「中高年に人気の歴史群像」カテゴリーアーカイブ

安倍晴明・・・「式神」を自在に操り、闇の世界を制した希代の陰陽師

 安倍晴明の生涯は謎に包まれている。『尊卑分脈』所収の安倍氏系図によると、右大臣安倍御主人(みうし)から九代目の大膳大夫益材(ますき)の子という。『公卿補任』大宝3年(703)の項に、閏4月1日、右大臣阿倍御主人が69歳をもって_じたことが記され、「安倍氏陰陽先祖也」と記されている。また、『続日本紀』巻三・大宝3年閏4月1日の条に、「この日、右大臣従二位阿倍朝臣御主人が_じた」と記されている。「阿倍」と「安倍」の表記の違いはあるが、阿倍御主人を安倍晴明の祖と考えてよい。

 晴明がどこで生まれたのか、実は全くわからない。ただ、没年と享年は分かっている。そこから逆算すると、生年は延喜21年(921)、没年は寛弘2年(1005)。享年は、当時としては驚異的な長寿といえる84歳。生地には3つの説がある。讃岐国(香川県)由佐、常陸国(茨城県)猫島、摂津国(大阪府)阿倍野の3カ所だ。この中では阿倍野説が有力視されている。

 後世の伝承によると、晴明は「式神」と呼ばれる精霊や神々を自在に操り、京の都に災いをなす悪鬼や悪霊を次々に退治したという。また時の権力者だった御堂関白、藤原道長にかけられた呪詛を打ち破り、自らも並ぶ者がないほど強い呪術力を持っていた。さらに「反魂(はんごん)の秘術」「生活続命(しょうかつぞくめい)の法」を操り死者を蘇らせ、あるいは「式占(ちょくせん)」を用いて都に起こる数々の異変を予言したとされている。

 『今昔物語集』巻第二十四「安倍晴明随忠行習道語」第十六は、天才陰陽師、晴明の並々ならぬ力のほどを見せてくれる。この説話は・少年時に鬼と出会った話・晴明の力を試そうとした老僧の話・蛙を殺した話・式神を使役していた話-の四話から構成されている。また、『宇治拾遺物語』も晴明の異能ぶりを伝えている。

 生前に彼が築いた権威は子孫に受け継がれ、後にそこから土御門家という一族が生まれた。土御門家はやがて従来、朝廷に仕える陰陽師の頂点に立っていた一族、賀茂家を圧倒し、陰陽道の宗家として君臨する。さらには、陰陽道と神道を習合させた土御門神道=安倍神道も成立した。そして晴明は、こうした後の信仰の象徴として神格化されていくのだ。

 陰陽道は古代中国で起こった「陰陽五行説」を土台にしている。陰陽五行説とは、対立する陰と陽の2つの気、そして木・火・土・金・水の五行によって、森羅万象を説明する思想のことだ。日本へは、古代律令国家が建設された時に中国の知識や技術とともに移入された。7世紀後半にはすでに「陰陽寮」と呼ばれる機関が設置され、陰陽五行説の研究、教育が行われていたらしい。

(参考資料)志村有弘「陰陽師 安倍晴明」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」、加来耕三「日本創始者列伝」

上杉謙信・・・仏道に帰依し信義に厚い家風をつくった越後の国主

 上杉謙信は、自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる、戦国時代の越後国の有力武将だ。室町幕府の重職、関東管領を務めるとともに、足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大、戦国大名・甲斐国の武田信玄とともに、同時代の武名を二分した。生没年は1530(享禄3)~1578年(天正6年)。

 上杉謙信は、越後守護代、長尾為景の四男(三男との説もある)として春日山城で生まれた。近世上杉家・米沢藩の祖。本姓は平姓、長尾氏。幼名は虎千代。初名は長尾景虎。兄の晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。後に関東管領、上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する室町幕府の重職、関東管領に任命された。また、後に将軍足利義輝より偏諱(へんき)を受けて、最終的には上杉輝虎と名乗った。号は宗心。渾名は越後の虎、越後の龍、聖将、軍神。1570年(元亀元年)から不識庵(ふしきあん)謙信と名乗った。

 謙信は7歳で寺に預けられ、その年に父と死別、以後7年間みっちりと禅や武道を学んだとみられる。14歳のとき初陣、15歳で元服し景虎を名乗った。19歳で兄、晴景から家督を引き継ぎ、長尾景虎として名実ともに越後の国主となった。その後、24~34歳までの10年間に川中島の合戦を五回も繰り返し、ことに四回目の合戦では武田軍と凄まじい死闘を演じ、わずか半日で双方6000人近い死者を出し、それでも勝負がつかなかったという。

 このとき、武田の軍旗“風林火山”に対して、上杉軍が掲げたのが毘沙門天の“毘”と懸乱竜の“籠”の旗だ。これは毘沙門天に代わって世の中の邪悪な者を懲らしめる正義の軍であり、一度戦えば天から風を呼ぶ竜の如く雄々しく勇ましい軍であることを示したものといわれる。

