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歌川国芳・・・“武者絵の国芳”と称され人気を博した反骨の浮世絵師

 葛飾北斎、歌川(安藤)広重らの人気絵師が活躍した江戸時代末期。実は同時代に活動したのがここに取り上げる歌川国芳だ。しかし、国芳は彼ら人気絵師に比べ、日本における知名度や評価は必ずしも高いとはいえなかった。ただ、“武者絵の国芳”と称された彼の作品が一世を風靡したことは間違いない。ことに幕府政治を風刺した数々の作品を発表。その反骨精神は旺盛で、老境に入ってからも新シリーズへの意欲をのぞかせた。とはいえ、彼がこうした作品を残した、江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人として、あるいは「幕末の奇想の絵師」として注目され再評価されるようになったのは、20世紀後半になってからのことだ。

 2008年、富山県の農家の蔵から国芳を中心とした歌川派の版木が368枚発見され、これを購入した国立歴史民俗博物館により2009年に公開された。これにより国芳作品の創作過程の解明および浮世絵本来の「色」の復元が始まっている。

 歌川国芳は江戸日本橋の染物屋の息子として生まれた。本名は井草芳三郎。風景版画で有名な歌川広重とは同年の生まれで、同時代に活動した。国芳の生没年は1798(寛政9)~1861年(文久元年)。

 国芳は1811年(文化8年)、15歳で初代歌川豊国に入門した。豊国は華麗な役者絵で人気を博した花形絵師で、弟子に歌川国貞がいる。国芳は入門して3年後、1814年(文化11年)ごろから作品を発表。すでに歌川派を代表していた兄弟子、国直の支えもあって腕を磨いた。国芳が広く世に知られるのは師・豊国没後の1827年(文政10年)ごろに発表した『水滸伝』のシリーズで、これが評判となった。これを機に“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りをした。

 ところが、国芳が45歳のとき運命は一変する。老中水野忠邦による「天保に改革」が断行されたからだ。質素倹約、風紀粛清の号令の下、浮世絵も役者絵や美人画が禁止とされるなど大打撃を被ることになった。幕府の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子、国芳は浮世絵で精一杯の皮肉をぶっつけた。1843年(天保14年)に発表した『源頼光公館土蜘作妖怪図』だ。表向きは平安時代の武将、源頼光による土蜘蛛退治を描いたものだが、本当は土蜘蛛を退治するどころか、妖術に苦しめられているのは頼光と見せかけて、実は十二代将軍家慶だ。国家危急のときに、惰眠をむさぼっているとの痛烈な批判が込められていた。このほか、絵の至るところに隠されている悪政に対する風刺があったのだ。江戸の人々は、国芳がこの作品に込めた謎を解いては、溜飲を下げて大喜びした。

 しかし、幕府はそんな国芳を要注意人物と徹底的にマークした。国芳は何度も奉行所に呼び出され尋問を受け、時には罰金を取られたり、始末書を書かされたりした。それでも国芳は懲りず、禁令の網をかいくぐり、幕府を風刺する作品を描き続け、江戸の人々に大喝采を受けた。国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。ユーモアとウィットに富み、粋でいなせ、そして豪快で頑固な国芳に江戸中が夢中になった。

 やがて老中水野忠邦が失脚。国芳は待ってましたとばかりに、江戸の人々の度肝を抜く武者絵を世に送り出していった。1848年(嘉永元年)~1854年(安政元年)にかけて国芳が描いた『宮本武蔵と巨鯨』は、浮世絵3枚分に描かれた、まるで大スペクタクル絵画。武蔵の強さを表現するのに、相手が人間では物足りない。ケタ違いの鯨と戦わせることで、ヒーロー武蔵の強さを伝えたのだ。またもや会心の作だった。

 武者絵で大成功を収める一方で、国芳は西洋の銅版画を集め、遠近法や陰影の付け方の研究にも積極的に励んだ。そして、これらの技法を採り入れた新シリーズの製作に取り掛かった。国芳56歳のときのことだ。このシリーズは47人の志士が揃う忠臣蔵。ただ、新しい西洋画の技法で忠臣蔵を描くには制約が多すぎた。公儀に逆らった赤穂浪士を称えることはご法度だ。そのため、舞台で演じられる役柄として、写実的に描くしかなかった。しかし、それでは彼の派手な浮世絵を見慣れている当時の人々にとっては、全く異質のものであって、受け入れられず、すぐに新シリーズは打ち切りとなった。彼の新しい挑戦は失敗に終わったのだ。
 国芳が赤穂浪士を描いた翌年、1853年(嘉永6年)、浦賀沖にペリーの黒船が来航した。まさに「泰平の眠りを覚ます蒸気船…」だった。ひとつの時代が終わり、新しい時代の幕開けをイメージさせるできごとだった。こうした時代の流れに合わせるかのように、国芳の時代は終焉を迎えたのだった。

(参考資料)吉田漱「浮世絵の基礎知識」、藤懸静也「増訂 浮世絵」、藤懸静也「文化文政美人風俗浮世絵集」

岡倉天心・・・日本美術の発展と、大観らを育て美術教育に大きな功績

 岡倉天心は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として日本美術の発展に大きな功績を残した。その活動には日本画改革運動や古美術の保存、「東京美術学校(現在の東京藝術大学)」の設立、ボストン美術館中国・日本美術部長就任など、多岐にわたり目を見張るものがある。「日本美術院」の創設者としても著名だ。また、東京美術学校の第二代校長時代の天心は、美術教育にとくに力を注ぎ、後年の大家、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てたことで知られる。生没年は1863~1913年。

