「歴史くらぶ」カテゴリーアーカイブ

「氷点」執筆の舞台裏 三浦綾子さんの夫が日記公開へ

「氷点」執筆の舞台裏 三浦綾子さんの夫が日記公開へ
 作家の三浦綾子さん(1921~99年)が代表作「氷点」を執筆する様子を、夫の光世さん(89)が記録した日記が4月下旬から、北海道旭川市にある三浦綾子記念文学館で初めて公開される。日記の一部は4月21日付発売の三浦綾子さんのエッセー集「ごめんなさいといえる」(小学館)にも収録される。氷点の題名を光世さんが発案し、綾子さんが「素晴らしい題です。さすがはあなたです」と褒めるエピソードや、綾子さんが風邪を押して執筆に取り組む様子が温かい視線で綴られている。

 

「天空の城」竹田城跡の石垣修復 現代の名工が指揮

「天空の城」竹田城跡の石垣修復 現代の名工が指揮
 雲海に包まれる姿が「天空の城」と人気の国史跡・竹田城跡(兵庫県朝来市)で石垣の修復がほぼ終了した。現場で指揮を執ったのは「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる戦国時代から続く石工集団の流れを受け継ぎ、「現代の名工」のも選ばれた粟田純司さん(73)だ。穴太衆は比叡山延暦寺の門前町、大津市坂本付近に住んでいた石工集団で、織田信長の安土城をはじめ全国の城郭の工事に携わったとされる。
 粟田さんはこの石工集団の技術を代々受け継ぐ家に生まれ、石積みの技術者で人間国宝だった父、万喜三さんから技を継承した。穴太衆積みは各地に残る城跡の8割以上に使われ、「築石(つみいし)」と呼ばれる表面に見える大きな石の裏側に、直径5㌢前後の「栗石(ぐりいし)」を敷き詰める。これによって、堅固な城郭ができ上がるというわけだ。

「天正遣欧少年使節」伊東マンショの肖像画発見

「天正遣欧少年使節」伊東マンショの肖像画発見
 九州のキリシタン大名が16世紀後半にローマに派遣した「天正遣欧少年使節」を務めた伊東マンショのものとみられる肖像画が、イタリアで見つかった。調査にあたった北部ミラノのトリブルツィオ財団の担当者がこのほど、財団の学術誌に論文を発表した。肖像画は北部在住の同財団関係者が所有。絵の裏面には「Mansio」などと記されている。調査や鑑定の結果、1585年にマンショら遣欧使節が北部ベネチアを訪れた際、ルネサンス期のイタリア画家ティントレットの息子、ドメニコ・ティントレットが描いたものと判断した。
 肖像画のマンショは着物姿ではなく、スペイン風の衣装を着用している。天正遣欧使節は伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの少年4人で、日本でのキリスト教布教の支援を得るために派遣された。85年3月、当時のローマ法王グレゴリウス13世に謁見し、90年に帰国した。

ダチョウ似の新種の恐竜の化石 米6600万年前

ダチョウ似の新種の恐竜の化石 米6600万年前
 米カーネギー自然史博物館などの研究チームは3月20日、米中西部の約6600万年前(白亜紀末期)の地層から、ダチョウをひと回り大きくしたサイズの恐竜の化石が見つかり、新属新種に分類したと米科学誌プロスワンに発表した。化石はノースダコタ、サウスダコタ両州で計3体分見つかった。体長は3.5㍍、体重は200~300㌔あったと推定される。頭の上部が薄い円盤状になっており、異性などにアピールする飾りだった可能性がある。前脚には大きな鋭い爪があり、尾が長い。骨格化石しか見つかっていないが、近縁種には羽毛があることから、羽毛が生えていたとみられる。これまで中国やモンゴルで化石が見つかっている「オビラプトル」類に近いという。
 ダチョウのような飛べない鳥に似た姿だったとみられ、学名は古代メソポタミア神話の怪鳥「アンズー」にちなんで「アンズー・ワイリエイ」と名付けられた。

建仁寺の「蘭渓道隆坐像」の像内から鎌倉時代の彫刻

建仁寺の「蘭渓道隆坐像」の像内から鎌倉時代の彫刻
 東京国立博物館によると、京都市東山区の建仁寺塔頭(たっちゅう)の西来院が所蔵する江戸時代前期の彫刻「蘭渓道隆坐像」の像内から、鎌倉時代に作られたと推定される古い蘭渓道隆像の頭部の一部が見つかったことが分かった。同館によると、造像当初から建仁寺にあった可能性が高いとみられる。建仁寺は応仁の乱などで何度も火災に遭い、鎌倉時代から同寺にある彫刻は失われたと考えられていたという。
 今回見つかった頭部は頬がそげ、口角が上がっている顔の特徴が、蘭渓道隆の存命中に描かれた肖像画などに似ており、同館は鎌倉時代に作られた頭部と推定した。西来院の像は、同館で3月25日から開かれる特別展「栄西と建仁寺」で展示。頭部は像内にあり、取り出せないため写真パネルで紹介する。
 蘭渓道隆は南宋出身の渡来僧。神奈川県鎌倉市の建長寺の開山で、後に建仁寺の住職を務めた。建仁寺は、日本に臨済宗を広めた栄西が1202年に開いた京都最古の禅寺。

