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私説 小倉百人一首 No.99 後鳥羽院

後鳥羽院
※第82代天皇

人もをし人も恨めしあぢきなく
       世を思ふ故にもの思ふ身は

【歌の背景】後鳥羽院は武家から政権を取り戻すことと、歌を作ることの二つに生涯を懸けた天皇だ。ただ、承久の乱の結果が示すように、天皇の政治上の画策は失敗した。この歌はその苦悶の生涯から自然に生まれた嘆きだ。憎い連中に対する怒り、思うようにならない世の中に対する嘆きが強烈に詠まれている。

【歌 意】世の中をつまらなく思っているので、いろいろと物思いする私は、愛しく思う人もあれば、恨めしく思う人もある。

【作者のプロフィル】第82代の天皇。高倉天皇の第四皇子。諱は尊成。御母七条院。治承4年7月14日生まれ。安徳天皇が平家とともに西国へ落ちられたので、寿永2年(1183)7月20日、4歳で即位。15年間の在位中も譲位後も武家からの政権奪回に腐心し、承久の乱の結果、隠岐に流され、19年の長い寂しい生活の後に、同地で延応元年(1239)2月22日、60歳で崩御。多芸多才、琵琶にも蹴鞠にも優れていたが、とくに歌人として著名。

私説 小倉百人一首 No.100 順徳院

順徳院
※第84代天皇

百しきや古き軒端のしのぶにも
       なほあまりある昔なりけり

【歌の背景】父、後鳥羽院とともに討幕を計って、政権を朝廷に取り戻そうと苦心した天皇の、古き良き昔(王朝の盛時=延喜・天暦の頃か)への生涯の夢が詠み込まれている。

【歌 意】大宮(皇室の御殿)の荒れ果てた古い軒端には忍ぶ草が生えている。それを見るにつけ、政権が王朝にあって皇室の盛んだった古き良き時代のことが偲ばれ、どんなに偲んでも偲び尽くせない。

【作者のプロフィル】第84代の天皇。後鳥羽院の第三皇子。御母は従二位藤原範季のむすめで修明門院重子。建久8年(1197)9月10日誕生。諱は守成。父後鳥羽院のご寵愛が深く、承元4年(1210)土御門院に代わって即位された。後鳥羽院とともに鎌倉幕府討伐を企て承久の乱後、佐渡へ流された。20余年後、仁治3年(1242)9月13日、46歳で崩御。武事、文事いずれにも優れ、早くから父君から歌の道を学ばれ、歌学にも通じており、「八雲御抄」は歌学史の重要文献。

兵庫県赤穂市で110回目「赤穂義士祭」ゲストに松平健さん

兵庫県赤穂市で110回目「赤穂義士祭」ゲストに松平健さん
 赤穂浪士が吉良上野介邸に討ち入った日に当たる12月14日、兵庫県赤穂市で「赤穂義士祭」が開催された。110回目となる今回は、大石内蔵助役のゲストとして俳優の松平健さん(60)が参加した。クライマックスは、47人の義士に扮した市民らが練り歩く「義士行列」。沿道には約8万人が詰めかけ、黒の羽織に刀を差し、討ち入り装束に身を包んだ松平さんはじめ参加者らは、笑顔で歓声に応えていた。

華やかな時代装束で奈良・春日大社の「春日若宮おん祭」

華やかな時代装束で奈良・春日大社の「春日若宮おん祭」
 奈良市の春日大社で平安時代から続く「春日若宮おん祭」(国重要無形民俗文化財)が12月17日行われた。おん祭は春日大社の境内にある若宮神社の例祭で、人々が飢饉と疫病に苦しんだ1136年、関白の藤原忠通が神霊に国の安泰を祈願したしたのが始まり。華やかな時代装束で約1000人が練り歩く「お渡り式」があり、多くの観光客が詰めかけた。

奈良・藤原宮跡で等間隔に並ぶ19の柱穴見つかる

奈良・藤原宮跡で等間隔に並ぶ19の柱穴見つかる
 奈良文化財研究所は12月19日、国内初の本格的な都城だった藤原京(694~710年)の中枢部・藤原宮跡(奈良県橿原市)で、等間隔に並ぶ19の柱穴が見つかったと発表した。柱穴は、天皇が執務した大極殿の南側、役人が儀式や政務を行った「朝堂院」の広場跡で発見された。石敷きの広場を東西方向54㍍にわたり3㍍間隔で直径約30㌢の穴が並んでいた。別の場所からは天皇の即位式や元日朝賀などで飾る幡(旗)を支えたとみられる柱跡が見つかっている。

ロシアで出土のネアンデルタール人の両親は近親か

ロシアで出土のネアンデルタール人の両親は近親か
 ドイツのマックスプランク進化人類学研究所などのチームは、12月19日付の英科学誌ネイチャー電子版に、ロシアのシベリアで出土した5万年前のネアンデルタール人女性の骨から採取したDNAを解析したところ、両親は親戚関係のような近親とみられることが分かったと発表した。同チームは2010年、洞窟で見つかった長さ2.6㌢の足の指の骨から、DNAを採取してゲノム(全遺伝情報)を解読。特徴からネアンデルタール人と特定した。

