「ジャワうなぎ」を日本へ スカブミ県の養殖場に熱い視線
インドネシア・西ジャワ州で養殖された「ジャワうなぎ」の日本輸出を目指すプロジェクトが着実に進行している。じゃかるた新聞によると、インダスト(熊本県玉名市)が西ジャワでウナギ養殖を始めて7年目。同国では数少ないウナギの養殖業者で、かば焼き加工までを手掛ける。2011年から供給開始し、日本食レストラン向けなど同国内に毎月3㌧程度出荷している。
西ジャワ州スカブミ県プラブハン・ラトゥ。総面積2㌶に、藻の発生を防ぐ遮光テントが一面に広がる。そんなインド洋沿いの閑静な港町にあるこの養殖場がいま注目を集めている。インドネシア全国から水産業者が手法を学びに訪れ、昨年11月にはシャリフ・チチップ・スタルジョ海洋水産相も視察したという。近年、ウナギ生産の大半を占める日本、中国、台湾などで一般的な食用ウナギ「ニホンウナギ」が激減。インドネシアが「世界で最後の稚魚市場」(中川勝也・インダスト社長)と目されるからだ。日本の農林水産省の統計によると、日本の漁獲量ベースで過去10年間にニホンウナギは5割以上減少した。そして、今年2月には環境省はニホンウナギを絶滅危惧種に指定し、保護に乗り出している。
インダストによると、世界で確認されているウナギの仲間18種のうち、7種が生息するインドネシア近海がウナギ発祥の地だと考えられており、稚魚は豊富だという。同社では、インドネシアで独自に進化を遂げた「アンギラ・ビカラー種」の味や大きさが、ニホンウナギ(ジャポニカ種)に近いことに注目。生け簀の設計や水質管理など日本式養殖技術を駆使、稚魚から成魚までの養殖に成功した。そして「ジャワうなぎ」という商品名を付け、現在日本への輸出に向け試行錯誤を続けている。すでに、日本のコンビニや流通業者からのオファーが入っている。
ただ、ニホンウナギと比べると、皮が少し厚く口に残るなど、日本人の口に合うウナギにはまだ課題があり、改良が必要だという。だが、「ジャワうなぎ」が日本の食卓に乗る日はそう遠いことではないようだ。
月別アーカイブ: 2013年4月
野中氏が海軍野球チームを指導 代表監督の再登板に意欲
野中氏が海軍野球チームを指導 代表監督の再登板に意欲
2007年から10年まで野球のインドネシア代表監督としてアジアカップで初優勝に導いた野中寿人氏が、今月から東ジャワ州スラバヤのリトルリーグチーム「VIO」と、海軍軍人チーム(1年契約)の指導を始めた。2015年の東南アジア選手権(SEAゲーム)シンガポール大会で代表監督の再登板を目指す考えを明らかにした。同氏によると、自身が運営するチームを除き、外国人がクラブチーム、軍隊チームを指導するのはそれぞれ初めて。
海軍チームでは素質のある選手を発掘・育成し、代表チームに送り出すことを目標にする。VIOではコンサルタントという立場で監督やコーチの育成にも力を入れているという。
東南アジアの野球選手をみると、インドネシアより強いフィリピンには軍隊出身が多い。パキスタン代表は全員が軍人だ。きちんとした指導者がいないのか、めちゃくちゃなフォームで150㌔の球を投げる選手もいるという。ところが、インドネシア代表に軍隊選手はゼロ。そこで、強化するには高い基礎体力を持つ軍人で選手を育てない手はない-と判断した野中氏。目標は代表監督に再登板し、07年は3位に終わった東南アジア選手権のシンガポール大会での”リベンジ”だ。
縄文人は調理? 土器の焦げ跡に魚を煮炊き跡
縄文人は普通に調理? 土器の焦げ跡に魚を煮炊きした跡
日本、英国などの研究チームは、北海道や福井県の遺跡から出土した1万1000~1万5000年前の縄文式土器の焦げ跡に、サケなどの魚を煮炊きしたとみられる脂質が含まれていることを見つけ、4月11日付の英科学誌ネイチャー電子版に発表した。料理に使われた世界最古の土器という。縄文土器は一般に食料の貯蔵などに使っていたとみられていたが、栄養価の高い魚類を料理していたことも示すもの。縄文人の暮らしぶりの一端を明らかにする成果。今回詳細に調べた鳥浜貝塚(福井県若狭町)、大正3遺跡(北海道帯広市)以外の遺跡でも、焦げ跡の炭素や窒素の同位体比から、ほとんどの土器は煮炊きに使われていたとみられる-としている。
出雲大社 「本殿遷座祭」大遷宮最終章へ
円山応挙”幻の虎”発見 大谷記念美術館
鑑真和上坐像の模像に彩色 天平の面影 再現
北大文書館で萩原朔太郎 農学志し 志願者名簿
北海道大文書館で萩原朔太郎が農学志した志願者名簿
北海道大文書館(札幌市)によると、過去の志願者名簿の中に前橋市出身の詩人、萩原朔太郎の名が見つかった。これは同館の職員が保管していた過去の志願者名簿などを調べていた際に偶然見つけたもので、資料は1907年の東北帝国大学農科大予科(現・北海道大)の志願者名簿。朔太郎の名前や出身中学などの記載があったという。名簿には入試を欠席したことを示す印も付けられていた。後年、都会や欧州を愛し、芸術活動を志した朔太郎が、旧制中学卒業後の進学先として、農学を志願していたことを示すもので、詩一筋ではなく、進路に悩む青春期の朔太郎の一面が表れている資料といえそうだ。