年(承和11年)にその地位を襲い、その兄・信(まこと)は中納言だった。他に参議に列していた者もいた。嵯峨源氏は、藤原氏の諸流に対抗する一大勢力だった。

 嵯峨上皇は、その血族で王権を固めたばかりでなく、藤原氏との連携あるいは結託も疎かにしなかった。とくに彼は冬嗣との関係を深め、娘・源潔姫(きよひめ)を冬嗣の次子・良房に与えている。天皇の娘が臣下に嫁するのは全く先例のないことだった。こうして冬嗣・良房の藤原北家の流れは、この大家父長制のごく近くに、政治的には極めて有利な位置を占めたわけだ。その結果、仁明朝の848年(嘉祥1年)には、源常(37歳)は左大臣、藤原良房(45歳)は右大臣、そして源信(39歳)は大納言と、嵯峨源氏と藤原北家が朝廷の政権中枢を張り合った時期も出現した。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史④平安京」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、杉本苑子「檀林皇后私譜」、司馬遼太郎「空海の風景」

南ジャカルタに日本語・マンガ教室カフェオープン

南ジャカルタに日本語・マンガ教室カフェオープン

 インドネシアの南ジャカルタ・ブルンガン通りも日本食スーパー「コスモ」の2階に、マンガも読めるコミュニティーカフェ「アンバサダーカフェ」がこのほどオープンした。開放的な店内の中央にマンガ雑誌、コミック1000冊ほどが並ぶ書棚を配置し、カフェを併設した。このカフェの最大の特徴はマンガ教室や日本語教室を開講していること。同カフェを運営している長島正治さんは「日本人とインドネシア人の交流の場になれば」と語る。

 マンガ教室には現在6歳から17歳までの生徒6人が通っている。趣味で習う人やプロを目指す人まで様々だが、日本のマンガやアニメが好きなのはみんな同じだ。講師は角川書店で編集の仕事に携わっていた若鍋善彦先生。4月5日から始まった講座では絵の描き方など技術的な指導をしている。

 日本語教室も同時に開講している。インドネシア人講師ナディヤ・フリスコ先生が教えている。生徒は学生や社会人など9人で、本格的な日本語習得を目指している。日本語教室は月・水・金曜日19~21時のコースと、土・日曜日10~12時のコースから選択できる。平日コースが月額50万ルピア、休日コースが同35万ルピア。マンガ教室は土・日曜日13~16時で同40万ルピア。

 バリスタが常駐し、本格的な味を楽しめる。サンドイッチやパスタなどとのセットメニューも取り揃え、ランチにも最適だ。希望があればパーティーもできるという。じゃかるた新聞が報じた。

大石内蔵助 日頃は凡庸だったが、危機に真価を発揮した忠臣蔵のリーダー

大石内蔵助 日頃は凡庸だったが、危機に真価を発揮した忠臣蔵のリーダー

 大石内蔵助(くらのすけ)は播州赤穂藩の筆頭家老で、周知の通り、江戸・元禄時代、赤穂浪士四十七士を束ねて、吉良邸へ討ち入り、上野介の首級を上げ、主君・浅野内匠頭長矩の無念を晴らした、いわゆる「忠臣蔵」の見事な統率力あるリーダーであり、智将だ。赤穂四十七士と称されるが、1700年(元禄13年)3月、江戸城松之廊下の変事の急報が赤穂藩にもたらされたとき、復仇を誓った同志は122人もいた。その過半が脱落した末の一挙だ。お家断絶に伴い、禄を離れ、生活に困窮した同志を扶助し、急進派の暴発を抑えながら、とにかく五十名近くを率いて大事に臨み、成し遂げた。それは並大抵のことではなかったろう。

 大石内蔵助は大石良昭の長男として生まれた。幼名は松之丞、諱は良雄。渾名は昼行燈。内蔵助の生没年は1659(万治2)~1703年(元禄16年)。そもそも大石家は、平将門を討った藤原秀郷の子孫と伝えられ、その一族が近江国栗太郡大石庄の下司職になったので、その地名をとって大石を名乗るようになったのだという。また、主君浅野家と大石家とは深い婚姻・養子の関係で繋がっている。そのため、大石家は浅野家唯一の譜代家老(代々家老となる家柄)であり、出自の良さも合わせて赤穂藩において特別な地位を占めていたのだ。

 大石内蔵助良雄は1673年(延宝元年)、父・良昭が34歳の若さで亡くなったため、祖父・良欽の養子となった。また、この年に元服して喜内(きない)と称するようになった。1677年(延宝5年)、良雄が19歳のとき祖父・良欽が死去し、その遺領1500石と「内蔵助」の通称を受け継いだ。また、赤穂藩の家老見習いになり、大叔父の良重の後見を受けた。1679年(延宝7年)、21歳のとき正式に筆頭家老となった。1683年(天和3年)、良雄の後見をしていた良重も世を去り、いよいよ独立しなければならなくなった。

 それにしても20代半ばまで、そして平時における内蔵助は家格の割に凡庸で、「昼行燈(ひるあんどん)」と渾名されていたことは有名だ。秀でた部分がみえなかった。したがって、藩政は老練で財務に長けた家老・大野知房が牛耳っていたと思われる。筆頭家老とは名ばかりだった。そんな内蔵助に自覚を促し、精神的に自立させたのはやはり身を固め家庭を持ったことだった。1686年(貞享4年)、豊岡藩・京極家筆頭家老、石束毎公の娘、りく(18歳)と結婚。1688年(元禄元年)長男・松之丞(後の主税良金=ちからよしかね)、1690年(元禄3年)長女・くう、1691年(元禄4年)には次男・吉之進(吉千代とも)が生まれている。そして、内蔵助は1693年(元禄6年)京都の伊藤仁斎に入門して儒学を学んだという。