 岡倉天心は元越前福井藩士で、生糸の輸出を生業とする石川屋、岡倉勘右衛門(かんえもん)の次男として横浜に生まれた。本名は覚三(かくぞう)。幼名は角蔵。父が貿易商で、幼い頃から英語に慣れていた。1875年(明治8年)東京開成所(のち官立東京開成学校、現在の東京大学)に入所し、政治学、理財学を学んだ。英語が得意だったことから、同校講師のアーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝った。また、天心は1882年(明治15年)に専修学校(現在の専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し学生たちを鼓舞した。1890年(明治23年)、27歳の若さで東京美術学校の第二代校長となり、当時気鋭の青年画家、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てた。

 急進的な日本画改革を推し進めようとする天心の姿勢は、伝統絵画に固執する人々から激しい反発を受けることになる。とくに学校内部の確執に端を発した、いわゆる東京美術学校騒動により1898年(明治31年)、校長の職を退いた天心は、その半年後、彼に付き従った橋本雅邦をはじめとする26名の同志とともに日本美術院を創設した。
 横山大観、下村観山、菱田春草らの日本美術院の青年画家たちは、天心の理想を受け継ぎ、広く世界に目を向けながら、それまでの日本の伝統絵画に西洋画の長所を取り入れた新しい日本画の創造を目指したのだ。その創立展には「屈原(くつげん)」(横山大観)、「闍維(じゃい)」(下村観山)、「武蔵野(むさしの)」(菱田春草)などの話題作が出品された。

 天心の指導を受けた横山大観、菱田春草らの日本美術院の作家たちは大胆な没線(もっせん)描法を推し進めたが、その作品は「朦朧体(もうろうたい)」「化物絵」などと激しい非難を浴び、世間に受け入れられなくなった。こうした中で日本美術院の経営は行き詰まり、天心の目はインド、アメリカなど海外へ向けられていく。1904年(明治37年)、天心に従って渡航した横山大観、菱田春草らはニューヨークはじめ各地で展覧会を開き好評を博した。また、天心は自筆の英文著作「The Book of Tea(茶の本)」などを通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど国際的な視野に立って活動した。

 1906年(明治39年)、天心は経営難に陥った日本美術院を再建するため、これを改組し、その第一部(絵画)を1903年(明治36年)に土地と家屋を買い求めておいた茨城県北茨城市・五浦に移転。この地で新しい日本画の創造を目指し、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らを呼び寄せた。以後、ここを本拠に生活上の苦境に耐えながらも五浦の作家たちは、それまで不評を買った「朦朧体」に改良を加え、1907年(明治40年)に発足した文部省主催の展覧会(文展)に近代日本画史に残る名作を発表していった。
(参考資料)小島直記「人材水脈」

板垣退助・・・戦後、百円紙幣に肖像が用いられた自由民権運動の主導者

 板垣退助は周知の通り、自由党総理として「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を遺し、自由民権運動の主導者として知られ、生存時、一般庶民から圧倒的な支持を受けていた。没後も、日本民主政治の草分けとして人気が高く、太平洋戦争後、50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。

 ただ板垣退助は、人柄は誠実でまじめだが、反体制ぶりは徹底していない。また生来、人が良く、もっといえばお人好しの側面があった。政治の世界でのお人好しは致命的な弱味となる場合がある。そのため、彼は自由民権運動の主導者と持てはやされ、国民的人気が高かった割には、政治的力量がなかったというか、少なくともそれにふさわしい評価を受けるには至らなかった。位階勲等は従一位勲一等。爵位は伯爵。板垣退助の生没年は1837(天保8)~1919年(大正8年)。

 板垣退助は土佐国・高知城下中島町(現在の高知市)に土佐藩士・乾(いぬい)栄六正成の長男として生まれた。幼名は猪之助、退助は元は通称で、諱は初めは正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)と改めた。号は無形(むけい)だが、如雲(じょうん)とも号した。乾家は220石取りの馬廻役(上士身分)であり、同じ土佐藩士、後藤象二郎とは幼馴染みだ。坂本龍馬らの郷士(下士身分)よりも恵まれた扱いを受けていた。

 幕末、藩主・山内豊信(容堂)の側用役から始まり、藩の要職を歴任した。倒幕運動に参加し、武力倒幕を主張。土佐藩が大政奉還論に傾く中、薩摩藩の西郷隆盛らと倒幕の密約を結ぶが、土佐藩は後藤象二郎の主導により「薩土盟約」を締結。しかし両藩の思惑の違いにより、短期間に破綻。後藤・容堂主導により、「大政奉還の建白」が成された。慶喜がこれを受けいれるが、薩摩藩を中心とした倒幕派はこれに飽き足らず、「王政復古の大号令」に伴う「小御所会議」で慶喜の辞官納地を決定。反発する旧幕府側の兵により、「鳥羽伏見の戦い」が勃発する。

 戊辰戦争では退助は、土佐藩軍指令、東山道先鋒総督府参謀として従軍した。天領(旧幕府領)の甲府城の掌握目前の美濃大垣に着いた1868年(慶応4年)、武田信玄の重臣、板垣信方の没後320年にあたるため、甲斐源氏の流れを組む板垣氏の後継であるとの家伝を示して、甲斐国民衆の支持を得ようと先祖の旧姓とする板垣姓に改姓した。この後、退助の目論見どおり甲斐国民衆の支持を受け、甲州勝沼の戦いで近藤勇率いる新選組を撃破した。

 征韓論をめぐり政府で大分裂が起きた際、西郷隆盛が退助に宛てて出した手紙がある。その中で西郷は「朝鮮への使節には私が単身乗り込みたい。そうすれば、きっと殺されるだろう。一国を代表する使節が殺されたとなれば、戦争する名文は十分に立つ。戦争になってからのことは、一切あげて貴君にお任せする。だから、私が使節になる案を支持していただきたい」という意味のことを書いている。この手紙をもらった退助は、西郷を朝鮮に派遣する案を全面的に支持した。参議の会議でも西郷派遣案を決定した。