 謙信は27歳のとき出家を志して高野山に登るが、臣下に思いとどまらせられ、40歳になったとき法号「謙信」を称した。そして45歳で剃髪、法印大和尚に任ぜられるまで常に仏道を修し、その後も49歳で病に倒れるまで、生涯その道を離れることはなかった。

 織田信長が岐阜を根拠地として京都を押さえ、畿内を平定し始めたころ、彼以上の実力を持つといわれる者が、少なくとも二人いた。上杉謙信と武田信玄だ。司馬遼太郎氏は、「信長はこの二人を宥めるために人間の知恵で考えられる限りの策謀と外交の手を打ち続けた。ときには卑屈窮まる言辞をも使った」と記している。文献によると、京にいた信長は謙信に対し、あなたが京へ上ろうとなさるのなら、この信長は京を出て、瀬田のあたりまでお出迎えして、御馬のくつわを取ります-とまでの態度を取ったほど。そのころの信長にとって、謙信はそれほどに大きな、超え難い存在だったのだ。

 そのうち、二強の一角、信玄が死に、謙信が残った。当時、謙信は300万石の経済力と日本での最強の軍団を持っていた。このころ信長は、狩野永徳の作と伝えられる「洛中洛外屏風図」六曲一双を謙信に贈っている。1574年(天正2年)のころのことだ。

 謙信亡き後、上杉家は景勝が国主のとき、豊臣政権のもとで会津に移封され大身となったが、「関ヶ原の戦い」で西軍につき辛酸を舐め、米沢の地で細々と徳川幕府に仕えたが、謙信を祖とするその信義に厚い家風は代々受け継がれた。

(参考資料)海音寺潮五郎「天と地と」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」

大村益次郎・・・蘭方医学より西洋兵学に通暁した上野戦争の官軍総司令官

 江戸と呼ばれていたこの町が東京に生まれ変わろうとする戦争があった。上野戦争だ。この時、この町は大きな戦災を被ってもおかしくなかった。ところが、戦火から救うべく唯ひとり作戦に苦しみつつ、それを見事成し得た一人の戦術家がいた。大村益次郎だ。

 益次郎は文政7年(1824)、現在の山口市鋳銭司の、のどかな農村で生まれている。父、村田孝益は医業のかたわら、田3反を耕す村医者だった。益次郎も18歳で近くの蘭医、梅田幽斎に学び、続いて九州日田の広瀬淡窓の塾に入った。そして弘化3年(1846)21歳の時、全国にその名を知られていた大坂、適塾の緒方洪庵の門を叩く。嘉永2年(1849)彼はここでは塾頭をも務め、オランダ語などは、師をも凌ぐほどだったといわれる。

ところが、彼は所期の目的である蘭方医学よりも西洋兵学の研究に熱中し始める。軍制、砲術、築城…と、適塾所蔵の洋書のうち、彼が親しむようになったのは、西洋兵学に関する書物だった。彼はどうして、医学とは一見縁遠い兵学にのめりこむことになったのか。それは、彼一流の時勢認識で、これからの時代に最も必要とされるのは医学よりもむしろ西洋兵学だということを、明敏に見抜いたのだ。この点、彼は抜群の語学力に恵まれていた。

だが、彼は一介の村医者に過ぎない。したがって、彼の才能を生かす場も手がかりもなかった。5年後、彼は洪庵に才能を惜しまれつつ故郷に舞い戻り、村人相手の医者の生活にひたってしまう。当時、わが国でも最高の医術や蘭学を修めていた益次郎も、村医者としては失格だった。自分を誇るふうでもなく、人にこびずはよしとしても、人付き合いのまずさだけは終生変わることがなかったからだ。嘉永6年(1853)、30歳の益次郎は逃げ出すようにして故郷の鋳銭司村を去った。

 その後、益次郎は家業を捨て、緒方洪庵の勧めもあって蘭学の才能を買った伊予宇和島藩に出仕する。藩主・伊達宗城は高禄をもって彼を遇した。この時、彼は百姓身分から村田蔵六を名乗る侍となったのだ。ちょうど30歳、ペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航した嘉永6年(1853)のことだ。宗城の命を受けた益次郎は、ここで日本人では最初ともいうべき蒸気船を造り上げ、人々の度肝を抜いた。そのかたわら西洋兵書の翻訳にも手を染め、独自の兵法を編み出し、兵学者として頭角を現すのだ。
 安政3年(1856)、藩主・宗城の参勤に従って江戸へ上った益次郎は、宇和島藩に在籍のまま彼に目をつけた幕府に雇われ、幕府の洋学所、蕃書調所の助教授、さらには講武所の教授手伝も兼ね、西洋兵学者としての名が高まっていく。ちなみに、講武所の教授陣には勝海舟、高島秋帆らが名を連ねていた。そうなると、今度は長州藩が放ってはおかなかった。長州藩では洋式学所(博習堂)の改組などに取り組んでいたが、どうしてもリーダーの人材が足りない。そこで、もともと藩領内出身の益次郎の存在が注目されることとなり、ぜひ我が藩で召し抱えて能力を発揮させるべきだ-との声が高まり、益次郎の召還が藩議決定をみる。

