「英傑・名将の知られざる実像」カテゴリーアーカイブ

岸田吟香・・・最初の社会部記者で、ヘボン博士の辞書編纂パートナー

 岸田吟香は日本において新聞が創刊されて間もない頃、ひらがなを多く使って読みやすく、分かりやすい文章表現をした、いわば最初の社会部記者であり、ヘボン式ローマ字で現代の日本にいまなお影響を及ぼしているヘボン博士の辞書編纂パートナーでもあった。

また、岸田吟香は目薬「精_水(せいきすい)」を販売するなど、薬業界の大立者としても知られる。幼名を辰太郎。名前は大郎、大郎左衛門、達蔵、称子麻呂、清原桜、作良(さくら)、銀次あるいは銀次郎などがある。また、墨江岸国華、墨江桜、墨江岸桜、岸国華、岸吟香、岸田屋銀治、桜井銀治郎などとも名乗った。号は吟香、東洋、桜草、筆名には吟道人がある。

 岸田吟香は1832年(天保4年)、美作国久米郡垪和(はが)村の酒造農家、岸田秀治郎の長男として生まれた。岸田家は天正年間、摂津から移住してきたと伝えられるが、先祖は記紀にも出てくる岸田朝臣だという説もあり、岸田自身それを意識していたふしがある。17歳のとき江戸へ出て津山藩の昌谷精渓、次いで林図書頭の塾に入って漢学を学んだ。そこで彼は藤田東湖と知り合い、水戸藩邸に出入りするようになったが、安政の大地震で負傷し、いったん郷里へ戻った。

その後、再び江戸へ出て、今度は下谷に塾を開いていた藤森天山の門に入った。天山は水戸派で徳川斉昭の信任を受け、海防策を建言したこともあり、藤田東湖とも親交があった。この頃、三河の挙母(ころも)藩から藩主内藤丹波守の侍講として招かれた。岸田は赴任したが、ほどなく「安政の大獄」が起こって、水戸派に対する大老・井伊直弼の徹底的な弾圧が行われた結果、岸田は理不尽にも閉門を命じられる破目になってしまった。

 こうして行く先がなく、食うに困っていた岸田の生活が劇的に変わるのは、ヘボンを訪ね、彼の家に移り住むことになってからだ。岸田30歳のことだ。ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士は、正しくはジェームス・カーティス・ヘップバーンといい、プレスビテリアン派教会の宣教師として1859年(安政6年)、妻クララとともに初めて日本の土を踏んだ。

ヘップバーンという名前は、現在では少しも発音しにくいものではない。しかし、幕末の日本人にはヘップバーンという発音は口にしにくかったようで、誰いうともなく、ヘボンになってしまった。ヘボンは1815年ペンシルバニア州の生まれで、プリンストン大学の神学科を卒業した後、ペンシルバニア大学で医学を修めた。医療は布教の強力な手段だからそういうコースを取る者は少なくなかった。

 来日したヘボン夫妻は神奈川の成仏寺に居住し、翌年近くの宗興寺で施療所を設けた。はじめは近寄らなかった日本人も、ヘボンの診察を受けてみるみるうちに回復するのをみて、続々と患者が押しかけるようになった。日本人はちゃっかりしていて、病気は治してもらうが、神の教えは敬遠するものが多かった。

ヘボンは布教の進まない原因の一つは、言葉のカベにあると考えた。ヘボンも妻のクララも診察には片言の日本語でも不自由することはなかったが、思想を伝えるとなると手に負えなかった。ヘボンは良い辞書が必要なことを痛感したが、当時は和英、英和の辞書はほとんどなかった。それなら自分で作ってみようとヘボンは決心した。

 ヘボンの家に移り住んだ岸田は、午前中はヘボンの診療を手伝い、午後には辞書の編纂に取り組むという生活だ。岸田の英語の勉強に最も効果があったのが、ヘボンが引き合わせてくれたジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵が創刊した「海外新聞」の編集の手伝いだった。「海外新聞」は日本人の手による日本語の、誰もが自由に購読できる新聞として最初のものだった。

岸田は「海外新聞」では、ほとんど無給に近い条件で働いた。ヒコのところで働くのは給料が目的ではなく、あくまでも英語の修得のためだ。その意味では、この新聞作りは大いに役立った。ヒコの訳した文章と原文の新聞記事を比較対照できるのだ。岸田の英語力は急速に伸びて、ヘボンの辞書編纂にも役立った。収容語数約2万語という、当時としては画期的な辞書の原稿が1865年、完成した。結局この辞書は1872年(明治5年)に出た第二版まで上海で印刷し、第三版(1886年・明治19年)からは日本で印刷されて、第七版(1903年・明治36年)まで出た。

(参考資料)三好徹「近代ジャーナリスト列伝」、小島直記「無冠の男」

黒岩涙香・・・スキャンダル記事と翻案小説で『萬朝報』を東京一にした天才

 黒岩涙香は明治時代の作家、ジャーナリストで、彼が1892年(明治25年)に創刊した『萬朝報(よろずちょうほう)』は一時、“社会派”ネタと翻案ものを特徴として、最大発行部数30万部と東京一の発行部数を誇った超人気の新聞だった。

