「歴史くらぶ」カテゴリーアーカイブ

淡路島で出土の銅鐸 通説より100年以上遡る貴重な資料

淡路島で出土の銅鐸 通説より100年以上遡る貴重な資料

2015年に兵庫県南あわじ市の砂置き場から見つかった「松帆銅鐸」と呼ばれる7点の銅鐸は、付着していた植物の年代測定の結果、弥生時代の紀元前4世紀から紀元前2世紀前半に埋められたものと分かった。
銅鐸から、埋められた当時のものとみられる木の皮や稲、ススキの仲間などの植物が見つかったことから、兵庫県教育委員会が放射性炭素年代測定という方法で分析した。
これまで銅鐸は、鉄器の使用が広がって国の原型ができ始めた紀元前1世紀ごろに埋められるようになったと考えられていた。したがって、今回の結果はこれまで考えられていたよりも100年以上古く、当時の社会の変化を知る貴重な資料として注目されている。

信長の茶会記82年ぶりに発見 料理の献立も記す

信長の茶会記82年ぶりに発見  料理の献立も記す

茶道を治世に活用し権威付けしたとされる天下人、織田信長(1534~1582年)が開いた茶会を記録した茶会記が新たに見つかった。道具の取り合わせや料理の献立も記されていた。調査した古田織部美術館(京都市)によると、信長の茶会記が確認されるのは1935年以来、82年ぶりという。
これは広島藩士・三好家に伝わる記録で、宮下玄覇(はるまさ)・同館館長が数年前に入手した書状などの中から発見された。記録したのは、千利休や今井宗久とともに、茶の湯の三宗匠と呼ばれた、堺の豪商・天王寺屋の主人、津田宗及(そうきゅう)とみられる。書面には「津田宗及御会席付(おんかいせきつけ)」と題され、軸装されていた。
天正2(1574)年5月2日の日付と「於 御殿様(=信長)御会」の記述がある。場所は記録されていないが、当時の信長の動静から京で開かれたと推察される。

表面温度4300度の惑星を発見 東大など国際チーム

表面温度4300度の惑星を発見 東大など国際チーム

東京大学や国立天文台、米航空宇宙局(NASA)などの国際研究チームは、地球から約600光年離れた恒星を周回する、表面温度が約4300度に達する惑星を発見したと発表した。これまで分かっている中で最も表面温度が高い惑星だという。6月5日付の英科学誌ネイチャーに発表される。
同チームによると、この惑星は地球から白鳥座の方向に約600光年離れた恒星「KELT-9」を周回している。公転周期は1.5日で、水素が主成分のガスに覆われているとみられる。
KELT-9の表面温度は約1万度で、太陽の約6000度と比べてかなり高い。また、惑星とKELT-9との距離は、太陽と水星の距離の10分の1程度で極めて近く、惑星は強い紫外線を受けているという。

寺田屋事件で龍馬かくまった薩摩藩伏見屋敷の絵図発見

寺田屋事件で龍馬かくまった薩摩藩伏見屋敷の絵図発見

江戸時代末期、現在の京都市伏見区にあった薩摩藩伏見屋敷の絵図が見つかった。屋敷は1868年、常宿としていた船宿・寺田屋で、幕府の奉行所の役人に襲撃され深手を負い、瀕死の坂本龍馬(1836~1867年)がかくまわれたことで知られる。所在地はこれまで確認されていたが、同屋敷の図面が見つかったのは初めてという。同区の神社、城南宮が6月3日、発表した。
絵図は縦99㌢、横128.2㌢。「天明六年」(1786年)と書かれている。屋敷の建物の配置や間取りを示し、東側には川から上がるための板橋も描かれている。屋敷の規模は南北99㍍、東西64㍍で、敷地面積は4973平方㍍と推定されるという。
同屋敷は1868年、鳥羽・伏見の戦いで会津藩に焼かれた。

高山右近の高槻城 堀、大規模改修工事の痕跡見つかる

高山右近の高槻城 堀、大規模改修工事の痕跡見つかる

高槻市教育委員会は6月1日、高山右近が城主を務めた高槻城(大阪府高槻市)で、織田信長も攻めるのに手を焼いたとされる右近が築いた堀や、江戸幕府が西国大名への備えとして行った大規模な改修工事の痕跡が新たに見つかったと発表した。
今回見つかった堀は幅約9㍍で、江戸時代の二の丸と三の丸の間の約75㍍の内堀の下にあった。2010年には今回の調査地の南でも幅約19㍍の戦国時代の堀が見つかっている。
右近は1578年、信長に謀反を起こした主君の荒木村重に従い、一時織田軍に包囲された。まもなく右近は降伏したが、広大な水堀と城壁で守られた城を、織田軍は攻めあぐねたと外国人宣教師が記録している。
1573~1585年、右近が城主を務めた高槻城はその後、豊臣家を経て徳川家の直轄地となり、大坂夏の陣の2年後の1617年、幕府が全面改修。明治の廃城後に堀は埋められ、現在は公園になっている。