 益次郎の長州藩帰属が正式に実現したのは、桜田門外の変の翌月、万延元年(1860)4月のことだ、ただ、長州藩が提示した報酬は百姓同様の極めて低いものだった。それにもかかわらず、幕府の要職や宇和島藩の高禄を未練もなく捨て、彼は長州藩の士分に列し、郷国のために尽力することになる。
 益次郎が仕える間もなく、長州は疾風怒涛、動乱の時代を迎える、文久3年(1863)、八・一八の政変、翌年の蛤御門の変、外国艦隊との下関戦争…など。慶応元年(1865)、幕府の第二次長州征伐の噂が高まったその年、益次郎は木戸孝允の推挙により軍務大臣に抜擢された。そして藩命により、村田蔵六を改め、大村益次郎を名乗ることになる。翌慶応2年、四境戦争、いわゆる第二次長州征伐の折りは、海軍・高杉晋作、陸軍・益次郎がすべての作戦を立てた。

2年後の慶応4年(1868)、益次郎は大政奉還で開城した江戸城にいる。上野彰義隊攻撃の総司令官とされているのだ。これは西郷隆盛や木戸孝允の英断によるものだったが、この時までほとんどの官軍首脳たちは、まだ益次郎の能力を信じていなかったといわれる。アームストロング砲を主力に、十数藩による完璧の布陣と、江戸の市中が戦火にかからぬことを第一とした益次郎の綿密な作戦により、上野戦争はわずか一日で終わった。

その後、箱館戦争に至る戊辰戦争の全戦線の平定を終えた彼は新国家の建設に取りかかる。明治2年(1869)9月、益次郎は京都木屋町で突然刺客に襲われ、2カ月後、この傷が悪化し46歳の生涯を閉じた。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、司馬遼太郎「花神」、「日本史探訪/22 上野戦争の官軍総司令官 大村益次郎」司馬遼太郎

阿部正弘・・・身分に捉われない人材登用など「安政の改革」を推進

 江戸幕末期の第7代備後福山藩主・阿部正弘は、以前はその内政、外交姿勢から「優柔不断」あるいは「八方美人」な指導者とみられ、評価は低かった。しかし、当時の幕政および、黒船来航に始まる海外列強の開国・通商要請など時代背景を重ね合わせると、個人のリーダーシップに帰し難いものがあり、近年は相対的に人物評価が高まっている一人だ。1854年に日米和親条約を締結。身分に捉われない大胆な人材登用を行い、品川沖に台場を築き、大船建造の禁を解くなど、「安政の改革」と呼ばれる幕政改革を推進した。生没年は1819(文政2年)~1857年(安政4年)。

 阿部正弘は1843年(天保14年)、25歳で老中となり、1845年(弘化2年)、「天保の改革」の際の不正を理由に罷免された水野忠邦の後任の老中首座に就いた。そして、第十二代家慶、第十三代家定の時代の幕政を統括した。老中在任中は度重なる外国船の来航や中国のアヘン戦争勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われた。

 阿部は、幕政においては1845年(弘化2年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。薩摩藩の島津斉彬、水戸藩の水戸斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、江川英龍(太郎左衛門)、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努めるとともに、筒井政憲、川路聖謨、岩瀬忠震、ジョン万治郎などを起用、大胆な人材登用を行った。

 また、人材育成のため1853年(嘉永6年)、備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館(せいしかん)」に改め、身分に関係なく学べるよう教育改革を行った。このほか講武所や洋学所、長崎海軍伝習所などを創設。また西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など「安政の改革」に取り組んだ。

 ただ阿部には、老中首座としてリーダーシップに欠けた人物との評価がある。実際にペリー艦隊来航から日米和親条約締結に至るまで1年余りの猶予があったにもかかわらず、朝廷から全国の外様大名まで幅広く意見を募ったあげく、何ら対策を打ち出せず、いたずらに時間の引き延ばしを図っただけだったというのがその論拠だ。

 しかし、これは阿部のリーダーシップ云々より、これこそが当時の幕府の体質といえるもので、その証拠に前任の水野忠邦は方法が過激すぎると反発を受け失脚、阿部の後を受けて強攻策を取った井伊直弼は、幕閣どころか朝廷や国内各層の反感を買って国内を大混乱に陥れている。

 こうしてみると、阿部の協調路線は幕政を円滑に運営する有効な方策だったといえ、幕府の威光よりも混乱回避を優先した姿勢は、それなりに評価され得るものだったとみられる。また、前記した通り、慣習に捉われない人材登用については評価され、阿部の政策を「安政の改革」として、いわゆる「三大(享保・寛政・天保)改革」に次ぐものとして扱うこともあり、39歳という早世を惜しむ声も多い。