 黒岩涙香は土佐国安芸郡川北村大字前島(現在の高知県安芸市川北)に郷士の次男として生まれた。本名は黒岩周六。「香骨居士」、「涙香小史」などの筆名を用い、翻訳家、作家、記者として活動した。兄は黒岩四方之進。

涙香は、大阪専門学校で1年ほど英語を学び、その後上京して、成立学舎、慶応義塾に入り新聞に投稿することが多かった。そのうちの1本「輿論新誌」に投稿した、北海道官有物払い下げ問題の批判論文が官吏侮辱罪に問われて、16日間の懲役刑を食らった。出所してから『日本たいむす』『絵入自由新聞』の記者を経て、『都新聞』に入社した。そして、記者のかたわら、翻案の探偵小説を書いた。『都新聞』ではのちに主筆を務めた。

 涙香の翻案ものは、読者から非常な好評を博した。彼は、原作を日本人に向くように構成を変え、主人公の名前も日本名を使い、題名なども工夫を凝らした。ちなみに、彼の名を高めた第一作「法廷の美人」の原作名は「暗き日々(ヒュー・コンウェイ)」だ。これでは味も素っ気もない。ところが、「法廷の美人」となると、被告席に立たされる薄幸の悲しい運命が、そこはかとなく連想されるではないか。つまり、彼は見出しの付け方が抜群に上手だったのだ。

 涙香は1892年(明治25年)、『萬朝報』を創刊した。30歳のときのことだ。
題字には「よろず重宝」の意味がかけられていた。後年、力をつける幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦らが参画したタブロイド版の日刊新聞だった。萬朝報は簡単・明瞭・痛快をモットーとし、社会悪に対しては徹底的に追及するという態度と、涙香自身の連載翻案探偵小説の人気によって急速に発展、1899年(明治32年)には発行部数が、東京の新聞中1位を達成した。

当時の新聞は、現代と違って見出しは極めて簡略で、ぶっきらぼうなものだった。時代は少し下るが、例えば日露戦争の旅順戦を伝える読売新聞のニュースの見出しをみると、「旅順陥落」「旅順開城の手続」「開城談判の調印」といった具合だ。そんな中で、涙香はとくに、小説の題名については非凡なセンスを発揮した。デュマの『モンテクリフト伯』を『巌窟王』とし、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を『噫(ああ)無情』と改題したのは、よく知られている。

 涙香は、読者に好奇心を起こさせるような題名をつけた『鉄仮面』『白髪鬼』『幽霊塔』『巌窟王』『噫無情』などの代表作を次々に掲載し、評判を取り、萬朝報のウリとなった。また人気を博した企画が、連載「名士蓄妾調べ」だった。これは当時の、いわゆる名士たち四百数十人が囲っていた愛人を徹底的に調べあげたもので、彼女たちの前身から、いつごろそういう関係になったか、どういうきっかけがあったか、どこに住んでいるか、その別宅の購入費や規模までを書いたのだ。徹底的なスキャンダル記事だ。伊藤博文、桂太郎、山県有朋らの政界の大物はむろんのこと、渋沢栄一らの財界人、北里柴三郎、森鴎外、勝海舟らの知名人は、根こそぎ萬朝報の餌食になった。これが「三面記事」の語源ともなった。

 黒岩涙香の萬朝報と当時、発行部数で覇を競ったのが秋山定輔の『二六新報』だ。二六新報は明治33年2月から発行され、翌年に10万部を超え、それまで1位だった萬朝報を2万部もリードした。秋山は涙香より5歳年下だった。だが、三好徹氏は涙香と秋山を「天才的な資質において、同時代の誰よりも抜きん出ていた」としている。涙香にとって秋山は強力なライバルだったわけだ。

 萬朝報が発行部数で東京の新聞中1位を取る前年、明治31年に涙香が打ち出したユニークで、型破りな宣伝コピーがある。彼は萬朝報の永遠無休日を宣言し、「世界は今日より萬朝報なくては夜の明けぬことと為れり」と宣伝。文字通り「永世無休」の看板を掲げたのだ。

(参考資料)三好徹「近代ジャーナリスト列伝」、小島直記「無冠の男」

紀 淑望・・・ 『古今和歌集』の真の序文、真名序の作者 道真鎮魂が目的

 『古今和歌集』には仮名序と真名序がある。仮名序の作者は紀貫之であり、真名序の作者がここに取り上げる紀淑望(きのよしもち)だ。普通の『古今和歌集』の写本では仮名序が巻頭に、真名序が巻末にある。また仮名で書かれた『古今和歌集』には、仮名の序文がふさわしいと思われるので、仮名序こそ10世紀初め、醍醐天皇の勅命によって紀貫之らが編集した『古今和歌集』の序文だと考えられてきた。

ところが、最近の研究によって、いろいろな点から、真名序すなわち漢文の序文こそが『古今和歌集』の真の序文であり、仮名序は真名序成立より後につくられたものであることが明らかになった。つまり、この紀淑望が書いた漢文の序文が、『古今和歌集』の真の序文というわけだ。

