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『I f 』⑨「聖徳太子が蘇我馬子に敗れていなかったら」

『I f 』⑨「聖徳太子が蘇我馬子に敗れていなかったら」
 聖徳太子については様々な謎があります。突き詰めていえばその存在自体
が謎といわれます。実は聖徳太子という人物はいなかった-という説もある
のです。確実にいたのは厩戸皇子です。倭=日本という国を、対外的に決し
て野蛮な国ではなく、男性大王のもと、きちんとした治政がおこなわれてい
る国であることを対外的にPRするために、聡明で神がかり的な“聖徳太子
像”がつくられたようです。

蘇我馬子抜きに聖徳太子の事績は語れず
 聖徳太子には様々な事績や功績があったといわれています。太子は摂政と
して、「冠位十二階」制定(603年)や「十七条憲法」を制定(604年)し、
小野妹子を隋に派遣(607年、608年)し、隋との国交を開くなど華やかな活
躍をしたことになっています。しかし、その背後には蘇我馬子の強大な存在
がありました。当時の最高権力者、馬子の存在を抜きにして、聖徳太子を語
ることはできません。それが、どのようなことであれ、馬子の賛意もしくは
了解を得ずに進められたことはなかったはずです。
 しかし、ある時点で聖徳太子の「思い」と馬子の「思惑」にずれ、あるい
は隔たりができたとき、太子と馬子の間に対立が生まれたのです。聖徳太子
は仏教や道教を学んで、人間平等主義の思想を育てていきました。それとと
もに、仏教を政治の道具として利用する馬子に反発するようになっていきま
す。

聖徳太子の治政に立ちはだかった巨人・馬子
もともと馬子がどこまで仏教を理解していたかは疑問です。神祇権を持つ
物部氏に対抗するためと、大王家のカリスマ的権威を落とすために、仏教
を担ぎ出したまでで、敬虔な仏教徒だったとは思えません。馬子はリアル
な政治家、聖徳太子は理想主義的なロマンティスト。こんな二人が所詮、
合うはずがないのです。
その結果、太子の施政の、それまで確固とした庇護者だったはずの馬子
が、とてつもなく大きなカベとなって立ちはだかったのです。その時期は
恐らく、601年(推古9年)、聖徳太子が斑鳩に宮を建て、そこに遷った
ころからでしょう。太子は斑鳩宮にいってから、自分なりの政治や生活を
模索し、馬子と一線を画すようになり、自分は大王という意識を持ち始め
ていたのではないでしょうか。

馬子に敗れた聖徳太子、譲位の目消える
 608年(推古16年)、遣隋使・小野妹子の帰国と一緒にやってきた裴世清
(はいせいせい)が隋の皇帝・煬帝(ようだい)の使者として聖徳太子に
会います。このとき太子は倭王として応対するわけですが、裴世清は倭王は
聖徳太子だと完全に認識して帰っていきます。この後、610年(推古18年)、
新羅と任那の使者が来るのですが、このころから馬子は太子を警戒し、推古
女帝と手を組んで、太子から権力を奪い始めていくのです。

年少の太子が馬子の死後に照準を置いて治政に臨んでいたら…
もし、聖徳太子が蘇我馬子に敗れていなかったら、あるいは対等の関係を
保持できていたら、推古女帝から譲位を受け、太子は天皇になり(実は聖
徳太子は天皇になっていたという説もあるのですが)、太子一族の血脈を
その後も残していたかも知れません。対中国(隋・唐)を考えた場合、律
令のもとでは、女帝は考えられなかったわけですから。何事もなければ、
聖徳太子が皇位に就くのは自然な成り行きだったはずです。もちろん、
その場合、聖人君子的な太子像はもう少し薄れていたでしょうが。そうな
ると、太子は馬子より当然長生きし、その後の歴史はかなり変わったもの
になっていたのではないでしょうか。
 聖徳太子は622年(推古30年)に49歳で亡くなり、その4年後、蘇我馬子が
亡くなります。76歳ぐらいだったと思われます。ですから、聖徳太子と馬子
は20歳以上違うのです。太子が馬子の死後に照準を置いて、辛抱強く摂政と
して治政に臨んでいたら、太子自身、絶望することはなかったはずです。
惜しまれます。

『I f 』⑧「藤原秀衡がもう少し長生きしていたら」

『I f 』⑧「藤原秀衡がもう少し長生きしていたら」
 奥州藤原氏の全盛期を築いた藤原秀衡。その秀衡がもう少し長命だったら、
その後の様々な歴史が変わっていたでしょう。

秀衡健在なら「平泉王国」の栄華は続いていた
まず奥州藤原氏による「平泉王国」はまだまだ続いていたはずです。秀衡
が健在なら、慎重に事を運ぶ源頼朝が奥州藤原氏に戦を仕掛けることはな
かったでしょう。頼朝にとって奥州藤原氏を攻め滅ぼすことは重要な課題
でした、が、かなり高い確率で、頼朝は秀衡の死を待つ作戦にでたはずで
す。
なぜなら無理に仕掛けるとすれば、豊富な財力に裏打ちされた「奥六郡」
の軍事力と、軍略の天才、源義経の指揮の下に逆襲されたら、鎌倉頼朝軍
は簡単に攻め落とすことなどできません。長期戦になってしまうからです。
それに伴うダメージを考えるなら、秀衡の死後がポイントとみていたはず
です。
 また、秀衡が健在で藤原氏の栄華が続いている以上、秀衡に匿われていた
義経も健在で、近い将来の対鎌倉軍の戦のための訓練や準備に忙しい日々を
過ごしていたでしょう。秀衡の全面的なバックアップがあれば、義経は縦横
無尽な働きをみせるべく、準備していたことは間違いありません。そうなる
と、秀衡が存命な限り、鎌倉の世と一定の距離を取りながら「平泉王国」も
命脈を保ち続けたのではないでしょうか。