 ところが、外遊から帰ってきた大久保利通や木戸孝允が真っ向から反対し、右大臣で臨時太政大臣代理となった岩倉具視が、大久保と組んで参議の決議とは正反対の意見を上奏し、天皇はそれを採可した。参議の決議は踏みにじられた。西郷は直ちに辞表を出し、続いて退助も後藤象二郎、肥前の江藤新平、副島種臣らと参議を辞めた。

 退助は翌1874年(明治7年)「民選議院設立建白」を出した。自由民権運動の始まりだ。土佐立志社系の有志たちとの運動だった。そして1881年(明治14年)、退助は自由党を創立、総理となるが党内左派の激化などにより、党を解散する。「板垣死すとも自由は死せず」という退助の有名な言葉がある。このあたりが退助の絶頂期だった。

 国会開設後は目立った事績は残せなかった。第一次大隈内閣で1898年6月30日~11月8日、第十七代内務大臣を務めたことくらいだ。

板垣退助の反体制ぶりは徹底していない。だからといって不誠実なわけではない。まじめな人柄だ。まじめすぎるといってもいいだろう。それが、ある場合には真価を発揮したが、裏目に出たことも多い。板垣が人に騙されやすいお人好しの側面があったことが、明治の反体制運動を一本に絞れなかった大きな要因の一つだ。政治の世界でのお人好しは致命的な弱味となるといっても過言ではない。国民的人気がたかった割には、政治信条としては一定せず、ブレがあり、政治的力量にも欠けたとみるのが妥当だろう。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」

運慶・・・日本の仏像彫刻の最高峰に燦然と君臨

 平安末期から鎌倉の初期にかけて、寺社仏閣に仏像を刻んだ仏師は星の数ほど存在した。けれども、日本の仏像彫刻の道を登りつめ最高峰に到達し、その後、仏像彫刻としては日本文化史上、この人を超える仏師は遂に現れなかった。その人こそ運慶だ。

 運慶という仏師は、その生涯の多くが謎に包まれている。六波羅蜜寺に現存する「運慶の像」と称される木像僧形の座像がある。これを見ると、やや尖った頭頂に頑丈な体躯、数珠を指に絡ませ、「法眼」の位を許された僧侶だが、漂う朴訥な風情は、一介の職人だ。運慶に限らず、当時の仏師は例外なく、寺院に付属する職人集団であり、彼も南都=奈良を本拠とする、東大寺や興福寺に所属し仏像の製作・補修にあたる一団の一人に過ぎなかった。したがって、仏師運慶も、決して現代的な意味での芸術家ではなかった。

 運慶は1140年代から1150年代の初めにかけて生まれたと考えられる。平等院鳳凰堂に代表される浄土信仰が一世を風靡し、貴族と結びついた京都仏師たちは、優雅な阿弥陀如来像を次々と生み出していく。その京都仏師の頂点にあったのが定朝であり、運慶が生まれた頃には定朝直系の仏師が、仏像彫刻の主流となっていた。中でも院尊を棟梁とする院派、明円を頭と仰ぐ円派の二代派閥が、都でその創造の優秀さを競い合っていた。

運慶はこうした京都仏師を横目に、創造の機会すらほとんどない、修復をもっぱらとする旧勢力の南都=奈良仏師の集団に、父の康慶の代から参加していたのだ。康慶は奈良仏師でも傍流の出であり、運慶には仏像の修理の末端しか回ってこなかったようだ。

 こうした劣勢な環境の中で、わずかでも幸運だったのは興福寺が権門・藤原氏の氏寺だったことだ。鎌倉時代までの日本政治史は、いわば藤原一族の歴史であり、権力と富はこの一門のみに集まった。そうした家を大檀那としている限り、「食うに困らぬ」の思いであったろう。保元の乱(1156)、平治の乱(1159)を経て、藤原氏の権勢が地に落ちて、恐らく仏像の修理もこれまでのようには行われなくなったはずだ。

だが、それから間もなくして興福寺の系列の忍辱山円成寺の大日如来像を造顕する仕事が入った。どういう経緯からか不明だが、安元元年(1175)から1年をかけ、運慶は父とともに仏像制作に参加している。台座に「大仏師康慶実弟子運慶」と記されており、この仕事が運慶の名を史上、確実に登場させることになった。ただ、この像は後の運慶の荒々しい写実性のある作品に比べると、際立って王朝風の優雅さに彩られ端正で清冽ではあるが、独創的とは言い難く、いかにも優等生の作品といった印象が強い。この時代、政治は明らかに貴族の手から武士の手へ、平家そして源氏隆盛となり、興福寺でも多くの伽藍が消失。奈良時代の数多の仏像が焼き尽くされる。と同時に、運慶の姿は忽然と歴史の舞台から消える。

運慶が再び現れるのは南都最大の寺院、東大寺の復興においてのことになる。建久6年(1195)、大仏の開眼供養に際し、運慶は「法眼」に叙せられていた。翌建久7年、東大寺大仏殿で虚空蔵菩薩像、時国天像を運慶が製作。ただ、これらは現存していない。

運慶の作風が後世に伝えられるのは建仁3年(1203)の作品まで待たねばならない。弟子の快慶とともに、20年に及ぶ東大寺再建事業の最後を飾って、東大寺南大門に安置する阿吽(あうん)二体の金剛力士像=仁王像を彫り上げたのだ。仁王の筋骨の逞しさ、人間くさい勇壮さ、迫力・切れ味ともに、この作品は戦乱の中から生まれたことを雄弁に語っている。こうして運慶は、仏像彫刻界の頂点に立った。

