永井尚志 諸外国との通商交渉を担当し、旗本から異例の若年寄に栄進

永井尚志 諸外国との通商交渉を担当し、旗本から異例の若年寄に栄進

 永井尚志(ながいなおむね・ながいなおゆき)は江戸時代後期、三河奥殿藩主の晩年の子として生まれたため、家督はすでに養子に譲られていたことから、藩主にはなれず、旗本の養子に出された。しかし、幕臣として立身し、様々な要職を務め、旗本から異例の若年寄に栄進した人物だ。戊辰戦争では幕府軍が敗れることを予測していながら、潔く最後まで幕府に忠誠を尽して戦った忠臣として高く評価されている。生没年は1816(文化13)~1891年(明治24年)。

 永井尚志は三河国奥殿藩第五代藩主・松平主水正(もんどのしょう)乗尹の子として国許で生まれた。名は岩之丞、法号は介堂。後に玄蕃頭(げんばのかみ)を称した。父の晩年に生まれたため、家督はすでに養子の松平乗羨が相続していたことから、藩主の座に就くことはできなかった。江戸藩邸で養育されたが、1840年(安政元年)25歳のとき浜町に本邸を持つ2000石の旗本、永井能登守尚徳の養子となった。幕臣・永井尚志の誕生であり、新たな人生のスタートだった。

 永井は1847年(弘化4年)小姓組番士を皮切りに、御徒士頭を経て、1853年(嘉永6年)、目付として幕府から登用された。永井48歳のときのことだ。1854年(安政元年)には長崎伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍。1858年(安政5年)、それまでの功績を賞されて呼び戻され、岩瀬忠震(いわせただなり)とともに、外国奉行に任じられた。そして、ロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約に調印した。その功績で軍艦奉行に転進した。

 順調に出世街道を歩んだ永井だったが、ここで挫折を味わうことになる。徳川十三代将軍家定の後継争いで、永井は一橋慶喜(後の十五代将軍)を推す一橋派を支持したため、「安政の大獄」(1859年)の嵐の中、時の大老・井伊直弼の反感を買い、奉行職を罷免され、失脚したのだ。しかし、井伊直弼が「桜田門外の変」(1860年)で暗殺されると、幸運にも再び道が開かれる。永井は1862年(文久2年)、京都町奉行として復帰し、活躍の舞台を与えられる。1864年(元治元年)、禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮した。その結果、1867年(慶応3年)には旗本からは異例の若年寄まで出世した。

 大政奉還から戊辰戦争、そして明治維新に至る激動の時代は、幕臣・永井にとっては、“負け組”を覚悟しながらも、輝ける最後の時期でもあった。鳥羽・伏見の戦いの後には、十五代将軍慶喜に従って、大坂から軍艦で江戸へ逃げ戻り、その後の戊辰戦争では榎本武揚とともに蝦夷へ戦いの舞台を移している。彼は箱館奉行となり新政府軍と戦ったのだ。箱館・五稜郭での戦いに敗れて榎本らとともに自決しようとしたが、周囲に止められて、不本意ながら降伏した。明治維新後、1872年(明治5年)、新政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、1875年(明治8年)に元老院権大書記官に任じられた。

 永井は忠臣として評価されているのだが、政治的な立場からみると、決して開明派の人物ではなかったとの指摘がある。それは、第一次長州征伐の事態収拾でのことだ。そこで永井は後から交渉に関わったにもかかわらず、長州藩主・毛利敬親を捕縛しさらし者にすることを主張。交渉をまとめた征討総督の尾張藩・徳川慶勝らの面目を潰し、参謀の西郷隆盛に批判、論破されているのだ。こうした点を考え合わせると、彼は旧態依然とした幕府中心主義から最後まで脱し切れなかった守旧派の人物とみることもできる。 

(参考資料)司馬遼太郎「最後の将軍」、童門冬二「流浪する敗軍の将 桑名藩主松平定敬」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」