「歴史くらぶ」カテゴリーアーカイブ

宮沢賢治が級友に宛てたはがきなど新資料11点見つかる

宮沢賢治が級友に宛てたはがきなど新資料11点見つかる

秀明大(千葉県八千代市)は9月24日、詩人で作家の宮沢賢治(1896~1963年)が学生時代の級友に宛てたはがき8枚など資料11点が新たに見つかったと発表した。真面目で堅いイメージに偏りがちな賢治の、明るくユーモラスな一面が分かる貴重な資料だ。生前、唯一出版された詩集「春と修羅」(1924年)の背表紙をブロンズに塗りつぶした珍しい本も含まれている。

いずれも同大の川島幸希学長が昨年、東京都内の古書店で入手した。書簡は盛岡高等農林学校(現・岩手大農学部)時代の同級生だった成瀬金太郎(1896~1994年)宛て。成瀬が卒業後に働いていたポナペ島(現ミクロネシア連邦ポンペイ)に送った18年4月18日付の手紙では、同封した絵はがきについて<ヌスムモノガアッタラ  ヒドイメニアワセテヤリマショウ>と冗談めかして書いている。

また、「春と修羅」の背表紙に、歌人で国文学者の尾山篤二郎が「詩集」と入れたことが賢治には心外で、知人宛てに「ほんの粗硬な心象スケッチ」「ブロンヅの粉で、その二字をごまかして消したのが沢山ある」などと書いたことが知られていた。

92年ぶり与謝蕪村 幻の名作「蜀桟道図」発見

92年ぶり与謝蕪村 幻の名作「蜀桟道図」発見

江戸時代中期の俳人で画家の与謝蕪村(1716~83年)が描いた水墨画「蜀桟道図(しょくさんどうず)」が92年ぶりに見つかった。鑑定した美術館「MIHO MUSEUM」(滋賀県甲賀市)が9月24日発表した。1992年に発刊された「蕪村画集」にモノクロ写真が掲載されて以降、所在が分からなくなり、「幻の名作」と言われていた。作品は長さ167.5㌢、幅98.9㌢。中国四川省北部に通じる険しい山や渓谷に造られた「蜀桟道」を旅人が行き交う様子や墨や岩絵の具で絹地に描かれ、蕪村が晩年に用いた雅号「謝寅(しゃいん)」という署名もある。

 

最古級平仮名は古今和歌集の「幾世しも…」新説発表

最古級平仮名は古今和歌集の「幾世しも…」新説発表

仏教大学の南條佳代講師は9月22日までに、日本の最古級平仮名は最初の勅撰和歌集『古今和歌集』にある「幾世しも」の歌とする新説を、同大学の紀要に発表した。最古級平仮名は、平安京にあった貴族、藤原良相邸宅跡(京都市中京区)で2011年に出土した土器片(9世紀後半)に記されていた文字という。この土器片には約40字書かれているが、意味がよく分かっていなかった。当時、文字の練習に和歌を書いたとみられ、初期平仮名の姿を知る有力な史料になりそうだ。

南條講師が分析したのは、土師器(はじき)に記された平仮名。これまでの京都市埋蔵文化財研究所の記者会見資料などでは、中心部の文字は「いくよしみすらキれ

「雑賀衆・沙也可」を和歌山市の観光振興につなげたい

「雑賀衆・沙也可」を和歌山市の観光振興につなげたい

紀州の異能の”鉄砲集団”として日本史(戦国時代)にその名を残す「雑賀衆(さいかしゅう)」。戦国時代、現在の和歌山市を拠点に勢力を張り、天下取りを目指していた織田信長軍らを相手に戦功を立てた。後に豊臣秀吉に滅ぼされたが、地元では頭領の雑賀孫市(まごいち)は今も市民に親しまれ、春と秋にはまちおこしの祭りが開かれている。この孫市の長男、孫市郎の足跡をたどり、和歌山市の有志らが観光振興につなげようと計画している。

それは、この孫市郎が秀吉の朝鮮出兵に鉄砲頭として従ったものの、投降し、そのまま居着いたとする説がある。韓国では「沙也可(さやか)」と呼ばれていた。子孫と呼ばれる人たちが多く住む韓国・大邱(テグ)には2012年、沙也可の足跡や日韓の文化を紹介する韓日友好館がオープン、2階には「和歌山コーナー」も設けられた。

「雑賀衆・沙也可で街おこしの会」の辻健会長によると、沙也可が日本を語った文献は残っておらず、あくまでも説の一つにとどまる。しかし、辻さんはこれを和歌山市の観光振興につなげ、行く行くは当地での日韓首脳会談開催を夢見る。雑賀衆のルーツと末裔に友好促進の願いを託している。

豊臣秀長の郡山城の天守は5階 礎石群見つかる

豊臣秀長の郡山城の天守は5階?  礎石群見つかる

奈良県大和郡山市教育委員会は9月12日、豊臣秀吉の弟、秀長が城主だった郡山城(奈良県大和郡山市)の跡で、天守を支えた礎石群(16世紀末)が見つかったと発表した。店主は礎石の配置などから1階は南北約18㍍、東西約15㍍の5階建て程度に復元できるという。金箔が一部に残る瓦も、城内から初めて出土した。