 皮肉なことに、内蔵助が紛れもなく世間の耳目を集めたのは、赤穂藩取り潰し後の藩札引き替えなどの残務整理と城明け渡しの際にみせた手際の良さだった。要するに、ふだんは茫洋として、才子ぶったところをみせることは全くなく、危機に際して真価を発揮するタイプの人物だったのだ。

 大石内蔵助が1702年(元禄15年)、江戸に入り、討ち入り決行の20日前に在京の旧知の僧に宛てた書状に、次の歌がある。

 「とふ人とかたること葉のなかりせば 身は武蔵野の露と答へん」

 深みと重みがあり、冷徹な分析能力、洞察力、そして慎重かつ豪胆な行動で事を成した内蔵助の人物像にふさわしい歌だ。

 内蔵助の辞世として一般的に伝えられているものは、上記の決行20日前に詠んだものとは明らかに違う。次の歌がそれだ。

 「あな楽し思ひは霽(は)るる身は捨つる 浮き世の月に翳(かげ)る雲なし」

 赤穂浪士や忠臣蔵に関する近年の評伝や文学作品には、内蔵助の軽妙さや、洒脱な側面に光を当てて描くものが多い。そんな内蔵助の人物イメージに、この辞世は合致している。だが、本来の内蔵助の心情に照らして熟慮すれば、やはり上記の歌が符合する。

(参考資料)井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代 江戸転換期の群像」

大原孫三郎 倉敷を拠点に数々の事業を興し社会貢献した先駆的実業家

大原孫三郎 倉敷を拠点に数々の事業を興し社会貢献した先駆的実業家

 大原孫三郎は、倉敷を拠点に倉敷紡績、倉敷銀行、倉敷電灯(後の中国電力)など数々の事業を育て上げた人物だ。その一方で、学術、美術など様々な社会事業に先鞭をつけ、一貫してその財を人に投じた。それは生きた金となって、今日なお社会に大原美術館をはじめ2つの大企業(倉敷紡績、クラレ)、7つの研究所(大原社会問題研究所、倉敷労働科学研究所、大原農業研究所など)、倉敷中央病院が残され、いまも社会に貢献している。大原孫三郎の生没年は1880(明治13)~1943年(昭和18年)。

 倉敷という街は、大原孫三郎がいなければごく普通の地方の中都市に終わっただろう。一例を挙げると、孫三郎が画家・児島虎次郎に命じて印象派の名画を買い集め、大原美術館をつくった。倉敷の持つその文化性のお陰で、この街は空襲を免れているのだ。また、こんな逸話がある。明治40年、岡山に師団が設けられ倉敷にも連隊が置かれることになった。日露戦争直後、軍国主義のみなぎる時代、街を挙げて快哉を叫ぶはずだ。連隊を置けばカネが落ち、消費が活発になる。いまならGDP換算いくらくらいと、そのあたりの研究所が試算するだろう。経済的にみてこんなおいしい話を、当時まだ30歳に満たぬ孫三郎が先頭に立って反対したのだ。理由は「風紀が乱れる」ということだった。倉敷紡績は若い女子工員を大勢雇用している。若い男と女が集まれば…というわけだ。いずれにしても、倉敷は軍都を免れ、空襲にも遭わず廃墟とならずに済んだ。

 大原孫三郎は、岡山県倉敷市の大地主で倉敷紡績を営む大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は文久年間、村の庄屋を務め、明治中ごろで所有田畑約800町歩の大地主となった豪家だった。二人の兄が相次いで夭折したため、孫三郎が大原家の嗣子となった。1902年(明治35年)、21歳で父・孝四郎の経営する倉敷紡績に入った孫三郎が、真っ先に手を着けたのは1000人を超す女子工員の労働環境改善だった。1888年(明治21年)の工場開設以来、少女らは12時間交代の徹夜労働を強いられていた。2階建ての大部屋に閉じ込められ、万年床で寝起きする毎日。伝染病の集団感染も起きた。

 孫三郎は、こうした劣悪な環境で睡魔と闘いながら働く従業員の幸福を保証してこそ、事業の繁栄があると考えた。そこで、幹部の反対を押し切り、敷地を購入し平屋の「家族式寄宿舎」を建設した。後にJR倉敷駅の北側に新しく、孫三郎自身が設計した、2棟が向かい合って中庭を持つ「分散式寄宿舎」のある万寿工場をつくっている。孫三郎はまた「飯場(はんば)制度」も廃止した。請負業者が炊事一切、日用品の販売を仕切り、工員の口入れ手数料などでピンハネ商売などが行われていたからだ。こうした工場内で隠然とした力を持つ業者を締め出したのだ。外出や面会を見張る守衛もやめた。細井和喜蔵の『女工哀史』が出版される10年も前の改革だった。

 孫三郎の生家は倉敷一の大地主。何不自由なく育った。が、生来の癇(かん)性と病弱で学校に馴染めず、いじめに遭って、不登校を決め込んだこともあった。東京に遊学するが、勉強に身が入らない。富豪の息子に悪友が群がった。高利貸から借りた金で吉原通いの生活。こうして放蕩息子の借財は利息も合わせて1万5000円に上ったという。今なら億単位の金額だ。

 こうした破天荒で度外れた放蕩生活が実家に知れ、父に1901年(明治34年)在学中の東京専門学校(後の早稲田大学)を中退のうえ、倉敷に連れ戻され、謹慎処分を受けた。しかし、孫三郎はこの謹慎を機に生まれ変わり、この後、既述した様々な近代的かつ先進的な事業経営に乗り出していくのだ。

(参考資料)城山三郎「わしの眼は10年先が見える 大原孫三郎の生涯」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 大原孫三郎」