(参考資料)童門冬二「歴史に学ぶ後継者育成の経営術」

歌川広重・・・フランス印象派の画家に影響与えたヒロシゲブルー

「東海道五十三次」の名所風景画で知られる歌川広重。彼の作品はヨーロッパやアメリカでは大胆な構図などとともに青色、とくに藍色の美しさで評価が高い。この鮮やかな青を欧米では「ジャパンブルー」あるいは「ヒロシゲブルー」とも呼ばれて、19世紀後半のフランス印象派の画家たちや、アールヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響を与え、当時ジャポニズムの流行を生んだ要因の一つともされている。
 歌川広重は、江戸・八洲河岸(八重洲河岸)の火消し同心の安藤家に生まれた。幼名は徳太郎。長じて重右衛門といった。13歳で家督を継ぎ、その後、27歳で同心の役職を退くまで画家と公務の両立を果たしていたといわれる。「安藤広重」の名で紹介されることがあるが、この名で残された作品は見当たらない。画人としては歌川派の歌川広重が正当だ。広重の生没年は1797(寛政9)~1858年(安政5年)。
 広重は当初、初代歌川豊国に弟子入りを請うたが、門弟が多く叶わなかった。そこで、15歳のとき同門の歌川豊広に入門した。翌年、師・豊広から「広」の一字を受け、「広重」と名乗った。
 広重の入門は叶わなかったが、初代歌川豊国が中心となって発展させた浮世絵師の最大勢力・歌川派で、幕末に活躍した三代豊国、国芳、そして広重は歌川三羽烏と称された。それぞれ、豊国は似顔絵、国芳は武者絵、広重は名所絵を得意とし、評価されていた。
 そんな名所絵・広重のきっかけとなったのが、「東都名所」だ。1831年(天保2年)、葛飾北斎が「富嶽三十六景」を発刊したとき、広重はその「東都名所」を発表し、風景画家としての評価を受けたのだ。このとき北斎72歳、広重は35歳だった。翌年、幕府の八朔の御馬進献の儀式図調整のため、広重はその行列に参加して上洛。東海道を往復した際に、その印象を克明に写生。それが、翌年シリーズとして発表する「東海道五十三次絵」に生かされた。
 この「東海道五十三次絵」は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々が憧れた外の世界を垣間見る手段としても大変好評を博した。
 当時、広重は教えを請うため、尊敬していた北斎のもとをよく訪れていたといわれる。40歳近くも年の離れた先輩、北斎老人に広重は何を学ぼうとしたのだろうか。技法だったのか、何か精神的なものだったのか。
 その後、作品「東海道五十三次」で人気を得た広重は、風景・名所のシリーズものを刊行する。「近江八景」「京都名所之内」「江戸近郊八景」などを次々と発表。60歳で制作を開始した「名所江戸八景」を完成させた1858年(安政5年)、62歳で永眠したと伝えられる。死因は、当時大流行したコレラといわれる。
 広重の作品はヨーロッパやアメリカで、その大胆な構図と、とくにブルーの美しさで評価が高い。色鮮やかな青は「ジャパンブルー」とも「ヒロシゲブルー」とも呼ばれ、19世紀フランス印象派の画家たちや、アール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響を与えた。
(参考資料)吉田漱「浮世絵の基礎知識」、藤懸静也「増訂 浮世絵」、藤懸静也「文化文政美人風俗浮世絵集」

大山巖・・・西郷の影響受けた日清・日露両戦争で功績大の「陸軍の大山」

 大山巖は軍人として華麗な一生を送った。日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官、日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任。ともに日本の勝利に大きく貢献した。元老としても重きを成したが、政治的野心や権力欲は乏しく、元老の中では西郷従道と並んで総理候補に擬せられることを終始避け続けた、この時代にあっては珍しい清廉な人物だ。生没年は1842(天保13)~1916年(大正5年)。

 大山巖は薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)で薩摩藩士・大山彦八綱昌の次男として生まれた。幼名は岩次郎。通称は弥助。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。大山が生まれた家は、西郷隆盛の家の筋向いの家の裏にあった。西郷隆盛・従道兄弟とは従兄弟にあたり、西郷家とは生涯にわたって親しく、とくに従道とは親戚以上の盟友関係にあった。

 大山の風貌には西郷隆盛に通ずるところが多い。人間的度量においても両者共通する大きさを感じさせ、大山は西郷の偉大さに影響を受けている。藩内の有馬新七らに影響されて過激派に属し、倒幕運動に参加したが、1862年(文久2年)、寺田屋事件では公武合体派によって鎮圧され、大山は帰国、謹慎処分となった。また前年の生麦事件の報復として1863年(文久3年)起こった「薩英戦争」では西欧列強の軍事力に強い受け、幕臣・江川太郎左衛門の塾で砲術を学んだ。「弥助砲」と呼ばれる大砲を開発するなど戊辰戦争では新式銃隊を率いて、鳥羽伏見や会津などの各地を転戦。討幕運動に邁進した。

