「歴史くらぶ」カテゴリーアーカイブ

三重県の国史跡で「初代斎王」の宮殿の建物跡を発見

三重県の国史跡で「初代斎王」の宮殿の建物跡を発見

三重県明和町の国史跡・斎宮(さいくう)跡で、飛鳥時代後半(7世紀後半~8世紀初頭)の斎宮の中心施設、方形区画と多数の建物跡が見つかった。
天智天皇亡き後、近江京の大友皇子との覇権争い「壬申の乱」を制し、天皇による中央集権国家の樹立を目指していた天武天皇が、娘で初代斎王(さいおう)に任命した大来皇女(おおくのひめみこ)のために造営されたとみられる。
今回建物跡が見つかった現場は東西2km、南北0.7kmに及ぶ国史跡の西部。2018年度の斎宮歴史博物館の発掘調査で、区画の北東隅とみられる直角に折れた約10m×約8mの塀跡が見つかった。過去に発掘された塀跡と合わせて東西方向に約40m、南北方向に約60m以上の方形区画が存在することが分かった。
区画内では脇殿とみられる掘立柱建物跡が4棟、区画外の西では柱の直径40cm、柱間隔が2mを超える3間×4間の大型総柱建物を含む倉庫跡が7棟あることが確認された。

5月にもイコモスが勧告 古墳群の世界遺産の可否判定

5月にもイコモスが勧告 古墳群の世界遺産の可否判定

世界文化遺産への登録を目指している大阪府南部の百舌鳥・古市古墳群は、ユネスコの諮問機関のイコモスが昨年9月に行った現地調査の結果を踏まえ、今年5月にも登録にふさわしいかどうかの勧告(判定)を出す見通しだ。
「ふさわしい」と判断されれば、今年夏にアゼルバイジャンで開かれるユネスコの世界文化遺産委員会で正式に登録が決まる。

京都・下鴨神社で新春恒例の「蹴鞠初め」

京都・下鴨神社で新春恒例の「蹴鞠初め」

京都の世界遺産、下鴨神社で1月4日、新春恒例の「蹴鞠初め」が行われた。境内に15m四方の四隅に竹を立てた「まり場」が設けられ、平安時代の貴族の装束を身に着けた保存会のメンバー8人が輪になって、さながらサッカーのリフティング並みに蹴り続ける、優雅な蹴鞠を披露した。
鹿の皮を縫い合わせてつくった直径およそ20cmの白いまりを、「アリ」「ヤァ」「オゥ」など独特の掛け声をかけながら、落とさないよう蹴り上げていた。

新元号は現天皇が改元政令を公布

新元号は現天皇が改元政令を公布

安倍首相は1月4日年頭記者会見し、5月1日の皇太子さまの新天皇即位に伴って改める新元号について「国民生活への影響を最小限に抑える観点から、先立って4月1日に発表する」と表明した。
4月1日に改元政令を閣議決定して、現在の天皇陛下が公布され、新天皇即位と同時に改元する。皇位継承前の新元号公表は憲政史上初めて。天皇退位は約200年ぶり。

地球内部に23億k㎥の巨大生物圏 国際プロジェクトが報告書

地球内部に23億k㎥の巨大生物圏 国際プロジェクトが報告書

世界のおよそ50カ国の研究者が参加する国際プロジェクト「ディープ・カーボン・オブザーバトリー」はこのほど、地球内部の過酷な環境の中に微生物の巨大な生物圏が広がっているとする報告を、過去10年間と取り組みの成果として発表した。
これらの微生物は、地下5,000mを超える鉱山の掘削坑や海底2,500mほど掘り下げた地層など、世界各地のおよそ100地点で採取したサンプルの分析によって確認された。
この中には海底の熱水が噴き出す120度を超える環境でも生息できる微生物や、岩石をエネルギー源とする微生物などもいて、地上とは大きく異なる過酷な環境で独自の進化を遂げていた。しかも地球内部で生物が存在し得る領域は23億k㎥と海の体積の2倍に及び、この中に地球全体の微生物の70%が存在すると考えられるという。