 では、なぜ真名序を『古今和歌集』の撰者ではなかった、この紀淑望が書いたのか。彼は、菅原道真の第一の弟子、紀長谷雄の嫡子だ。そこで、梅原猛氏は『万葉集』が柿本人麻呂の鎮魂を目的としたように、『古今和歌集』は菅原道真の鎮魂を目的としたものだった-という。紀貫之ら撰者が紀淑望に『古今和歌集』の序文を依頼したのは、勅撰集でありながら、紀氏の家集という色彩の強い『古今和歌集』の序文の作者として、立派な漢文の書ける「氏の長者」が書くことが適当だと判断したのだろう。それと、道真の第一の弟子の紀長谷雄の嫡子・淑望に序文を書かせて、暗に道真の鎮魂を図ろうとしたのだ-と梅原氏。

 真名序には『古今和歌集』成立の経緯が述べられているが、それによれば『古今和歌集』は、元々『続万葉集』と名付けられていた。それほどに、いにしえの奈良の都の『万葉集』は後代にも重んじられていたわけだが、『続万葉集』の内容、構成が不備であったために、改めて編纂しなおし、その名も『古今和歌集』と面目を一新。京の都の人と自然、思想と感情を基盤とした新しい平安朝の歌集が誕生したのだ。

そのため、『万葉集』の撰集のときが、古来より平城天皇の806年(大同元年)と伝えられてきたので、そこから十代、百年後の醍醐天皇の905年(延喜5年)を、『古今和歌集』の撰集のときとしたものとみられる。

 『万葉集』の時代の、永遠に後世に名を残す歌人の代表は柿本人麻呂だろうが、『古今和歌集』の時代は菅原道真だろう。人麻呂と同様、道真は、現世の悲劇的な人生にもかかわらず、あるいはそれ故にこそ、永遠に後世に名を残すため、道真にゆかりの深い人物に序文を書かせ、梅原氏が指摘するように、鎮魂の思いをも込めたのか。

 紀淑望の生年は不詳、没年は919年(延喜19年)。平安時代中期の学者・歌人。文人・紀長谷雄の長男。896年(寛平19年)、文章生となり、901年(延喜元年)、式部少丞平篤行を問者として方略式に応じ合格。醍醐朝のもとで備前権掾・民部丞・刑部少輔・勘解由次官・大学頭・東宮学士を歴任、913年、信濃権守を務めた。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、大岡信「古今集・新古今集」

小泉八雲・・・日本文化に深い愛情と理解を示した「日本紹介者」の一人

 ギリシア生まれのイギリス人、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は日本文化に深い愛情と理解を示し、日本の伝承に取材した、「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「むじな」などの『怪談』をはじめ多くの作品を残した。アーネスト・フェノロサ、ブルーノ・タウト、アンドレ・マルローらと並び著名な「日本紹介者」の一人だ。小泉八雲の生没年は1850(嘉永3)~1904年(明治37年)。

 小泉八雲の本名はパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)。ファーストネームはアイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んでいるが、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的でこの名をあえて使用しなかったといわれる。ファーミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に「Hearn」をローマ字読みして「ヘルン」と表記したのが広まり、当人も「ヘルン」と呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。名前の「八雲」は島根県松江市に在住していたことから、出雲国の枕詞の「八雲立つ」に因むとされる。

 ラフカディオ・ハーンはギリシアのレフカダ島でアイルランド人の父と、ギリシア人の母との間に生まれた。2歳のとき、アイルランドのダブリンに移るが、まもなく父母の離婚により、同じダブリンに住む大叔母に引き取られた。16歳のとき、ケガで左眼を失明、父の病死、翌年大叔母の破産など不幸が重なり、学校を退学する。そして19歳でアメリカへ渡り、24歳のとき新聞記者となった。その後、外国文学の翻訳、創作を発表して文才を認められ、ハーバー書店の寄稿家となった。

 ラフカディオ・ハーンは16歳のとき左眼を失明して隻眼となって以降、晩年に至るまで、写真を撮られるときは必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、俯(うつむ)くかして、決して失明した左眼から写らないようにポーズを取っている。

 ラフカディオ・ハーンは1890年(明治23年)、特派記者として来日。その後、まもなく東京帝国大学のチェンバレン教授や文部省の紹介で、島根県尋常中学校および師範学校の英語教師となった。ここでは籠手田知事、西田千太郎などの知己を得たこともあって、松江の風物、心情が大変気に入った。そして、松江の士族、小泉湊の娘、小泉節子と結婚し、武家屋敷に住んだ。この後、節子との間に、三男一女をもうけた。

 しかし、日本贔屓のハーンも閉口したことがあった。冬の寒さと大雪だ。そのため、彼は1年3カ月で松江を去り、熊本第五高等中学校へ転任。熊本で3年間暮らし英語教師を務めた。長男も熊本で誕生している。1896年(明治29年)、帰化し、「小泉八雲」と名乗った。八雲が赴任していた当時の熊本は西南戦争の後、戦争の焼け跡から復興し、急速に西洋化されつつあった殺風景な町だったが、質実剛健で感情をあまり表に表そうとしない熊本人魂や、路地裏の地蔵祭りなど伝統的な風俗とか飾らない行商人との会話などにとくに興味を抱いていたといわれる。そして、その後、八雲は勤務先を神戸のクロニクル社、上京して東京帝国大学で英文学の講師、さらに早稲田大学と変えている。