 明治維新後の1869年(明治2年)、大山は渡欧して普仏戦争などを視察。1870(明治3年)~1873年(明治6年)の間はジュネーブに留学した。陸軍では順調に栄達し、西南戦争はじめ相次ぐ士族の反乱を鎮圧した。西南戦争では政府軍の指揮官として、従兄の隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰ることはなかったという。

日清・日露の両戦争では日本の勝利に大きく貢献し、同じく薩摩藩出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」といわれた。大山は元帥陸軍大将として頂点を極めた。
 明治中期から大正期にかけて、第一次伊藤博文内閣から第二次松方正義内閣まで、陸軍大臣を長期にわたって務め、また参謀総長、内務大臣なども歴任。元老としても重きを成し、陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となったが、政治的野心や権力欲は乏しく、終始、総理候補に擬せられることを避け続けた。当時としては稀有な、清廉な人物だった。

 周知の通り、真の西郷隆盛の肖像画というものは残っていない。もちろん写真もない。西郷の肖像画として紹介されているものは後にモデルを使って描かれたものだ。大山はその何点かある西郷の肖像画のモデルとなった人物の一人だ。また大山夫人は、日本人女性で最初に大学を卒業し、「鹿鳴館の貴婦人」と呼ばれた女性、旧姓山川捨松だ。

(参考資料)文藝春秋編「翔ぶが如くと西郷隆盛」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

新井白石・・・幕政改革の理想に燃えた当時並ぶ者なき偉大な学者政治家

 新井白石は江戸中期、六代将軍徳川家宣、七代将軍徳川家継に仕え、幕政改革の理想に燃えた、“鬼”の異名を取った稀代の学者政治家だ。その学識の高さは、その当時における、というより江戸時代を通じてすら、比較すべき者の少ない学者だった。

 白石が儒者として俸禄四十人扶持(年72石)で甲府藩に召抱えられたのは元禄6年。彼が37歳の時だ。そして、それ以前の白石は久留里藩の土屋家、古河藩の堀田家と2度も浪人し、20歳代から長い間貧しい生活を強いられ、37歳のその時は本所で私塾を開いていた。この間、白石の器量を見込んでか、富裕な商家から二つも縁談があった。その一つは相手が河村瑞賢の孫娘だったので、承知すれば豪商の家の婿に納まることもできたわけだったが、白石は断った。甲府藩に仕えることができたのは、学問の師である木下順庵の推挙によるものだった。

元禄15年12年に200俵20人扶持に引き上げられた。加増の理由はこの年3月、起草してからほぼ1年余を経て完成、藩主・網豊に献じた『藩翰譜』の成功に対する褒賞ではないかと思われた。藩翰譜は、儒者というよりは歴史家としての白石の本領を示した労作で、12巻18冊、ほかに凡例総目次1巻を加えた大著だった。ここに書きとめられた諸家の数は333家におよび、これを記すのに紙1480枚を費やしたが、草稿、浄写の作業に写し損じを加えれば費やした紙数は3000枚に上ったろう。いずれにしても、ようやく白石は貧しさを気にしなくて済む身分になった。

 五代将軍綱吉の死後、白石は側用人・間部詮房とともに、六代将軍家宣となった藩主の天下の治世に乗り出していく。「勘解由(白石)を経書を講ずるだけの儒者とは思っておらぬ。政を助けよ。意見があれば、憚りなく申せ」という将軍家宣の篤い信頼のもとに、白石は「政治顧問」的な立場で様々な下問に対し、先代までの慣例や事績にこだわらない、あるべき意見も含め献策する。

「生類憐れみの令」の停止およびその大赦考、改鋳通貨「宝永通宝」の通用停止、武家諸法度新令句解などがそうだ。こうした出仕が評価され、白石は200石加増され、従来の200俵20人扶持を300石に直し、計500石とされた。

 白石は宝永6年(1709)11月、江戸小石川茗荷谷の通称切支丹屋敷で、ヨーロッパの学問16科を修めたというイタリア人、ジョバンニ・バチスタ・シドッチと会い、尋問する。シドッチは薩摩・屋久島に流れ着いた宣教師だ。白石はこの尋問の前に、あらかじめカトリックの教義について予備知識を得たいと思い数冊の書物を読んだ。

白石が西洋人に接したのは初めてであり、最初シドッチが何を言っているのか分からなかったが、次第に分かってきた。他の日本人には全く分からなかったが、白石はシドッチの日本語に近畿地方や山陰、九州の方言が入り混じっていることに気付いた。発音にもシドッチのクセが出る。そのクセは当然、一定の法則性のようなものがある。それを白石は見抜いた。これらに照らして理解していけば、シドッチの日本語が自然と分かってくるのだ。白石の頭脳が、シドッチの不思議な日本語を理解させたのだ。白石はシドッチの持っている知識を貪婪に吸収した。白石はこれを『西洋紀聞』に書いたが、シドッチの母国語までは理解するには至らなかった。イタリア語を吸収できるほどの時間的余裕がなかったからだ。しかし、白石が行った尋問で、結果として彼自身の学識の高さを示すことになったことは確かだ。