金剛力士像が完成した5年後、承元2年(1208)、興福寺の北円堂で中尊の弥勒像をはじめ、脇侍二体、四天王、羅漢二体(無著・世親)が造られた。現存する弥勒と羅漢二体は、運慶を日本彫刻史上にその名を刻ませた最高の傑作といえるだろう。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」

                             

緒方洪庵・・・種痘を本格的に広め数多くの人材を輩出した「適塾」主宰者

 緒方洪庵は優れた蘭方医で、幕末から明治維新にかけて活躍した大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉、長与専斎、佐野常民、高松凌雲、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)など数多くの人材を輩出した蘭学塾「適々斎塾(適塾)」の主宰者だ。

 緒方洪庵は当時最も恐れられていた病の一つ、天然痘の予防法である種痘を日本で本格的に広めた一人だ。1849年(嘉永2年)、洪庵40歳のとき、京へ赴き種痘を得、古手町(現在の大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始め、迷信のはびこる世の中の誤解や悪評に屈することなく、種痘の普及に努めた。日本最初の病理学書「病学通論」を著し、天然痘予防に尽力。また1858年(安政5年)、コレラ流行に際しては「虎狼痢治準(ころりちじゅん)」と題した治療手引書を出版し、医師に配布するなど日本医学の近代化に努めた。

 緒方洪庵は備中国足守藩士、佐伯瀬左衛門の三男として足守(現在の岡山市足守)で生まれている。諱は章。字は公裁、号を洪庵ほか、適々斎、華陰と称した。生没年は1810(文化4年)~1863年(文久3年)。
 1825年(文政8年)、大坂蔵屋敷留守居役となった父とともに大坂に出た。翌年から4年間、中天游の私塾「思々斎塾」で学んだ。1831年(天保2年)江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。1836年(天保7年)、長崎へ遊学しオランダ人医師・ニーマンのもとで医学を学び、この頃から緒方洪庵と名乗ったようだ。

1838年(天保9年)、大坂にもどり瓦町(現在の大阪市中央区瓦町)で医業を開業すると同時に、蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開いた。天游門下の先輩、億川百記の娘・八重と結婚。この後、6男7女をもうけている。1845年(弘化2年)、過書町(現在の大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入し適塾を移転した。洪庵の名声が高くなり、門下生が増えて手狭になったためだ。
 洪庵の若い頃の医学の主流は漢方だった。もちろん蘭方医学の興隆も目を見張るものがあったが、社会的には漢方が圧倒的に強かった。だが、洪庵は西洋医学蘭方の道を選んだ。杉田玄白の「蘭学事始」より11年後、洪庵17歳の時のことだ。

洪庵の特色はその語学力の冴えにある。医者としての名声もさることながら、その数多くの翻訳によって、緒方洪庵の名は広く世に知られた。適塾はいつしか医学塾にとどまらず、次第に語学塾の性格が強い塾へと発展していった。吉田松陰の「松下村塾」を思想教育の塾とすれば、適塾はいわば語学教育・実践教育の塾だった。そして語学を学ぶことは、西洋思想そのものを身につけることに他ならなかった。
 洪庵が医師の本来のあり方を啓蒙するとともに、自己の戒めとした翻訳書がある。これは後に「扶氏医戒之略」の名で世に知られるが、適塾のモットーともなった。十二章にもなるが、そのうちはじめの2章を紹介しよう。
一. 医の世に生活するは、人のためのみ、おのれがためにあらずといふことをその業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧(かえりみ)ず、唯おのれをすてて人を救はんことを希(ねが)ふべし。人の生命を保全し、人の疾病を復活し、人の患苦を寛解するの外他事あるものにあらず。

二. 病者に対しては、唯病者を知るべし。貴賎貧富を顧ることなかれ。長者一握の黄金を以って貧士双眼の感涙に比するに、その心に得るところ如何ぞや。深く之を思ふべし。
洪庵は「医は仁術である」ということを、最もやかましく言ったというか、実践した人物だが、これらの言葉は現代においても必要とされる基本的な医の倫理ばかりだ。

 冒頭に記した通り、適塾からは多くの人材が出た。洪庵の門下は3000人といわれたが、様々な分野で活躍している。長与専斎は肥前大村の出身だが、日本近代医学の発展に尽くし、後に東京医学校の校長になる。橋本左内は越前出身で一般に志士としてのイメージが強いが、彼の本業は医者だ。越前藩の藩校の学長を務め、学制改革に力を尽くした。大村益次郎は日本国軍の創設者だ。佐野常民は佐賀出身で、後に日本赤十字社の創始者になる。高松凌雲は幕府の医官だった。幕府が倒壊した後、榎本武揚と一緒に箱館に行って戦い抜く変わった医者だ。しかし、明治維新後は政府の医学奨励に協力し、後に医療奉仕機関の同愛社を作る。箕作秋坪は有名なオランダ学者だ。福沢諭吉はいうまでもない。

 洪庵は1862年(文久2年)、幕府の度重なる要請により奥医師兼西洋医学所頭取として江戸へ出仕する。だが翌年、江戸の医学所頭取役宅で突然、喀血し窒息により死去、享年54だった。

(参考資料))百瀬明治『「適塾」の研究』、童門冬二「私塾の研究」、司馬遼太郎・緒方富雄「日本史探訪/国学と洋学」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