 この間、彼は「日本瞥見記」「東の国から」「知られぬ日本の面影」などの随筆で、生活に密着した視点から日本を欧米に紹介した。1904年(明治37年)アメリカで刊行された「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「むじな」などの話で知られる『怪談』は日本の古典や民話などに取材した創作短編集だ。

 小泉八雲は日本文化の基層を成すものは「神道」と考えた。そして、神道を「祖先崇拝」の宗教と捉え、祖先崇拝とはまた死者崇拝とみた。ここで最も基本的な感情は、死者に対する感謝の感情だ。この死者に対する感謝の感情は、日本の庶民の中にはまだ根強く残っていて、それが極めて美しい道徳を形成していることを驚きの目で見つめている。日本の伝統的な精神や文化に興味を持った八雲は、明治以来のいかなる日本人より、はるかに深く日本の思想の意味を理解していたのだ。

(参考資料)梅原猛「百人一語」

吉備真備 いったん失脚の憂き目に遭いながら復活した実力者

 吉備真備は、聖武天皇の御世、橘諸兄政権下で“怪僧”玄●(日ヘンに方、読みはボウ)とともに重用された時期があり、玄_と同じように失脚の憂き目に遭いながら復活。称徳天皇の御世、右大臣に昇進して左大臣の藤原永手とともに政治を執るという、地方豪族出身者としては破格の出世を成し遂げた有為な人物だ。学者から立身して大臣にまでなったのは、近世以前ではこの吉備真備と菅原道真のみだ。吉備真備の生没年は695(持統天皇9)~775年(宝亀6年)。

 吉備真備は備中国下道郡(後の岡山県吉備郡吉備町、現在の倉敷市真備町)出身で、父は右衛士少尉下道圀勝(しものみちのくにかつ)、母は楊貴(八木)氏(大和国=後の奈良県の豪族)。下道氏は吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族。

 吉備真備(当時の下道真備=しもつみちのまきび)は716年(霊亀2年)22歳のとき遣唐留学生となり、翌年入唐。以後18年間唐にあって、儒学、天文学、音楽、兵学などを学び、735年(天平7年)、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測量鉄尺)、楽器(銅律管、鉄如方響、写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)など多くの典籍を携えて帰国した。

 帰朝後の真備は、聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、橘諸兄が政権を握ると同時期に遣唐留学生・留学僧として派遣され、同時期に帰国した僧・玄●(ボウ)とともに重用された。しかし、740年(天平12年)に大宰府で起こった藤原広嗣の反乱が如実に物語っているように、それが度を超えていたため人々の批判を買うことになった。それでも真備は741年に東宮学士として皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇、称徳天皇)に『漢書』や『礼記』を教授した。また、そうした功績から746年(天平18年)には吉備朝臣の姓を賜った。

 ところが、孝謙天皇即位後の750年には同天皇を後ろ楯に、藤原仲麻呂が強大な権力を掌握。仲麻呂により、遂に真備は中央政界では失脚、筑前守、肥前守に左遷されてしまった。だが、決して真備はこれでは終わらなかった。751年に遣唐副使として再び入唐。そして753年には鑑真を伴って無事に帰国したのだ。

 真備は754年(天平勝宝6年)には大宰少弐に昇任、759年(天平宝字3年)に大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。そして764年には(天平宝字8年)には造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こした際には従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して乱鎮圧に功を挙げた。称徳天皇の御世、弓削道鏡の下で中納言、大納言、そして右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手とともに政治を執ったのだ。

 吉備真備は地方豪族出身者としてはまさに破格の出世だった。学者から立身 して大臣にまでなったのも、近世以前ではこの真備と菅原道真のみだ。それも、 一度は中央政界で失脚しながら、遣唐副使として入唐、再出発し、帰国後は大 宰府で実績を積み、70歳で遂に都へ復帰したのだ。学者から身を起こした彼の 忍耐強い性格はもちろんだが、ここまで頑張り抜けたのは、やはり執念としか いいようがない。
 吉備真備には様々な伝承がある。まず彼は唐で「仙術」を学んでいる。また彼は「夢」を買って出世したという(『宇治拾遺物語』)。このほか、梅原猛氏によると、「祭星法」という術を用い、実はこの法により出世したともいう。この秘法を用い出世したもう一人の人物が、藤原鎌足だ(『宿曜占文抄』)。

(参考資料)梅原猛「海人と天皇」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

公慶・・・戦禍で焼失した大仏殿再建に生涯を懸けた三論宗の僧

 公慶は、戦火で無残に傷ついた奈良・東大寺の大仏の修理および、焼失した大仏殿の再建に生涯を懸けた江戸時代前期の三論宗の僧だ。公慶は幕府の許可を得てただ一人、勧進活動のため精力的に全国を行脚した。ただ、悲しいことに彼は大仏殿の落慶を見届けることなく、江戸で亡くなった。公慶の生没年は1648(慶安元)~1705年(宝永2年)。