 ・貨幣の改鋳の停止・裁判の公正・長崎貿易の見直し-など白石の献策は、それまでの幕府官僚の施策とは明らかに異なり、本質的には的を射たものだった。が、白石はやはり学者で潔癖でありすぎた。そのため“鬼”の異名と取ることになり、周囲に煙たがられた。そして、彼の得意時代はそれほど長くは続かなかった。正徳2年、10月14日、家宣が享年51歳で亡くなり、嫡子鍋松(家継)がわずか4歳で将軍職を継いだが、家継も8歳で亡くなってしまったのだ。結局、白石が幕政にタッチしたのは7年ほどで、紀州藩から入った八代将軍吉宗が登場すると、即、更迭され、彼の「善政」はすべてご破算になってしまう。

 ただ、白石はこれからが凡人とは違った。60歳から死ぬまでの9年間、『折りたく柴の記』をはじめ数々の名著を執筆するのだ。彼が政治家として得意の時代を続けていたら、これらの名著は生まれなかったかも知れない。

(参考資料)藤沢周平「市塵」、司馬遼太郎「歴史の中の日本- 白石と松陰の場合」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」                    

歌川国芳・・・“武者絵の国芳”と称され人気を博した反骨の浮世絵師

 葛飾北斎、歌川(安藤)広重らの人気絵師が活躍した江戸時代末期。実は同時代に活動したのがここに取り上げる歌川国芳だ。しかし、国芳は彼ら人気絵師に比べ、日本における知名度や評価は必ずしも高いとはいえなかった。ただ、“武者絵の国芳”と称された彼の作品が一世を風靡したことは間違いない。ことに幕府政治を風刺した数々の作品を発表。その反骨精神は旺盛で、老境に入ってからも新シリーズへの意欲をのぞかせた。とはいえ、彼がこうした作品を残した、江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人として、あるいは「幕末の奇想の絵師」として注目され再評価されるようになったのは、20世紀後半になってからのことだ。

 2008年、富山県の農家の蔵から国芳を中心とした歌川派の版木が368枚発見され、これを購入した国立歴史民俗博物館により2009年に公開された。これにより国芳作品の創作過程の解明および浮世絵本来の「色」の復元が始まっている。

 歌川国芳は江戸日本橋の染物屋の息子として生まれた。本名は井草芳三郎。風景版画で有名な歌川広重とは同年の生まれで、同時代に活動した。国芳の生没年は1798(寛政9)~1861年(文久元年)。

 国芳は1811年(文化8年)、15歳で初代歌川豊国に入門した。豊国は華麗な役者絵で人気を博した花形絵師で、弟子に歌川国貞がいる。国芳は入門して3年後、1814年(文化11年)ごろから作品を発表。すでに歌川派を代表していた兄弟子、国直の支えもあって腕を磨いた。国芳が広く世に知られるのは師・豊国没後の1827年(文政10年)ごろに発表した『水滸伝』のシリーズで、これが評判となった。これを機に“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りをした。

 ところが、国芳が45歳のとき運命は一変する。老中水野忠邦による「天保に改革」が断行されたからだ。質素倹約、風紀粛清の号令の下、浮世絵も役者絵や美人画が禁止とされるなど大打撃を被ることになった。幕府の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子、国芳は浮世絵で精一杯の皮肉をぶっつけた。1843年(天保14年)に発表した『源頼光公館土蜘作妖怪図』だ。表向きは平安時代の武将、源頼光による土蜘蛛退治を描いたものだが、本当は土蜘蛛を退治するどころか、妖術に苦しめられているのは頼光と見せかけて、実は十二代将軍家慶だ。国家危急のときに、惰眠をむさぼっているとの痛烈な批判が込められていた。このほか、絵の至るところに隠されている悪政に対する風刺があったのだ。江戸の人々は、国芳がこの作品に込めた謎を解いては、溜飲を下げて大喜びした。

 しかし、幕府はそんな国芳を要注意人物と徹底的にマークした。国芳は何度も奉行所に呼び出され尋問を受け、時には罰金を取られたり、始末書を書かされたりした。それでも国芳は懲りず、禁令の網をかいくぐり、幕府を風刺する作品を描き続け、江戸の人々に大喝采を受けた。国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。ユーモアとウィットに富み、粋でいなせ、そして豪快で頑固な国芳に江戸中が夢中になった。