豊臣政権期の築城で様相が明らかな城は少なく、同市文化財係でも城郭構造や築城技術の発展を考えるうえで重要–としている。郡山城の天守に関する史料はほとんどなく、築造年代も不明で、天守の存在を疑う説もあった。今回出土した瓦の形や製作技法、天守台上面に再建や修復の痕跡がないことから秀長らが居城とした16世紀末の築造と判断した。

西本願寺の文書に残る土方歳三ら新選組の日常・実像

西本願寺の文書に残る土方歳三ら新選組の日常・実像

浄土真宗本願寺派本山・西本願寺(京都市下京区)に残された幕末の文書から、新選組は西本願寺に駐屯した当時の様子を示す記録が見つかった。本願寺史料研究所が9月2日発表した。

新選組が駐屯を始めた直後、寺に多額の借金を願い出たり、隊士の待遇改善を副長の土方歳三自らが寺側に直談判したりするなど、組織維持に苦心したさまが浮かび上がる。研究所が当時の日記やメモ書きを精査。新選組に関する記述が14カ所で見つかった。

新選組は1865年(元治2年)3月、壬生寺周辺から西本願寺の北集会所に移り、2年余り駐屯。記録には駐屯を始めた11カ月後の3月2日に「金五百両也」「新選組ヨリ拝借願ニ付、今日御貸下ニ相成候事」との記述があり、寺が200両、残りを商人から工面していた。

平城京「光と灯りのアートフェスタ」天平の世を幻想的に

 

平城京「光と灯りのアートフェスタ」天平の世を幻想的に

奈良市の平城宮跡で、「平城京天平祭☆夏2014」が8月29日始まった。「光と灯りのアートフェスタ」をコンセプトに午後6時半~9時、かつての宮廷を幻想的に彩る。31日まで行われる。入場無料。広場をカップ入りのろうそく約1万個で照らす「燈花会」や電飾付き衣装を着て練り歩く「天平行列」のほか、朱雀門に極彩色のアートを投影するなど趣向を凝らす。

シルクロード沿いのアジアや中東の各国料理を屋台で販売する。会場は奈良時代、政治や国際交流の舞台として輝いた一帯。夏の最後の思い出に、歴史のロマンに暫し、浸ってみるのも一考か。

 

平城京跡で2度の大地震による液状化現象の痕跡

平城京跡で2度の大地震による液状化現象の痕跡

 奈良文化財研究所(奈良市)は8月22日、本庁舎建て替えに伴う発掘調査で、奈良時代以降に起きた2度の大地震による液状化現象の痕跡が見つかったと発表した。現場は平城京跡で平城宮の西側に隣接する一条南大路。大地震の詳細な発生時期は特定できていないが、痕跡は「震度5以上」の強い揺れがあったことを示しているという。

 特定された地層から1度目は8世紀以降、2度目は14世紀以降の地震と推測される。今後は、地層の堆積時期を検証し、地震発生時期の特定を目指す。

伊能忠敬の北海道図に新事実「間宮林蔵が測量」

伊能忠敬の北海道図に新事実「間宮林蔵が測量」

 江戸時代後期に伊能忠敬(1745~1818年)測量隊が作製した蝦夷地(現 北海道)国の完成版が、探検家・間宮林蔵(1780~1844年)が測量したデータを基に作られた可能性が高いことが8月18日、伊能忠敬研究会と関連団体「InoPediaをつくる会」の調査で分かった。

 伊能は1800年に道南の松前から東海岸の厚岸あたりまでを測量、第1次測量図を作製したが、没するまで道内の他地域は未踏だった。このため、北海道全体を詳細に描いた完成版は、伊能の測量と弟子で同地を長期間調査した間宮の測量を合わせて作製したと考えられてきた。

 しかし今回、国立公文書館・内閣文庫の第1次測量図と最終版の北海道図をコンピューターで重ね合わせたところ、双方の測量線がほぼ全域にわたってずれていることが分かった。このため、両会は間宮が、伊能が測量した地域を測量し直して完成版を作製したと結論付けた。

異例の和製ピラミッドに興奮、奈良・都塚古墳で説明会

異例の和製ピラミッドに興奮、奈良・都塚古墳で説明会

 古代の大豪族、蘇我氏の礎をつくった蘇我稲目(570年没)の墓との見方が出ている奈良県明日香村の都塚古墳(6世紀後半)で8月16日、市民向けの説明会が合った。午前中に考古学ファンら約1200人が詰めかけ、田んぼのあぜ道に長い列をつくった。

   都塚古墳は、同村教育委員会と関西大考古学研究室が調査し、墳丘が階段状に石積みされた、日本では例のないピラミッド型と判明。一辺約40㍍と当時の天皇陵にも匹敵する大型方噴だったことも分かった。

  この古墳の被葬者として蘇我稲目が有力視されるのは、子の蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(7世紀前半)が、この都塚古墳からわずか約400㍍しか離れていない地にあるからだ。この一帯は当時、蘇我氏のいわば本拠地だったとされる。