 公慶は丹後(京都府)宮津出身。1660年(万治3年)、東大寺大喜院の英慶(えいけい)について出家。13歳のときのことだ。公慶は同寺竜松院に住したが、1567年(永禄10年)の兵火に遭い大仏殿が焼失し、以後は大仏が露座のままとなっていることを嘆き、1683年(天和3年)、大仏殿再興を発願。翌年、幕府・寺社奉行の許可を得た。ただ、その許可の内容は、勧進は「勝手次第」、「幕府は援助せず」というものだった。それでも公慶は全くめげず、大勧進職(だいかんじんしき)となり、全国に懸命に勧進。着工にこぎつけた。

1692年(元禄5年)、4年の歳月を経て大仏の修理が完成して開眼供養が行われた。この開眼供養は3月8日から4月8日まで1カ月間にわたり営まれ、1万2800人の僧、一般参詣者20万人余に達したといわれ、奈良全体が未曾有の賑わいをみせた。

大仏の修理が終われば後は、肝心の大仏殿の再興だった。公慶の見積りでは大仏殿再興にかかる費用は18万両だった。公慶はこれだけの大事業を成し遂げるには、公的な力に頼る以外ないと判断。大仏修理の功績があった今回は、護持院・隆光の仲立ちで桂昌院(第五代将軍徳川綱吉の母)-そして綱吉に拝謁することに成功。大仏殿の再興への協力を願い出たのだ。その結果、幕府の全面協力を取り付けたのだった。幕府は公慶が見積もった目標額に応えるため、勘定奉行・荻原重秀を最高責任者に据えた。これにより、大仏殿再建は事実上幕府の直轄事業となった

 幕府の支援を受けることになったことで、再建のメドはついたかに思われたが、公慶は勧進活動を止めることはなかった。民衆に対し、大仏との“結縁”の機会を広めるためだった。ただ、幕府の支援はあったが、恐らく資金的な問題からと思われるが、大仏殿のスケールは当初、公慶が考えたものよりは縮小されている。小さくなったのだ。

 これだけ精力的に勧進活動を展開した公慶だけに、あとは感動の大仏殿完成の日を待つだけ-のはずだった。だが、悲しいことに、彼は大仏殿の落慶を見ることなく1705年(宝永2年)、江戸で病を得て58年の生涯を閉じた。翌年、公盛が公慶の功績を称え、勧進所内に御影堂を建立し、仏師性慶と公慶の弟子即念が製作した御影像を安置した。現在、東大寺境内の一角に建っている公慶堂と、堂内に安置されている公慶上人像がそれだ。待望した大仏殿の落慶は公慶が没した4年後、1709年(宝永6年)のことだ。現在の大仏殿・中門・廻廊・東西楽門はこのとき再建されたものだ。

 東大寺大仏殿の本尊、大仏は華厳経の教主毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)の金銅座像で、高さ五丈三尺五寸(現尺、約14.7・)。聖武天皇の発願により749年(天平勝宝1年)竣工。752年(天平勝宝4年)開眼供養が盛大に営まれた。その後、1180年(治承4年)、源平合戦の際、平重衡の南都焼き討ち、1567年(永禄10年)、三好三人衆と松永久秀の合戦で、それぞれ兵火に遭い、大仏殿はじめ多くの伽藍、さらに大仏も被災している。そのため、大仏も改鋳され、台座蓮弁の一部だけが当初のもので、胴身は鎌倉時代、頭首は江戸時代元禄期のものだ。1180年の最初の被災の際は、俊乗房(しゅんじょうぼう)重源(ちょうげん)上人が抜擢されて、勧進職を務めた。

(参考資料)古寺を巡るシリーズ「東大寺」

佐野常民・・・幕末には珍しい非政治的人間で日本赤十字社の創立者

 佐野常民は周知の通り、日本赤十字社の創立者だ。彼の赤十字への関心は、2度の渡欧を通して知った西欧諸国の赤十字活動によって触発され、育っていった。決して独創ではない。だが、わが国にも赤十字組織は必要だと見抜く眼力の正確さ、そしてそう判断すると直ちにその移入を思い立ち、着実に精魂を込めて行動していく粘り強い実行力、それが常民の優れた点だ。また、彼は適塾で学んだが、幕末の激動期を生きた人物にしては珍しく、体制批判派でもなければ、もっといえば非政治的人間だったといっていい。

 佐野常民は肥前国佐賀藩士、下村充斌の五男として生まれたが、11歳の1832年(天保3年)、親戚の藩医佐野常徴(じょうちょう)の養子となった。このことも、常民の意識形成に少なからず影響を及ぼしたものと考えられる。元来、藩医は士の最末端というか、武士にして武士にあらずというような、身分的に極めて微妙な地位に置かれていた。したがって、ともすると上昇志向にとらわれやすい。この点は、常民と同様、藩医の子だった越前の橋本左内にも似たところがあったが、常々真正の武士になりたいものだと熱烈に願った。