「東寺百合文書」記憶遺産に推薦 政府15年登録目指す

「東寺百合文書」記憶遺産に推薦 政府15年登録目指す
 政府は2015年の記憶遺産登録を目指し、京都市の東寺に伝わる国宝「東寺百合文書」の推薦書をユネスコに提出したことを明らかにした。東寺百合文書は、奈良から江戸時代にかけての約2万5000点に及ぶ寺院運営に関する古文書で、各時代の状況を伝える貴重な資料。足利義満の直筆や織田信長の「天下布武」の印が入った文書などを含む。1997年に国宝に指定された。

京都府南部11カ寺が「京都南山城古寺の会」立ち上げ

京都府南部11カ寺が「京都南山城古寺の会」立ち上げ
 京都の中心部と奈良の二大観光地の影に隠れがちな京都府南部の11カ寺が3月25日、仏像や建造物などを共同でPRするため「京都南山城(みなみやましろ)古寺の会」を立ち上げた。浄瑠璃寺、酬恩庵(一休寺)、海住山寺、観音寺、蟹満寺(かにまんじ)など6~13世紀に創建された古刹で構成。浄瑠璃寺の九体阿弥陀如来坐像など、約40件の国宝・重要文化財を抱えている。

高松塚壁画,古墳に戻さず 石室復元を事実上断念

高松塚壁画,古墳に戻さず 石室復元を事実上断念
 文化庁は3月27日、奈良県明日香村の高松塚古墳(国特別史跡)の壁画保存問題で、国宝の極彩色壁画について、2017年度までかかる見通しの修理が終了した後も、当分の間は墳丘に戻さず、古墳の外で保存・公開するとの方針を決めた。保存する場所や方法などは、4月以降に検討する。
 壁画は07年に石室を解体して搬出し、古墳近くで修理中。同庁は従来、かびなどの影響を受けない環境を確保して現地に戻す方針だったが、現在の科学技術では困難と判断。復元を事実上断念することになったもの。ただ、遺跡の現地保存の原則は堅持する考えを強調している。

没後450年 三好長慶の座像建立へ 脱「悪役」イメージ

没後450年 三好長慶の座像建立へ 脱「悪役」イメージ
 大阪府堺市のまちづくり団体「堺・ちくちく会」は戦国武将、三好長慶(1522~64年)の初の座像建立計画を進めている。没後450年にあたる今年7月にゆかりの南宗寺(堺市堺区)に建てたい意向だ。
 三好長慶は織田信長に先立ち、戦国時代に京都と大阪、四国東部の9カ国(阿波、讃岐、淡路、摂津、和泉、河内、丹波、山城、大和)を支配。一時は足利将軍家を京都から追放し、約15年間、実質的に中央政権を担った武将だ。連歌にも堪能で品格のあった人物だが、将軍を一時追放したことに加え、長慶の没後、後を継いだ三好一族らが、十三代将軍・足利義輝を殺害したことで、”下克上”の代表格とされ、「悪役」イメージがある。このため、堺・ちくちく会では、少しずつ長慶の悪役イメージを変えていきたいとしている。
 だが、没後450年を迎え長慶が統治した大阪(堺市、高槻市)、四国東部(徳島県)などで彼の事績、功績や人物像の見直し機運が高まっている。一般に戦国時代から既成秩序の破壊、否定などの面で織田信長がその代表と目されているが、実は信長に先んじて先見性のあったのが長慶と捉える見方が、いま大きく浮上している。
 長慶が初めて足利将軍家を擁立せずに、自分の力で京都、すなわち首都を支配。天皇も足利将軍家を通さず、長慶と相談し元号を変えている。堺の掌握にみられる都市・流通政策の重視やキリスト教の保護、茶の湯を含めて、信長が推進したことの原型を長慶がやっているのだ。

一茶が妻を気遣う手紙など新資料を公開 記念館

一茶が妻を気遣う手紙など新資料を公開 記念館
 長野県信濃町にある一茶記念館は3月19日、小林一茶(1763~1827年)が妻きくに宛てた手紙と俳句など計44点の新資料が貼られた折り本を報道陣に公開した。手紙は病弱な妻の体調を気遣い、具合が悪くなったときに備えて、自分の出先の連絡先を伝えている。一茶が江戸から故郷に戻り、信濃町を拠点に活動していた1817年か1820年のいずれかに書かれたとみられる。俳句の弟子を訪ねて回っていた一茶が長野市の善光寺から、信濃町柏原の自宅にいる妻に送った。
 折り本「柏原雅集」は信濃町の問屋、中村利貞が明治時代に作成し、新たに見つかった9句を含む俳句や、知人と詠んだ連歌が書かれた和紙を厚紙18㌻に貼り付けてある。見つかった資料は、一茶が33~65歳の作品で、年齢の変化による筆跡の変遷も分かる。