犬養毅・・・偶然が重なり首相になるが、軍部に暗殺された高潔の士

 犬養毅といえば「五・一五事件」で軍部に暗殺された総理大臣として記憶されている人物だ。だが彼自身、高潔にして毒舌の士で、この毒舌が様々な政敵をつくったが、それは決して政治家の頂点を目指すためではなかった。私生活では全く無欲の人で、細かいことには無頓着だった。そんな彼が総理大臣になったのは、いくつかの偶然が重なったのだ。犬養の生没年は1855(安政2)~1932年(昭和7年)。

 犬養毅は備中国賀陽郡庭瀬村(現在の岡山市北区川入)に大庄屋、犬飼源左衛門の次男として生まれた(後に犬養と改姓)。通称は仙次郎。号は木堂。慶応義塾在学中に郵便報知新聞(後の報知新聞)の記者として西南戦争に従軍した。
犬養は帰ってからの学費は、卒業まで社から毎月10円ずつ出してもらうという条件で、学校を休学して現地に赴いた。

彼が現地に着いたとき、ちょうど田原坂の激戦中だった。犬養の書いたルポルタージュは「戦地直報」というタイトルに「犬養毅」という署名入りで紙面を飾った。これは、鹿児島・城山が陥落するまで前後百数回連載されたが、何といっても実際に目撃した実況を書いたものだけに、非常に精彩があって大いに読者の歓迎するところとなった。

1890年(明治23年)の第一回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録をつくった。後に尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれた。
 冒頭に述べた犬養首相誕生にあたって重なった偶然をみてみよう。犬養は1925年(大正14年)、自ら率いる「革新倶楽部」が選挙のたびに議席を減らすので、「立憲政友会」と合同した責任を取って政界を引退した。ところが、犬養の地元岡山の選挙民はこれに納得しない。そこで犬養の了承を得ないで、彼の引退に伴う補欠選挙で犬養自身を当選させてしまった。さらに、合同した立憲政友会の党首、田中義一総裁が急死するという偶然が重なった。

 立憲政友会は田中の跡目を巡って鈴木喜三郎と床次竹二郎が激しく争い、党分裂の恐れが出た。そこで、党内の融和派が犬養を担ぎ出しに動き、嫌がる犬養を強引に説得したのだ。その結果、1929年(昭和4年)、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれてしまった。
 偶然はまだ続く。対立する民政党の瓦解だった。まず濱口雄幸総理が東京駅でテロリストに撃たれ、それがもとで退陣。後を継いだ第二次若槻禮次郎内閣も、1931年(昭和6年)勃発した満州事変を巡って閣内不統一に陥り、総辞職した。このころは現代の、昭和から平成にかけて50数年もの間、閣内不一致に陥ろうと、党内対立が起ころうとなりふりかまわず、党首をすげかえ政権をたらいまわししてきた自民党政治とは全く違う、かなり民主的な政治が行われていたのだ。

このころは、内閣が総辞職あるいは閣内が行き詰まって政権を投げ出したときは、野党第一党に政権を譲るという「憲政の常道」のルールが確立されていた。しかも、元老・西園寺公望は犬養が満州事変を中華民国との話し合いで解決したいとの意欲を持っていたことを評価して、昭和天皇に野党の立憲政友会の犬養を推薦したのだ。きちんとしたルールがあり、それを運用する人物たちがいた時代だ。このとき、犬養は数え年で77歳。確かに高齢ながら、こうして無欲で高潔の士、第29代犬養毅内閣総理大臣が誕生したのだ。

 しかし、犬養がその座にあったのはわずか5カ月間だった。1932年(昭和7年)5月15日、総理官邸で海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団に襲われ、暗殺されたからだ。犬養の無念の死だった
「五・一五事件」だ。犬養の死は大きな後遺症を残し、昭和史の分水嶺となった。五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたが、現職の内閣総理大臣を殺害したのに、なぜか極めて軽い処罰で済まされた。死刑が全く適用されず、数年後に全員が恩赦で釈放されるという軽い刑で処理されたのだ。このことが、4年後に起こった大掛かりな、軍部が引き起こした事件「二・二六事件」の遠因になったとみられる。

(参考資料)三好徹「日本宰相伝 官邸に死す」、小島直記「福沢山脈」

榎本武揚・・・幕臣で初めて海軍最高位・海軍中将になった男

 日本で初の陸軍大将になったのは西郷隆盛だ。そしてその頃、海軍の最高位の海軍中将に初めて任じられたのが榎本武揚だった。西郷は維新の元勲の一人だから当然としても、榎本は幕府海軍の司令官として、箱館五稜郭で官軍と戦った、敵将の一人だ。本来なら敗れた時、自刃していてもおかしくない。それが、後に海軍中将となり外務大臣となったのだから、これほど数奇な人生ドラマを体験した人は少ないだろう。

彼はまた海軍軍人であるとともに、技術官僚(テクノクラート)であり外交官であり、英・蘭・仏・独・露の五カ国語に通じ、さらに国際法から鉱物学、化学、地質学、気象学、電信技術に通じた第一級の人物だった。箱館五稜郭戦争で官軍の参謀、黒田清隆らが榎本の才能を惜しみ、維新後に必要な人材として降伏を勧めたのもうなずける。

 榎本武揚は天保7年(1836)8月25日、江戸下谷御徒町で、幕臣榎本円兵衛の次男として誕生した。幼名は釜次郎。父はもともと備後国安那郡箱田村(現広島県)の郷士で箱田円兵衛武規といったが、向学心に富んでいたので、江戸へ出て伊能忠敬の内弟子となった。そして彼は1000両出して御徒士で5人扶持55俵の禄高の榎本家の株を買って、榎本武兵衛の娘婿となって、幕臣の端くれに加わった。文政6年円兵衛は幕府の天文方に出仕する身となった。