 佐野家の場合はそれに加えて、常徴が藩主・鍋島斉直(鍋島閑叟の父)の侍医だったという事情もある。生家が「葉隠」的精神を濃厚に伝えた忠誠意識の強い家庭で、実父は藩財政に参画していたし、養家の社会的地位といい、常民が体制側に吸い寄せられていく素地は生まれながらに準備されていたわけだ。

 1854年(安政元年)、常民はオランダから蒸気船購入を一任されたものの、公金流用を疑われて、悪くすると切腹という窮地に追い詰められたことがあった。その頃、オランダとの貿易を取り仕切っていた長崎奉行所の役人らに酒食を饗応してリベートの引き下げを図ったのだが、藩のためにと考えたその裏取引を、思いがけず公金濫費と指弾されたのだ。

 ところが、藩主閑叟は常民に対し、免職のうえ30日間の謹慎という軽い処分を下しただけで、しかも免職者は以後30年間復職できないという定めがあったのに、わずか半年足らずで再び彼を要職に登用した。藩主のこの寛大な措置も常民をいよいよ体制に忠実にならしめる一つの契機になったことだろう。

そうかといって体制内で活発な政治的な動きを展開したわけではない。むしろ逆だった。常民の身辺は政治の持つ生臭い求心力とどこか縁が薄く、歴史のめぐり合わせか、何か事が起こりつつあるときに限って、いつも彼はその現場にいないのだ。1850年(嘉永3年)の義祭同盟結成の際は、江戸で蘭学修行に励んでいたし、江戸幕府が倒れ1867年、王政復古の大号令が発せられたとき、彼はフランス・パリの万国博の運営に携わっていた-という具合。

 常民が兵部少丞として新政府の官途についたとき、すでに50歳に近かった。元老院議官、大蔵卿、元老院議長、枢密顧問官などを歴任、晩年には農商務大臣を務めて伯爵に叙せられた。しかし、明治期の常民の独自な立場と識見を浮き彫りにするのは、赤十字運動との関わりだ。事実、常民は赤十字運動をわが国に根付かせることに後半生のほとんどを捧げており、またその行動によってこそ彼の名は歴史に深く刻み込まれることになったといえよう。

 明治27年勃発した日清戦争は、日本赤十字社にとってその創立の理念の真価を問われる試練の時だった。常民は大本営の置かれた広島に赴き、戦地の戦況を絶えず確認しながら、救護活動の陣頭指揮を執った。史料によると、このとき1050人の赤十字社救護員が大陸に渡り、10万人前後の内外傷病者を救護したという。

(参考資料)百瀬明治「『適塾』の研究」

島 左近・・・石田三成が禄高の半分を与えて召し抱えた歴戦の兵法家

 島左近は生涯に主君を、畠山高政を皮切りに筒井順政-筒井順慶-筒井定次-豊臣秀長-豊臣秀保-石田三成と7人変えたと伝えられている。筒井順慶に仕えた頃は侍大将を務めたほど、当代の兵法家として知られていた。「孫子」や「呉子」などの中国古典にも明るかったという。後に羽柴秀長に仕え、その死後は秀長の世嗣・秀保に従い、文禄の役(1592年)にも渡海し、朝鮮においても数々の武功を挙げた。

だが、1595年(文禄4年)、秀保が病死し、左近は出家を覚悟していたところ、石田三成から声がかかり、7人目の主君に仕えることになった。もっとも、戦国武将としてのキャリアにおいて、卓越していた左近を、39歳と年少の三成が召し抱えるのは、この当時の武将気質として、まとまる話ではなかった。恐らく左近にすれば、己の戦歴を上回るぐらいの相手でなければ、いまさら仕える気にもならなかったに違いない。そこで、婉曲に断ろうとした。それを三成は、左近への高い評価を俸禄で示して覆す。三成は1586年(天正14年)、左近を、三成の当時の禄高4万石の半分、2万石の知行を与えて召し抱えたといわれる。まさに破格の待遇だ。

ただ、左近の三成への仕官の時期の違いで、召し抱えたときの三成の知行にはいくつかの説がある。そのとき三成は北近江に19万4000石を与えられて佐和山城主になっていたとか、「多聞院日記」には近江に30万石の知行を得ていたとも記されている。

 島左近の生涯はいまなお謎に包まれている部分が多い。例えば、彼の諱が清興(きよおき)、勝猛(かつたけ)、昌仲、友之、清胤(きよたね)といくつも伝えられているほか、生没年も判然としない。伝えられているのは1540(天文9年)~1600年(慶長5年)。

 豊臣秀吉の死後、雌伏していた徳川家康は遂に天下取りに向けて動き出した。豊臣政権の存続を願う三成は、知力の限りを尽くして家康に決戦を挑んだ。1600年に勃発した「関ケ原の戦い」だ。三成を事実上の総大将とする西軍の総勢8万4000と、家康を総大将とする東軍の総勢7万5000が激突したはずだった。だが周知の通り、総勢1万5000を揃えた総大将格の毛利本体が動かず、一進一退が続く中、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返り、勝敗は決した。