両陛下最後の一般参賀に平成最大の15万4,000人余の人の波

両陛下最後の一般参賀に平成最大の15万4,000人余の人の波

4月の退位を控え、両陛下が天皇・皇后として応えられる最後の一般参賀が1月2日、皇居で行われ、平成に入って最も多い15万4,000人余が訪れた。
宮内庁は予定より15分速い9時15分に開門し、参賀の回数を1回増やして6回とし、両陛下は皇太子ご夫妻など皇族方とともに宮殿のベランダに立ち、訪れた人たちに笑顔で手を振って応えられた。6回目が終わった後も訪れる人の列が続き、急遽、両陛下の強い希望で7回目のお出ましが追加されるほどだった。

京都・西寺の五重塔の本格発掘調査へ 京都市

京都・西寺の五重塔の本格発掘調査へ 京都市

京都市は来年度、平安京造営時に東寺とともに造られ、その後焼失した西寺について、存在したとされる五重塔の場所を調べるための本格的な発掘調査を行うことになった。
これまで塔があったとみられる場所の周縁部などを調査したことはあったが、今回は地権者の了解を得て住宅など数軒を解体し、推定される場所を発掘する。今年秋ごろにも着手する方針。
これまでの西寺調査で「講堂」や本尊を安置したとされる「金堂」などの跡が見つかっているが、五重塔は正確な位置が特定できていない。
西寺は、長岡京から794年の平安京への遷都で桓武天皇が東寺と対になるように造った官営の寺。鎌倉時代の火災による焼失以降、再建されず現在、京都市南区の跡地が国の史跡に指定されている。

日本の新元号4/1に閣議決定・公表へ

日本の新元号4/1に閣議決定・公表へ

安倍首相は皇位継承に伴う新たな元号について、4月1日に閣議決定し、直ちに公表する方針を固めた。同首相が1月4日に、年頭の記者会見で方針を正式に表明する。
4月30日に天皇陛下が退位され、新元号を定める政令は施行日を皇太子さまが即位される5月1日とし、5月1日午前0時をもって元号は改められる。

唐招提寺の證玄和尚の遺骨容器に弟子の遺骨

唐招提寺の證玄和尚の遺骨容器に弟子の遺骨

奈良の元興寺文化財研究所の調査によると、奈良・唐招提寺の復興に功績のあった鎌倉時代の高僧、證玄(しょうげん)和尚の遺骨を納めた容器の中に少なくとも3人の遺骨が入っていたことが分かり、寺では弟子の遺骨も追葬したとみている。
容器は直径17㌢、高さがおよそ34㌢の銅製で、表面の銘板には證玄の出身地や没年が刻まれていた。容器からは弟子の名前などが墨で書かれた骨も6つ見つかった。容器は当初から追葬を想定してつくられたとみられていて、同じ容器に追葬した例はこの時代では極めて珍しいという。
證玄は鎌倉時代に金堂や講堂の修復を手掛け、43年にわたり長老として寺の伽藍の復興に尽力した高僧。この容器は2019年2月から奈良国立博物館で公開される。

浄土真宗の顕如が秀吉に宛てた書状2通見つかる

浄土真宗の顕如が秀吉に宛てた書状2通見つかる

東京大学史料編纂所によると、浄土真宗の顕如が羽柴秀吉に宛てた書状が2通見つかった。書状は1通が、織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」の翌年、天正11(1583)年に書かれたと考えられ、文面は大坂に入ることになった秀吉に対して、あいさつのため使者を送るというもの。もう1通は、秀吉の昇進の祝いに刀を献上するという内容が記され、秀吉が初めて朝廷から位を授かった天正12(1584)年に送られたとみられる。
延暦寺の焼き討ちに象徴されるように、信長は宗教勢力と激しく対立した。顕如とも同様で、これら2通の書状は信長の死後、秀吉に接近しようと顕如が書いたものだ。
調査にあたった同編纂所では、顕如がこの時点で秀吉を”ポスト信長”の有力な人物と認識していたことがはっきりと分かる、貴重な史料だと指摘している。顕如は「石山合戦」でおよそ10年にわたり信長と激しく対立し、和睦の後、拠点としていた大坂の石山本願寺を出て、紀伊に移った経緯がある。