文政10年、榎本の家付き妻が病死したため、後妻を迎え、その間に鍋太郎、釜次郎の二人の子供が生まれている。「鍋」と「釜」がついていれば生涯、食いっぱぐれがないだろう-というのが命名の理由と伝えられている。

釜次郎(後の武揚)は、儒者にしたいという父の願いで幕府の学問所に入学したが、途中で断念して技術関係に進みたいと考えるようになった。そして19歳の時、蝦夷地巡見使となった堀織部正の従者として蝦夷地へ赴く。幕臣の中では開明派に属する堀織部正は幕末初の外務官僚で、この良き先輩と北方領域を旅したことが、釜次郎の後半生を決定づける。

 安政3年(1856)、21歳の時、榎本は長崎に新設された海軍伝習所入りを命じられて、勇躍長崎へ向かう。幕臣ばかりでなく、薩摩から16名、長州15名、佐賀47名など各藩から優秀な人材が選抜されて入所した。幕府派遣の45名の中に勝麟太郎が加わっていた。ここで彼は航海と造船、砲術、機関術と測量術といった技術を修得する。

 文久元年11月、榎本らのアメリカ留学が決定された。ところが、当時アメリカで南北戦争(1861~65年)が勃発し、アメリカ政府は幕府からの軍艦注文と留学生受け入れを断ってきた。そこで、幕府は方針を変え、文久2年3月にオランダへ蒸気軍艦1隻の建造を注文し、同時に先に決定していた留学生を改めてオランダに派遣することを決めた。榎本27歳のときのことだ。15名の日本人留学生は文久3年4月の品川出港以来、11カ月の長旅の後、ロッテルダムに到着。その後、慶応2年(1866)までオランダで海軍軍人として必要な学科と実務を修得した。

 帰国した榎本は、幕府がオランダに発注し同国からの帰途、乗船した軍艦、開陽丸の船将を命じられた。榎本は32歳になっていた。この後、鳥羽・伏見の敗戦を経て幕府軍の立場は急転、十五代将軍慶喜が戦意喪失したため、薩長討幕派=官軍の前に防戦一方となった。江戸城での大評定で主戦派の小栗上野介を退け、和平派の勝安房守が主導権を手中にし若年寄、陸軍総裁に任命され、榎本は海軍副総裁となった。

勝が西郷隆盛東征軍参謀と江戸城明け渡しの交渉を進めているとき、榎本は艦隊を率いて抗戦すべく品川沖を出航した。そして、勝の制止、説得を振り切り、箱館五稜郭戦争まで突っ走ることになる。
 勝と榎本は共に外国をみてきているので、閉ざされた幕政のままでは、いよいよ日本は遅れるばかりと悟っていたはずだが、変わり身の速い、いわば先見性の豊かな勝に対して、榎本は現職に固執する融通の利かなさを多分に持っていた。政治家・勝に対して、技術家・榎本は幕府艦隊の長官という立場にこだわって、明治維新という時代の変化に乗り遅れたばかりか、むしろ取り残されてしまった。

 箱館五稜郭戦争での降伏、2年間の牢獄生活を経て明治41年、73歳で亡くなるまで、明治13年に海軍卿、後に初代逓信大臣、子爵、農商務大臣から外務大臣、枢密顧問官などを歴任した。彼は歴史の中心に位置した輝ける男の一人として終始した幸運児でもあった。

(参考資料)加茂儀一「榎本武揚」、邦光史郎「物語 海の日本史」 

尾形光琳・・・装飾的大画面を得意とした「琳派」の代表的画家

 尾形光琳は、後世「琳派」と呼ばれる、装飾的大画面を得意とした画派の代表的画家だ。主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝文化時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。その非凡なデザイン感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、デザインなどに与えた影響は大きい。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。

 尾形光琳は京都の富裕な呉服商「雁金屋」の当主、尾形宗謙の次男として生まれた。光琳の生没年は1658(万治元年)~1716年(享保元年)。5年遅れて、陶芸家として名高い弟、乾山が生まれている。雁金屋は、祖父宗伯の頃には宮中御用を務めるほどで、京でも揺るぎのない富める商人であった。物心ともに豊かな環境に生まれ育った光琳は、幼いときから父に連れられ、二条関白家をはじめ公家の屋敷にも出入りし、よく能の相手を務めたという。豊かな情操の世界に遊んだ少年時代、後に花開く光琳の天分は、こうして蓄積されていった。

 光琳が30歳の時、父宗謙が死去。光琳の兄が家督を継ぎ、光琳は二つの家屋敷と能道具一式、それに大名などへの貸付証文などを譲られ、金利生活者として一生を送ることのできる保証を得た。しかし、彼は遊興三昧の日々を送り、相続した莫大な財産を使い果たし、弟の乾山にも借金するありさまだった。光琳が40歳になって画業に身を入れ始めたのも、こうした経済的困窮が一因だった。
 画家として立った光琳が常に思い浮かべるのは、呉服商だった生家、雁金屋の店先の華やかな打掛・小袖などの呉服の数々だった。この「美しきもの」が、少・青年期の彼の美意識の成長に大きな影響を与え、一生の拠りどころになったであろうことは容易に想像できる。彼が尊敬してやまない俵屋宗達が、その家業だった扇絵にその構成の基本を置いたように、光琳もまた「きもの絵」を忘れなかったようだ。