 三成の「補佐役」、島左近の勇猛果敢な奮戦ぶりは後々までの語り草とされた。西軍の事実上の主将・三成に東軍の諸将が集中攻撃を仕掛けてくるのは明らかだった。開戦から1時間後、馬上の島左近は手勢100人で、右手に槍、左手に麾(き=指図旗)を握って、柵の口から打って出た。銃撃戦が始まり、先鋒の兵の小競り合いがあって後、東軍側では黒田隊が左近の率いる100人の前に出た。これに加藤嘉明、田中吉政、細川忠興らの軍勢が続く。左近はこれを巧みに押し返し、押し込め、タイミングを計っては、実に巧妙にいなすのだ。黒田隊はまるで左近の魔術にでもかかったように翻弄されて、挙句の果ては死地へはめられてしまった。

このとき黒田隊の菅六之助という者が、別働の鉄砲隊を率いて、左近らを捉える射程内の小丘に登っていなければ、黒田隊は全滅の恐れすらあった。横合いからの、鉄砲隊の攻撃で石田隊は次々と倒れていった。馬上の左近も狙い撃たれて馬から落ちた。ひどい出血だった。左近は将士の肩に担がれて、手勢を撤収し柵内へ退いた。陣所内で左近は止血の手当てを受けたが、かなりの重傷。本来なら動くこともままならなかったが、東軍の攻撃が激しさを加え、休息の時間を与えてくれなかった。

 石田隊の強さは群を抜いていた。だが、頼みの西軍諸将は、宇喜多秀家の軍勢や小西行長、大谷吉継らの隊を除いて、ほとんどが動かない。所詮は多勢に無勢だった。怒涛の如く押し寄せる東軍を、西軍の実戦諸隊は遂に支えきれず、左近も津波に呑み込まれたように、ここで姿を消した。その後、左近はどうなったのか。銃撃によって戦死したと書き留めている史料から、太田牛一の「関ケ原軍記」のように行方不明とするもの、「古今武家盛衰記」のように西国へ落ちのびたと記しているものまであり、確かなことは分からない。

(参考資料)百瀬明治「『軍師』の研究」、佐竹申伍「島左近」、加来耕三「日本補佐役列伝」

島津重豪・・・西洋文化に造詣が深かった浪費家は同時に藩の革命児だった

名君にも様々なタイプがある。悪いことをたくさんしているが、それを上回る大きな功績があり、その藩の地位を高めた藩主だ。その典型が島津氏第二十五代当主で、薩摩藩八代藩主・島津重豪(しげひで)だ。幕末、西南雄藩の中でも名君といわれた島津斉彬の曽祖父で、彼は32年の長きにわたって藩主の座にあって藩政を独占。贅沢三昧をして藩の財政を破綻させ、数々の苛政も行ったことで、愚君の評価を下す人が多い。

しかし薩摩藩は「革命児」ともいえる、この型破りの殿様の「無茶」の数々がなければ、明治維新の原動力などには到底なり得なかっただろう。生没年は1745(延享2年)~1823年(天保4年)。
 重豪は徳川十一代将軍家斉の岳父だが、徳川十五代の将軍の中で最も贅沢で、浪費家だったこの家斉に「薩摩の舅どのには及ばん」といわせたほど、並外れた浪費家だった。それくらい重豪の生活は華麗で、豪奢だった。その名が示すように、性豪放で進取の気性に富んでいた。泰平の世の大名にしては気宇が広大にすぎた。やること成すことが桁外れで規格にはまらない。国持大名らしさを求める幕府は何かにつけて枷(かせ)を着せた。怜悧な人だったから、我執を包みくらました。そのため、はけ口のない重豪の雄心は、わがままと贅沢となって表れた。

 江戸・薩摩藩下屋敷の茶屋を改めた高輪御殿に隠居していた重豪の居室は、西洋の文物であふれていた。晴雨出没人形、砂時計、吹笛琥珀、硝子刷毛、天眼鏡、紅毛硯、虫眼鏡、硝子鈴、オルゴール楽器、剣杖、鼓弓、硝子掛燈爐などのオランダ渡りの品々が異国的な雰囲気を高めていたという。それほど西洋文化に造詣が深く、蘭学に大変な興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりしている。

 彼が行った事績をみると、1773年(安永2年)、藩校・造士館や演武館を設立し、教育の普及に努めている。1779年(安永8年)には明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究を行っている。医療技術の養成にも尽力し、1774年(安永3年)医学院を設立、武士階級だけにとどめず、百姓・町人などにも教育の機会を与えた。

 このほか、老いてますます盛んな重豪は、曾孫の斉彬の才能を高く評価し、斉彬とともにシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。ちなみに彼はローマ字を書き、オランダ語を話すこともできたといわれている。

重豪の金に糸目をつけぬ贅沢品の蒐集で、薩摩藩の財政は破綻。晩年、彼はようやく藩の財政改革に取り組み、その立て直し役として調所笑左衛門広郷を重用。調所の大胆かつ狡猾な手法と、琉球を通じた密貿易により、その財政再建は孫の島津斉興の新政時に成果をみている。調所は500万両の赤字を埋め、60万両の黒字を出すまでに立て直した。