 やがて老中水野忠邦が失脚。国芳は待ってましたとばかりに、江戸の人々の度肝を抜く武者絵を世に送り出していった。1848年(嘉永元年)~1854年(安政元年)にかけて国芳が描いた『宮本武蔵と巨鯨』は、浮世絵3枚分に描かれた、まるで大スペクタクル絵画。武蔵の強さを表現するのに、相手が人間では物足りない。ケタ違いの鯨と戦わせることで、ヒーロー武蔵の強さを伝えたのだ。またもや会心の作だった。

 武者絵で大成功を収める一方で、国芳は西洋の銅版画を集め、遠近法や陰影の付け方の研究にも積極的に励んだ。そして、これらの技法を採り入れた新シリーズの製作に取り掛かった。国芳56歳のときのことだ。このシリーズは47人の志士が揃う忠臣蔵。ただ、新しい西洋画の技法で忠臣蔵を描くには制約が多すぎた。公儀に逆らった赤穂浪士を称えることはご法度だ。そのため、舞台で演じられる役柄として、写実的に描くしかなかった。しかし、それでは彼の派手な浮世絵を見慣れている当時の人々にとっては、全く異質のものであって、受け入れられず、すぐに新シリーズは打ち切りとなった。彼の新しい挑戦は失敗に終わったのだ。
 国芳が赤穂浪士を描いた翌年、1853年(嘉永6年)、浦賀沖にペリーの黒船が来航した。まさに「泰平の眠りを覚ます蒸気船…」だった。ひとつの時代が終わり、新しい時代の幕開けをイメージさせるできごとだった。こうした時代の流れに合わせるかのように、国芳の時代は終焉を迎えたのだった。

(参考資料)吉田漱「浮世絵の基礎知識」、藤懸静也「増訂 浮世絵」、藤懸静也「文化文政美人風俗浮世絵集」

岡倉天心・・・日本美術の発展と、大観らを育て美術教育に大きな功績

 岡倉天心は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として日本美術の発展に大きな功績を残した。その活動には日本画改革運動や古美術の保存、「東京美術学校(現在の東京藝術大学)」の設立、ボストン美術館中国・日本美術部長就任など、多岐にわたり目を見張るものがある。「日本美術院」の創設者としても著名だ。また、東京美術学校の第二代校長時代の天心は、美術教育にとくに力を注ぎ、後年の大家、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てたことで知られる。生没年は1863~1913年。

 岡倉天心は元越前福井藩士で、生糸の輸出を生業とする石川屋、岡倉勘右衛門(かんえもん)の次男として横浜に生まれた。本名は覚三(かくぞう)。幼名は角蔵。父が貿易商で、幼い頃から英語に慣れていた。1875年(明治8年)東京開成所(のち官立東京開成学校、現在の東京大学)に入所し、政治学、理財学を学んだ。英語が得意だったことから、同校講師のアーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝った。また、天心は1882年(明治15年)に専修学校(現在の専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し学生たちを鼓舞した。1890年(明治23年)、27歳の若さで東京美術学校の第二代校長となり、当時気鋭の青年画家、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てた。

 急進的な日本画改革を推し進めようとする天心の姿勢は、伝統絵画に固執する人々から激しい反発を受けることになる。とくに学校内部の確執に端を発した、いわゆる東京美術学校騒動により1898年(明治31年)、校長の職を退いた天心は、その半年後、彼に付き従った橋本雅邦をはじめとする26名の同志とともに日本美術院を創設した。
 横山大観、下村観山、菱田春草らの日本美術院の青年画家たちは、天心の理想を受け継ぎ、広く世界に目を向けながら、それまでの日本の伝統絵画に西洋画の長所を取り入れた新しい日本画の創造を目指したのだ。その創立展には「屈原(くつげん)」(横山大観)、「闍維(じゃい)」(下村観山)、「武蔵野(むさしの)」(菱田春草)などの話題作が出品された。

 天心の指導を受けた横山大観、菱田春草らの日本美術院の作家たちは大胆な没線(もっせん)描法を推し進めたが、その作品は「朦朧体(もうろうたい)」「化物絵」などと激しい非難を浴び、世間に受け入れられなくなった。こうした中で日本美術院の経営は行き詰まり、天心の目はインド、アメリカなど海外へ向けられていく。1904年(明治37年)、天心に従って渡航した横山大観、菱田春草らはニューヨークはじめ各地で展覧会を開き好評を博した。また、天心は自筆の英文著作「The Book of Tea(茶の本)」などを通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど国際的な視野に立って活動した。

 1906年(明治39年)、天心は経営難に陥った日本美術院を再建するため、これを改組し、その第一部(絵画)を1903年(明治36年)に土地と家屋を買い求めておいた茨城県北茨城市・五浦に移転。この地で新しい日本画の創造を目指し、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らを呼び寄せた。以後、ここを本拠に生活上の苦境に耐えながらも五浦の作家たちは、それまで不評を買った「朦朧体」に改良を加え、1907年(明治40年)に発足した文部省主催の展覧会(文展)に近代日本画史に残る名作を発表していった。
(参考資料)小島直記「人材水脈」