 1701年(元禄14年)、44歳の時、光琳は「法橋(ほつきょう)」に叙せられた。ようやく画家として世に認められた光琳だったが、能や茶の湯や音曲に日々を送り、遊里に通い詰める放蕩三昧の日々が続く。この頃には父より譲られた屋敷はすでになく、家宝を質入し借財も多かった。彼にとって快楽の追求は美の追求であり、親の遺産を食い潰し、食い潰すことを糧とする創作生活だった。この時代、芸術と称するものは公卿や武門の名家の貴族が育てた伝統だったことは確かだが、光琳の芸術は非常に貴族的であると同時に、その貴族を逆に眺め返している。商人としての本当の生活的なポイントから睨み返しているという要素がある。だから、いわゆる庶民的なバイタリティーを持つと同時に、貴族的な教養が絢爛として彼の血の中に流れているというわけだ。

 年号が宝永と改まった頃、光琳は江戸へ下向している。もう50歳近い。当時の江戸の人口は100万人。元禄前後の50~60年間に大名貸しの貸し倒れで破産した京の商人は50を数え、光琳の生家、雁金屋も破産した。江戸に迎えられた光琳は大名酒井雅楽頭の扶持を受けながら、制作に励む。しかし、江戸は光琳にとって、必ずしも居心地のよい場所ではなかった。やがて、50歳を超えた彼は京へ戻っていく。江戸は権力の中心であって、芸術の中心ではなかったのだ。

彼の二大代表作「紅白梅図屏風」と「燕子図屏風」の大作が、いずれも元禄も終末を迎えた頃から、さらに宝永・正徳と時代が下る晩年の作であることを思えば、この二点の作品は、光琳の晩年を飾るにふさわしい。

(参考資料)岡本太郎「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

大岡忠相・・・吉宗の信頼を得て「享保の改革」を支えた江戸町奉行

 一般に知られている江戸時代の「三大改革」のうち、最初に行われたのが八代将軍・徳川吉宗による「享保の改革」だが、江戸町奉行としてこれを支えた人物が、TVドラマでもお馴染みの、この大岡越前守忠相(ただすけ)だ。水戸黄門の水戸光圀などの例でも明らかなように、小説やTVドラマが伝えるものはいわば虚像であって、実像とはかけ離れている場合が少なくない。大岡忠相の場合は果たしてどうだろうか。

 大岡忠相は1677年(延宝5年)、旗本大岡美濃守忠高の十人の子供の中の七番目(四男)に生まれ、1686年(貞享3年)10歳のとき同族大岡忠真の娘のところに婿養子として入った。忠相が養子にいったころの実父忠高は奈良町奉行で2700石を知行し、養父忠真は御徒頭として1420石を知行していた。生家・養家ともに上級旗本で、彼の出発はいわば一定の出世を約束されたに等しい恵まれたものだった。

 1700年(元禄13年)、忠相は24歳のとき養父の後を継ぎ、26歳で初めて幕府の役職、御書院番に就いた。御書院番は戦時には将軍の身辺を守り、平時には江戸城の要所を守り、また将軍出行時にはその前後を守って随行する役だ。忠相がこの職にあった1703年(元禄16年)、江戸に大地震が起きた。震源地は小田原付近。死者は小田原でおよそ2300人、小田原から品川までの間で1万5000人、房州10万人、江戸3万7000余人といわれた。後の安政の大地震(1855年)、大正の関東大震災(1923年)とともに、関東地方を襲った地震の中でも最も規模の大きいものだ。忠相はこの地震の復旧作業に精励して功績があった。後の御普請奉行、町奉行への出世の足掛かりとなった。

 1704年(宝永元年)に御徒頭、1707年(宝永4年)に御使番、そして1708年(宝永5年)に御目付に進んだ。1712年(正徳2年)、山田町奉行に転じた。4年ほど山田町奉行を務め、1716年(享保元年)忠相は江戸に呼び返されて御普請奉行になった。吉宗が八代将軍になる直前のことだ。抜擢されて、世に名高い江戸町奉行・大岡越前守忠相となるのは1717年(享保2年)のことだ。

 江戸町奉行は京都町奉行・大坂町奉行・長崎町奉行・奈良町奉行・山田町奉行など幕府直轄の町を支配する町奉行の一つだが、江戸の場合だけは寺社奉行・勘定奉行とともに三奉行と呼ばれて別格の待遇を受け、評定所の正規構成員として幕府最高の司法と行政に参与する高級閣僚の業務をも担当する特別官だった。

 忠相が江戸町奉行になったときは41歳、家禄は養父から引き継いだままの1920石だが、このころの江戸町奉行は大体1000石~1500石くらいの旗本が成っているので、異例のものとは言い難い。ただ、当時の町奉行は60歳前後の者が多かったから、41歳の忠相は早い出世といえる。彼はこの町奉行職に19年余という長期間就いている。吉宗が将軍だった間の町奉行の平均在職年数は9.27年で、忠相の場合はその倍を超えている。
 1736年(元文元年)、忠相は寺社奉行になった。60歳のときのことだ。江戸町奉行と勘定奉行は旗本が就くべき役職であったのに対し、寺社奉行は譜代大名が就く役職だった。しかもこのポストは1658年(万治元年)以降は、将来徳川政権の首脳部(老中・若年寄・京都所司代・大坂城代など)になることを期待されて、その訓練・見習いを兼ねた幹部候補生という意味合いもあって、奏者番に抜擢された譜代大名の若手有能者の中から、さらに選ばれて兼務する名誉ある職だった。したがって、万石以上の譜代大名でもなく奏者番でもない、60歳という老旗本が寺社奉行になったということは、異例中の異例だ。

 1920石で江戸町奉行になった大岡忠相は、1723年(享保8年)「足高(たしだか)の制」が施行されて江戸町奉行が3000石相当の役職とされると、当然その不足高1080石を補われるが、1725年(享保10年)に2000石の加増を受けて3920石の家禄となり、足高の適用を外される。本来「足高の制」というのは、幕府財政に負担をかけないで人材を登用するために取られた措置なので、功労があっても加増はしないのが原則だから、忠相のこの大幅加増も異例というべきことだ。