(参考資料)加藤_(けい)「島津斉彬」、八幡和郎「江戸三百藩 バカ殿と名君」
      奈良本辰也「日本史の参謀たち」、綱淵謙錠「島津斉彬」

島津久光・・・斉彬の遺志継ぎ藩の存在感を誇示するが、保守派のため限界

 島津久光は、薩摩藩・島津家の“お由羅騒動”の要因ともなった、斉彬の異母弟だ。斉彬の急逝の後、薩摩藩主(島津忠義)の後見役として、「国父」の尊称を受け藩政の実権を握り、幕末~明治維新の藩運営を実質的に担った人物だ。

島津久光の生没年は1817(文化14)~1887年(明治20年)。
 島津久光は第十代薩摩藩主・島津斉興の五番目の子として鹿児島城本丸で生まれた。母は側室、江戸三田の四国町に住む大工の娘、お由良(お遊羅とも)。8歳上の嫡兄が斉彬だ。

 1851年(嘉永4年)、第十一代薩摩藩主となった島津斉彬は、積極的に藩政改革と軍備の近代化を断行。しかし、志半ばで急に病に伏し1858年(安政5年)、死を悟った斉彬は久光を枕頭に招き、久光の長子、茂久(のち忠義に改名)を後嗣とし、久光を後見とする旨、遺言し、亡くなった。西南雄藩の中でもとりわけ開明派の名君と評された人物だけに、藩内には若き日の西郷隆盛、大久保利通ら、その死を惜しむ声が多かった。

 それだけに、薩摩藩内の若手家臣たちには失望感が強く、それほどの期待感はなかったが、島津久光は異母兄、斉彬の遺志を継いで、この後、公武合体のために努力奔走する。ただ、もう一つの遺志、薩摩の近代化という藩の内政面では至極、冷淡だった。そのため、斉彬が今後の時代を見据え、薩摩藩を“産業国家”に改造することを目指し、西洋技術習得のために設けた諸施設は無残に解体・縮小されていた。

 斉彬が推し進めていた西洋技術習得の意味を、久光は全く理解できず、ただ傍観しているほかなかったのだ。しかも、兄の斉彬が亡くなったからといっても、父、斉興が自分の出番とばかりに藩運営に出しゃばってきたからだ。久光はまた、この事態を静観しているほかなかった。斉彬の死後、一年で老公の斉興も亡くなって、ようやく実権は久光に移った。

 斉彬の死で沈滞したかに見えた薩摩藩内の動きも、徐々に活気を取り戻す。京を中心に倒幕・尊皇攘夷運動が吹き荒れていたからだ。現実派の大久保利通らは、要所で久光を担ぎ出し、この後、西南雄藩の中でも主導的な立場で様々な手を打ち薩摩藩の声望を高めていくことになるのだが、先君・斉彬に心酔していた西郷隆盛は結局、最後までこの久光の行動や事績を認めることはなかったようだ。そのため、西郷はこの久光に徳之島、喜界ヶ島などへの流罪処分を受けている。

 話を戻すと、やがて「国父」の尊称を受け、藩政の実権を握った久光は、大久保利通ら藩内有志の脱藩事件を契機として彼らを「誠忠士」と称し、挙藩一致し国難にあたらせることに成功した。1862年(文久2年)、久光は1000余の藩兵を率いて上京、国事周旋にあたり、攘夷激派の有馬新七らの伏見・寺田屋事変を抑え、挙藩一致の方向を堅持した。公武一和のためとはいえ、薩摩藩士が薩摩藩士を斬り殺すという惨劇は、藩内に傷を残した。

 次いで、久光は勅使、大原重徳を擁して東下し、幕政改革を命じて公武合体運動の中心人物となった。江戸からの帰途、生麦村で行列を横断したイギリス人を殺傷した「生麦事件」を起こし、その結果、1863年(文久3年)、「薩英戦争」となった。

 王制復古後は、久光は政府の開明政策に不満で藩地にとどまることが多かったが、征韓論の分裂による明治政府の弱体化に備え、明治6年、勅使派遣により上京し、内閣顧問から同7年、左大臣に任ぜられた。

 ただ、保守派の久光は政府の欧化政策には反対で、その旨たびたび建言した。しかし、それはことごとく退けられ、受け容れられることはなかった。そのため、明治8年、遂に久光は官を辞し帰国。以後、政治の舞台からは遠ざかり、修史の業に従い、『通俗国史』(86冊)などを編纂させた。薩摩国内が最後の舞台となった「西南戦争」には中立を守り、休戦を建議したが、明治維新政府には容れられなかった。

 島津久光は、その死因が不可解で毒殺との説もある、急死した異母兄、斉彬が健在なら表舞台に登場することはなかった。それだけに、久光が行った藩運営や雄藩諸侯の中で果たした役割も、決して十分ではなかったかも知れない。しかし、それでも薩摩は、明治維新政府で長州とともに主導的役割を果たし、存在感を示したのだから、良しとしなければなるまい。

(参考資料)海音寺潮五郎「西郷と大久保」、松永義弘「大久保利通」、司馬遼太郎「きつね馬」、加藤_「島津斉彬」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」