弥生時代の環濠集落跡から鉄生産用の地上炉跡見つかる

弥生時代の環濠集落跡から鉄生産用の地上炉跡見つかる
 長崎県壱岐市教育委員会は12月14日、弥生時代の環濠集落跡「カラカミ遺跡」(壱岐市)で、鉄生産用の地上炉跡が見つかったと発表した。弥生時代の地上炉跡の発見は、国内で初めて。専門家は、弥生時代には明確に確認されていない製錬炉の可能性があると指摘、同市教委は今後も調査を進めるという。同市教委によると、炉跡は弥生時代後期(紀元1~3世紀ごろ)のもので、少なくとも6基が見つかった。床面に直径約80㌢の範囲で焼けた土が広がっており、床面に直接炉をつくる「地上式」と確認した。
 国内で確認されている炉は地下式で、カラカミ遺跡の炉は韓国の遺跡にみられる精錬炉跡に似ている。周辺からは鉄製品の加工時に発生する鉄片は見つかっていないため、鉄自体を精錬していた可能性があるという。日本では6世紀後半ごろ鉄の精錬が始まったとされている。壱岐市には『魏志倭人伝』に記された「一支(いき)国」の王都とされる「原の辻遺跡」もあり、カラカミ遺跡も一支国の集落だったとされる。

歴史文書の保存・修復へ日・イ連携で専門技術者育成

歴史文書の保存・修復へ日・イ連携で専門技術者育成
 日本とインドネシアの学術専門家が連携し、大地震や津波などの災害で被災した歴史文書の保存・修復を進めている。この作業を担っているのは東京外国語大学アチェ文化財復興支援室。スマトラ沖地震・津波直後の2005年、アチェ州の歴史文書の被災状況を調査するため創設された。この間、文化庁の事業としてアチェ州で文書修復セミナーを開いたり、アチェ州から日本へ研修生を受け入れたりして、専門技術者を育成してきた。
 業務はアチェ州や西スマトラ州などのスマトラ島から、ジャワ島、スラウェシ島など各地のモスクや家屋に眠る古文書・歴史文書の写本を探り出し、保有者の了解を得て修復作業に取り組む。これまでの作業では、インドネシアにおけるイスラム普及など歴史解明につながる文書も多く、文化財としての価値を周知しながら、専門技術者の育成に力を注いでいる。
 研修では西スマトラ州の州都パダンの国立アンダラス大学と同州立公文書館の2人を日本へ招聘した。国立公文書館や元興寺文化財研究所、奈良文化財研究所、京大総合博物館などの機関が協力。のりの作り方や資料の乾燥方法、繕い方、裏打ちなど和紙を使った破損資料の補修技術を伝えた。また、研修生は宮城県石巻市を訪れ、東日本大震災の津波被害を受けた際、実際に行った、安価な材料で公文書に付着した泥と塩を除去する方法を学んだ。

日中の関係改善「東南アに極めて重要」ユドヨノ大統領

日中の関係改善「東南アに極めて重要」ユドヨノ大統領
 来日中のインドネシアのユドヨノ大統領は12月13日、憲政記念館(東京都千代田区)で講演し、「日中が良好な関係を築くことが東南アジアにとって極めて重要だ」と述べ、緊張が続く日中関係の改善を促した。同大統領は南シナ海での領有権争いが、偶発的な紛争に発展する危険性を指摘。国際法に基づいた平和的な解決を改めて訴えた。また、アジア地域全体の安定と繁栄のため、アジア全体の友好協力条約など、拘束力のある枠組みをつくる必要があるとも述べた。この講演会には安倍晋三首相や日本の国会議員なども参加した。

吉良邸討ち入り時の江戸庶民の話を近江商人が書簡に

吉良邸討ち入り時の江戸庶民の話を近江商人が書簡に
 江戸時代、元禄15年12月14日(1703年1月30日)に起きた赤穂浪士の吉良上野介邸討ち入りについて、江戸の庶民の間に飛び交った話を書き留めた近江商人の書簡が見つかり、話題になっている。書簡の日付は元禄15年12月15日。縦約20㌢、横約30㌢の折り畳んだ和紙に縦書きされている。差出人や宛先が書かれた包み紙はない。滋賀県日野町の近江商人の旧家に残されていたもので、古物商から購入した人が同町の町立近江日野商人館に鑑定を依頼した。
 書簡には、午前2時ごろ、吉良邸前で赤穂浪士が太鼓を打ち鳴らし「火事だ」と騒ぐと、奉公人などとして邸内に潜入していた4人が「かねて心得ていた通りに、門を開けた」などと記され、騒然とした江戸の町の様子が生き生きと伝わってくる。書簡は同館で2014年1月5~30日に公開される。