 さらに寺社奉行に栄進したとき、新たに2000石を加増されて5920石の家禄となり、それに4080石の足高を加えて万石格となった。それから12年目の1748年(寛延元年)、足高になっていた分が加えられて、ここに正真正銘の大名となり、万石以上の譜代大名が奏者番となって寺社奉行を兼ねるという本来の姿になった。

 また、忠相は江戸町奉行・寺社奉行に付随する評定所一座という業務も「享保の改革」の全期間、幕府の機能中枢に当たるこのポストを占め続けた。このほか、1745年(延享2年)、23年間にわたって兼ねていた「関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)」の職の返上を願い出て、許されるまで務め続けている。農政はもともと江戸町奉行の仕事ではなく、勘定奉行の仕事なので、この登用は珍しいことであって、これをみても忠相がいかに吉宗から信頼されていたかが分かる。

(参考資料)大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」、直木三十五「大岡越前の独立」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

小栗忠順・・・幕末、幕府軍の主戦派の代表、慶喜の説得に失敗 斬首される

小栗忠順は激動の幕末期、反幕府的な勝海舟らと対峙し、財政、外交、軍事に傑出した手腕を発揮した。明治新政府は幕臣であっても優れた人材を数多く登用した。ところが、不思議なことに横須賀造船所を建設し、日本海軍の礎を築いた先見と決断の人、小栗上野介忠順に対してはそうした動きは全くなかった。勝海舟の和平論に敗れた後に1868年、引退した彼が上州権田村・高崎烏川畔で、なぜ斬首されねばならなかったのか。

 1867年(慶応3年)12月25日、江戸の三田にある薩摩屋敷が幕府軍に攻撃され、全焼した。これが口火になって戊辰戦争になる。この薩摩屋敷攻撃は西郷隆盛が仕組んだもので、幕府軍がこの挑発に乗ってしまったというのが定説になっている。だが、西郷のこの挑発がなければ幕府に戦争の構えがなかったのか。いや、そうではない。幕府はやる気だった。この幕府のやる気を代表したのが小栗忠順、ときの勘定奉行だった。

 小栗は主戦派の先頭に立っていた。それだけに、十五代将軍・徳川慶喜の大政奉還が江戸に知らされたとき、彼は真っ先に「承服できん」と叫んだという。そのときから彼は薩長と戦う準備に入っていた。勘定奉行として軍資金の調達、戦略・戦術、あらゆる方面に手を打っていた。勝算も十分にあった。

後に、官軍の大村益次郎が小栗の戦略を知ったとき、「その通りにやられていたら俺たちの命はなかった」と驚いたという。大村のリップサービスもあるかも知れない。だが、小栗のプラン通りに幕府軍が動いていたら戊辰戦争はどうなっていたか分からない。いやもっといえば、戦況をそのように動かせるように、慶喜に納得させ、行動させることに小栗は失敗したのだ。雌雄を決する瀬戸際で工作に失敗した小栗は、官軍に無条件で降伏したが、殺された。そして、対照的に小栗の意見を退けた慶喜は殺されることなく、世が落ち着いてから華族になった。

 1855年(安政2年)小栗は28歳で家を継ぎ、30歳で御使番になった。30歳で世に出たのだから、かなり遅い。そして39歳で官軍に殺されるまでの10年間、何と70数回も職務を変わった。有能だった証明だ。自分から辞めたことも、辞めさせられたこともあった。辞めてもすぐに引っ張り出されるところが能吏たるゆえんだろう。同時に彼が他人と協調しにくい性格だったことも示している。彼は武術と、論語ぐらいは読んだだろうが、学問は実学だけをやった。

 1860年(万延元年)、小栗の身の上に画期的な事件が起こった。抜擢人事で目付に任命され、新見豊前守を正使とする条約批准使節一行の監察役として米国に派遣されたのだ。小栗32歳のことだ。

 小栗が家督を継いだ頃、油や砂糖の小売りから両替屋に切り替わった紀國屋の婿養子で店主となった三野村利左衛門が、店が小栗家のある駿河台のすぐそばの神田三河町にあったことから、小栗家に出入りするようになり、小栗家の財政運用にタッチしていたという。三野村は後に三井財閥の基を作った人物だ。

1862年(文久2年)、小栗が幕政三本柱の一つ、勘定奉行に初めて就いてから、三野村利左衛門との緊密な関係が作られていったのだ。
 冒頭に記した通り、引退して権田村に帰った小栗は官軍によって斬首された。旧幕府の高官で、有無をいわさずに官軍が処刑したのは小栗だけだ。小栗が幕府の主戦派の先頭に立って、「薩長とは断固戦うべき」と主張していただけに、いかに官軍に憎まれていたか、いかに恐れられていたかが分かる。
小栗は官軍からの呼び出しがくると、自分の身辺が危なくなってきたと判断。母の国子、妻の道子らを会津へ落ち延びさせた。道子はそのとき身重だった。道子は会津で一女を産んだが、会津落城とともに東京へ密かに戻り、三野村の保護を受けた。三野村は東京へ置いておくのは危ないと判断して静岡へ送り、箱館で降伏した榎本武揚らが無罪放免になったのをみてから、深川の自宅に引き取った。三野村は明治10年胃がんで病死するが、その前に彼は大隈重信に小栗の遺族のことを託した。また、自分の家族には、小栗家の人たちの生計費を出すように遺言した。

(参考資料)大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」、三好徹「政商伝」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」、小島直記「人材水脈」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、司馬遼太郎「街道をゆく26」