京都の夏を彩る祇園祭は7月16日夜、17日の「前祭(さきまつり)」の山鉾巡行を前に参加する23の山・鉾が勢揃い、この前夜祭にあたる宵山を迎え大勢の人波でにぎわった。この日は四条通と烏丸通、そして周辺の路地が午後6時から歩行者天国となり、豪華に飾り付けられた山や鉾が提灯の明かりで幻想的に照らし出される中、”コンチキチン”の祇園囃子が鳴り響いていた。この時期の京都盆地は35度以上の”猛暑日”となるのが通例。ところが、今年は雨や曇天続きで、全国各地と同様、日照時間が短く、その分気温の上昇も例年ほどではない。この日の京都も最高気温が32.2度と過ごしやすく、うちわを手にした浴衣姿の家族連れやカップルらが宵山を楽しんでいた。 前祭の山鉾巡行は17日午前9時から、「後祭(あとまつり)」の山鉾巡行は7月24日にそれぞれ行われる。
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熊野那智大社で勇壮な火祭り
40億年前に土星や天王星が大移動、隕石の分析で裏付け
茨城大学や東京大学などの研究グループは、カナダ西部に19年前に落下した隕石を分析し、隕石の由来を調べた結果、土星や天王星など太陽系の一部の惑星が、およそ40億年前に大きく移動したことが分かったと発表した。また、隕石は落下したコースから木星の内側にある小惑星帯からきたと推定されたものの、その成分には木星よりも外側の温度が低いところでできた特徴をもっていることから、この隕石は木星よりも外側でつくられた後、木星の内側の小惑星帯に大きく移動してきたと考えられるとしている。 太陽系ができる過程では、およそ40億年前に木星よりも外側の惑星(土星・天王星・海王星)は、それぞれの重力が影響しあって太陽から離れる方向に移動し、海王星は地球と太陽の距離の15倍にあたる22億km余、天王星はおよそ7億5,000万km外側に移動し、逆に小惑星の一部は木星よりも遠くから、木星の内側に移動したとの説があり、これを裏付け結果を得た。
7/13から「恐竜博2019」世界初公開の化石も、50年間の最新の成果を展示
東京・上野の国立科学博物館で、世界で初めて公開される貴重な恐竜の化石など、この50年間の最新の研究の成果を集めた「恐竜博2019」が7月13日から開かれている。10月14日まで。会場には100点余の恐竜の化石や標本などに加え、最新研究をもとにつくられた高精細な恐竜CG(コンピュータ・グラフィックス)映像などが展示されている。 このうち「デイノケイルス」という恐竜の頭と足の化石は世界で初めての公開。およそ40年間謎とされてきた全身の骨格が明らかになった。長い前足で幅の広いくちばしを持つ珍しいタイプの恐竜だったことが分かった。また、全身の骨格が見つかった恐竜としては国内最大の「むかわ竜」は、12歳程度の大人の恐竜だと分析された結果とともに展示されている。
はやぶさ2,2度目のリュウグウ着陸に成功 惑星内部の岩石採取
21万年前の人類の化石発見、人類は定説より早くアフリカ外へ進出
丸木舟で台湾~与那国島へ200kmの航海に成功、日本人のルーツ求めて
日本列島へ最初にたどり着いた日本人は、どのように黒潮を乗り越え、海を渡ってきたのか?日本人の祖先による3万年以上前の航海を実現する、国立科学博物館などのプロジェクトがつくった5人乗りの丸木舟が7月9日午前11時半すぎ沖縄・与那国島に到着した。7月7日午後2時半すぎ(日本時間)の台湾南部・台東県の海岸を出発してからおよそ45時間の航海だった。かいを漕いで、大きなカベだった速い潮流、黒潮を乗り越え、直線で約200kmの航海に成功した。3万年以上前を再現するため、時計や地図、コンパスを持たず、地形や星、月、太陽を手掛かりに進むのは容易なことではない。同プロジェクトでは、丈夫な草(植物)を束ねた舟や竹の筏(いかだ)での実験航海失敗の経験を踏まえ、今回、石斧を使い杉の大木からつくった丸木舟で、遂に黒潮を越えた。約3万年前には台湾は大陸と地続きだった。沖縄の島々への航海は祖先が日本に渡った主要なルートの一つとみられるが、遺跡から当時の舟は見つかっていない。
え
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丸木舟で与那国島目指し台湾出航、日本人の祖先の渡来検証へ
国立科学博物館は7月7日、約3万年前に日本人の祖先が大陸から日本に渡ってきた航海を再現するため、手漕ぎの丸木舟が台湾を出航したと発表した。日本列島西端の沖縄・与那国島を目指す。大陸からの渡来を検証するため、これまで植物や木製の船や筏(いかだ)など3万年前に入手可能だったと思われる材料で、再現実験が行われたが、いずれも無理と判断。今回は丸木舟でのトライとなった。 丸木舟は台湾南東部の台東県の海岸を出発。これまでの経験を踏まえ、体力強化のため練習を繰り返し、シーカヤックなどの経験豊富な漕ぎ手5人(男性4人、女性1人)が乗り込んでいる。与那国島までは直線距離で200km以上あり、夜通し漕いでも30~40時間かかる見通し。3万年前の航海術を再現するため、GPS(全地球測位システム)などは使用しないという。ただ、スタッフが乗り込んだ伴走船が並走する。
百舌鳥・古市古墳群 世界文化遺産に登録、23件目
ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は、アゼルバイジャンの首都バクーで会議を開き、日本時間の7月6日午後5時半すぎに、大阪府の「百舌鳥・古市(もずふるいち)古墳群」を新たに世界文化遺産として登録することを決めた。百舌鳥・古市古墳群は大阪府堺市、羽曳野市、藤井寺市にまたがる、4世紀後半から5世紀後半ごろに造られた、合わせて49基の古墳で構成される。この中には宮内庁が「仁徳天皇陵」として管理し、「大山古墳」とも呼ばれる国内最大の前方後円墳も含まれている。これらの古墳は、当時の高い築造技術を示しているほか、日本の古代国家の成り立ちを研究するうえで、貴重なものとされる。今回の登録によって日本の世界遺産は23件目で、文化遺産が19件、自然遺産が4件になる。大阪府の世界遺産の登録は今回が初めて。
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井伊直弼が側近や家臣に宛てた手紙18通を展示 心情綴るものも
江戸・幕末期、大老となり、14代将軍をめぐり南紀派と一橋派の対立時の一橋派への弾圧および最終決断や、「安政の大獄」の首謀者とも目される彦根藩主・井伊直弼が、側近や家臣などに宛てた貴重な手紙を集めた企画展が、滋賀県彦根市の彦根城博物館で開かれている。7月16日まで。今回展示されているのは、国の重要文化財に指定されている「彦根藩井伊家文書」などに残された、およそ300通の中から選ばれた自筆の手紙18通。後に側近となる国文学者、長野義言(主膳)に宛てた手紙は、長さ2mを超えた長文で初対面から3夜連続で語り合った喜びが綴られている。また、兄の直亮が急死し、思いがけず藩主の座に就くことになった際、当時江戸にいた 直弼が親しい家臣に送った手紙には「言語に絶する」「残念の至り」などの兄の死を悼む心情が記されている。このほか、病気の家臣を「養生が大事」などと気遣う手紙も残されている。 安政の大獄で、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎など数多くの英才を斬首した”鬼”のような印象の強い井伊直弼の、親しい間柄の人たちに宛てた手紙には心優しい、人間味あふれた側面も持ち合わせた人物像がうかがわれる。