板垣退助・・・戦後、百円紙幣に肖像が用いられた自由民権運動の主導者

 板垣退助は周知の通り、自由党総理として「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を遺し、自由民権運動の主導者として知られ、生存時、一般庶民から圧倒的な支持を受けていた。没後も、日本民主政治の草分けとして人気が高く、太平洋戦争後、50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。

 ただ板垣退助は、人柄は誠実でまじめだが、反体制ぶりは徹底していない。また生来、人が良く、もっといえばお人好しの側面があった。政治の世界でのお人好しは致命的な弱味となる場合がある。そのため、彼は自由民権運動の主導者と持てはやされ、国民的人気が高かった割には、政治的力量がなかったというか、少なくともそれにふさわしい評価を受けるには至らなかった。位階勲等は従一位勲一等。爵位は伯爵。板垣退助の生没年は1837(天保8)~1919年(大正8年)。

 板垣退助は土佐国・高知城下中島町(現在の高知市)に土佐藩士・乾(いぬい)栄六正成の長男として生まれた。幼名は猪之助、退助は元は通称で、諱は初めは正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)と改めた。号は無形(むけい)だが、如雲(じょうん)とも号した。乾家は220石取りの馬廻役(上士身分)であり、同じ土佐藩士、後藤象二郎とは幼馴染みだ。坂本龍馬らの郷士(下士身分)よりも恵まれた扱いを受けていた。

 幕末、藩主・山内豊信(容堂)の側用役から始まり、藩の要職を歴任した。倒幕運動に参加し、武力倒幕を主張。土佐藩が大政奉還論に傾く中、薩摩藩の西郷隆盛らと倒幕の密約を結ぶが、土佐藩は後藤象二郎の主導により「薩土盟約」を締結。しかし両藩の思惑の違いにより、短期間に破綻。後藤・容堂主導により、「大政奉還の建白」が成された。慶喜がこれを受けいれるが、薩摩藩を中心とした倒幕派はこれに飽き足らず、「王政復古の大号令」に伴う「小御所会議」で慶喜の辞官納地を決定。反発する旧幕府側の兵により、「鳥羽伏見の戦い」が勃発する。

 戊辰戦争では退助は、土佐藩軍指令、東山道先鋒総督府参謀として従軍した。天領(旧幕府領)の甲府城の掌握目前の美濃大垣に着いた1868年(慶応4年)、武田信玄の重臣、板垣信方の没後320年にあたるため、甲斐源氏の流れを組む板垣氏の後継であるとの家伝を示して、甲斐国民衆の支持を得ようと先祖の旧姓とする板垣姓に改姓した。この後、退助の目論見どおり甲斐国民衆の支持を受け、甲州勝沼の戦いで近藤勇率いる新選組を撃破した。

 征韓論をめぐり政府で大分裂が起きた際、西郷隆盛が退助に宛てて出した手紙がある。その中で西郷は「朝鮮への使節には私が単身乗り込みたい。そうすれば、きっと殺されるだろう。一国を代表する使節が殺されたとなれば、戦争する名文は十分に立つ。戦争になってからのことは、一切あげて貴君にお任せする。だから、私が使節になる案を支持していただきたい」という意味のことを書いている。この手紙をもらった退助は、西郷を朝鮮に派遣する案を全面的に支持した。参議の会議でも西郷派遣案を決定した。

 ところが、外遊から帰ってきた大久保利通や木戸孝允が真っ向から反対し、右大臣で臨時太政大臣代理となった岩倉具視が、大久保と組んで参議の決議とは正反対の意見を上奏し、天皇はそれを採可した。参議の決議は踏みにじられた。西郷は直ちに辞表を出し、続いて退助も後藤象二郎、肥前の江藤新平、副島種臣らと参議を辞めた。

 退助は翌1874年(明治7年)「民選議院設立建白」を出した。自由民権運動の始まりだ。土佐立志社系の有志たちとの運動だった。そして1881年(明治14年)、退助は自由党を創立、総理となるが党内左派の激化などにより、党を解散する。「板垣死すとも自由は死せず」という退助の有名な言葉がある。このあたりが退助の絶頂期だった。

 国会開設後は目立った事績は残せなかった。第一次大隈内閣で1898年6月30日~11月8日、第十七代内務大臣を務めたことくらいだ。

板垣退助の反体制ぶりは徹底していない。だからといって不誠実なわけではない。まじめな人柄だ。まじめすぎるといってもいいだろう。それが、ある場合には真価を発揮したが、裏目に出たことも多い。板垣が人に騙されやすいお人好しの側面があったことが、明治の反体制運動を一本に絞れなかった大きな要因の一つだ。政治の世界でのお人好しは致命的な弱味となるといっても過言ではない。国民的人気がたかった割には、政治信条としては一定せず、ブレがあり、政治的力量にも欠けたとみるのが妥当だろう。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」