退位特例法9日にも成立へ 政府が公式先例化に言及

退位特例法9日にも成立へ 政府が公式先例化に言及

天皇陛下の退位を実現するための特例法案が6月1日、審議入りし衆院議院運営委員会で、採決を退席した自由党を除く自民、民進、公明、共産、日本維新の会、社民の6党の全会一致で可決された。
菅義偉官房長官は、法案の作成過程や、その中で整理された基本的な考え方は将来の先例になり得る-などと表明。政府として初めて公式に先例化の可能性に言及した。
法案は2日に衆院を通過して参院に送られる。参院は新たに設置した特別委で審議し、9日にも成立する見通しだ。現憲法化で天皇陛下の退位に関する法案を審議するのは初めてで、与野党が法案の審議日程などを交渉する衆院議運委で政府提出法案が審議されるのも異例。
このほか、安定的な皇位継承を確保するための諸課題の一環として、女性皇族が結婚後も皇室に残れるようにする女性宮家創設などの検討を政府に求める付帯決議案も可決した。

古代エジプト人のミイラのゲノム解析 ネイチャー

古代エジプト人のミイラのゲノム解析 ネイチャー

ネイチャーコミュニケーションズによると、福数体の古代のミイラから採取されたDNA試料の解析が行われ、古代エジプト人の遺伝的組成が明らかになったことを報告する論文が掲載される。
この論文の中で、Johannes Krauseたちの研究グループは、エジプト中部のアブシール・エル・メレク遺跡から出土した3体のミイラ(それぞれプトレミー時代以前、プトレミー時代、ローマ時代のものとされる)に由来するゲノムワイドのデータセットだけでなく、ミトコンドリアゲノム(90件)を新たに調べた結果を示している。
そこで分かったのは、古代エジプト人と近東人(西アジアと中東に居住する人々)との遺伝的類似性が高いということで、現代のエジプト人にみられるサハラ以南の人々の遺伝的要素は、最近加わったものであることも明らかになった。
ただ、この遺伝的データはエジプト中部の単一の遺跡から得られたものであり、同研究グループは古代エジプト全体を代表していない可能性があることを指摘している。

“差し押さえを心配” 直木三十五の生活ぶり示す手紙

“差し押さえを心配” 直木三十五の生活ぶり示す手紙

「直木賞」に名を残す作家、直木三十五(さんじゅうご、1891~1934年)の手紙が見つかった。大阪朝日新聞学芸部、白石記者に宛てた速達便で、新聞に連載した小説の原稿料や著作権が、借金のカタに差し押さえられることを心配する内容。
封筒の消印から昭和7(1932)年2月17日の日付が分かり、このころ人気はあったが、金遣いも並みはずれて荒かった大衆作家の暮らしぶりの一端がうかがえる資料だ。
文面は「小生の負債甚だ多く」と切り出し、「或(あるい)ハ著作権差押(さしおさ)へがまいるかもしれず」「もし稿料差押(さしおさ)へが行ったなら全額支払済みと云って下さるか」などと頼んでいる。

首飾りした人骨出土 群馬県渋川・金井下新田遺跡

首飾りした人骨出土 群馬県渋川・金井下新田遺跡

群馬県埋蔵文化財調査事業団は5月29日、古墳時代後期の金井下新田遺跡(渋川市金井)で、首飾りをした人骨が見つかったと発表した。古墳以外の遺跡で首飾りをした人骨が出土する例は極めて少なく、同県内では隣接する金井東裏遺跡に次いで2例目。
この人骨について専門家は、祭祀(さいし)行為に携わる地位の高い人物で、金井東裏遺跡で出土した甲(よろい)を身に着けた人骨と同族だった可能性がある-とみている。
人骨は5世紀後半と推定される竪穴建物跡で発見された。10代とみられ、性別は不明。歯と上腕、大腿部と推定される骨が残り、首の位置から勾玉(まがたま)あ管玉で構成される首飾りが出土した。
このほか、同事業団は地上に直接建築した「平地式建物」の炭化した屋根、鍛冶遺構とみられる建物跡などが見つかったことも明らかにした。

滋賀・甲良町で飛鳥~奈良時代の集落跡見つかる

滋賀・甲良町で飛鳥~奈良時代の集落跡見つかる

滋賀県甲良町在士の法養寺遺跡と横関遺跡で、飛鳥時代から奈良時代の集落跡が見つかった。建物跡や溝跡が発掘され、当時の生活様式を知る手がかりになるとみられる。甲良町教育委員会が明らかにした。
今回発掘された建物跡は奈良時代の竪穴住居2棟と掘立柱建物3棟。竪穴住居のうち1棟には建物を拡張した跡が残っていた。一方、溝跡は幅3~5㍍で深さ約1㍍。水源として利用されていたと考えられる。
このほか、複数の土器と銅銭「神功開寶(じんぐうかいほう)」1枚も見つかった。