秀衡は義経を匿い通すことを遺言
 ところが、1187年(文治3年)その秀衡が死んでしまったのです。60代半
ばでした。そして、後を継いだのが初代清衡、二代基衡、三代秀衡に次ぐ四
代目の泰衡でした。33歳でした。秀衡は亡くなるに際し、義経を匿い通すこ
とを遺言したと思われます。そのことは、泰衡がしばらくの間、頼朝からの
義経引き渡し渡し要求を突っぱねていることによって分かります。

秀衡の死後、わずか2年で平泉王国は滅亡
 しかし、奥州藤原氏にとって秀衡の死は大きな痛手でした。単なる一人の
当主の死にとどまりませんでした。継いだのが33歳の当主なら普通、問題は
ないはずですが、家の“束ね役”はそれなりの人格と見識を必要とするもの
なのです。泰衡が家督を継いでから、奥州藤原氏の権勢は下り坂になり、わ
ずか2年後、義経を攻めて殺し、やがて「北方の王者」と呼ばれた「平泉王
国」が、坂道を転げ堕ちるように滅亡に追い込まれていくのです。

 

 

 

『I f 』⑦「田沼時代に異常気象と大飢饉がなかったら」

『I f 』⑦「田沼時代に異常気象と大飢饉がなかったら」
 田沼意次といえば、一般に賄賂をむさぼった悪徳政治家のイメージが強い
のですが、近年は彼が打ち出した、従前には見られなかった様々な政策が見
直され、評価が一新されつつあります。意次は、いわゆる由緒ある家柄の幕
閣・保守グループに足を引っ張られながらも、斬新な政策を次々に打ち出し
た開明派の政治家でした。

賄賂政治家から開明派の政治家に評価一新の田沼意次
田沼意次による政権運営がもうすこし続いていたら、江戸時代を通じて見
ても、もっとみるべき実績を挙げていたでしょう。少なくとも、時代遅れ
の松平定信による「寛政の改革」などよりは、客観的に見て経済政策面で
はるかに優れていたはずです。
その田沼意次が失脚した要因は、保守的な譜代大名たちの巻き返しによる
部分が大きかったのですが、この「田沼時代」、未曾有ともいえる飢饉や
異常気象が頻繁に起こったことが意次の足を引っ張ったのです。
 根本順吉氏の『歴史気象学の進展-“江戸小氷期”と飢饉』によると、江
戸時代は全体として寒い時代で、とくに寒い「小氷期」が3回あったといいま
す。この時期は冬の寒さが厳しく、夏も冷涼・多雨でした。そこで「田沼時
代」をみると、暴風雨・洪水・火山の噴火など、自然災害が相次いでいるこ
とに驚かされます。

未曾有の飢饉、異常気象に足を引っ張られた田沼政治
 例えば、意次が老中に就任した1772年(安永元年)、7月に九州で暴風雨、
8月上旬には東海から関東にかけて、やはり暴風雨と洪水、下旬には中国・
四国・近畿・東海各地を暴雨風と洪水が見舞っており、ちょうどその時期、
稲刈り間近で、せっかく実らせた稲が流されたり倒れたりして、農作物に甚
大な被害が出てしまったのです。元号の「明和」をやめて「安永」へ改元し
たくらいですから、被害の大きさは並みではなかったことが分かります。し
かも、前々年、前年は干ばつで、3年連続の不作になったのです。

相次ぐ火山の噴火、春に大雪、大地震、大飢饉頻発の不運
 しかも、どうしたわけか、「田沼時代」は、火山も活発な活動をしていま
す。1778年(安永7年)春と秋には、伊豆大島の三原山が噴火、この時期、
三宅島の雄山、浅間山、桜島なども噴火しているのです。こうした影響もあ
ってか、春の大雪など異常気象に見舞われています。1779年(安永8年)に
は4月に大雪が降っています。旧暦4月は現在の5月ですが、5月の大雪など
あまり例はありません。
さらにその年8月には、東海・関東から奥羽にかけての広い範囲に暴風雨
と大洪水の被害が起き、また大地震もあり、次から次に、まさに天災に狙
い撃ちにされたような状況でした。そして、決定的なものが1783年(天明
3年)の浅間山の大噴火です。この年も異常気象で、夏に綿入れを着なけ
ればならないほどの寒さだったといわれます。浅間山の噴火の火山灰が空
を覆い、冷夏に拍車をかけ、関東から奥羽にかけて大飢饉になりました。

保守グループの攻勢と息子・意知、後ろ盾・将軍家治の死で失脚
 こうした自然災害の場合、普通「あれは天災」と、為政者の責任にはしな
いものです。ところが、この意次の場合、常に保守グループが意次のあら探
しをし、「失政がないか」と虎視眈々とみており、天災をも意次のせいにし
ようとする動きがあったのです。
 さらにもう一つ、意次にとって不幸な事件が重なりました。1784年(天明
4年)、意次の子で若年寄になっていた意知(おきとも)が江戸城中で新番
士の佐野善左衛門政言(まさこと)に斬られ、それがもとで死んでしまった
のです。そして、意次にとって不運だったのは1786年(天明6年)、田沼政
治の後ろ楯だった十代将軍家治が亡くなったことだった。その結果、遂に保
守グループの攻勢に抗し切れなくなり、意次は政権の座から引きずり下ろさ
れてしまったのです。

陽の目見なかった田沼意次の斬新な政策
 このため、意次が打ち出した斬新な政策も、多くは陽の目を見ず頓挫、
実施・断行されないままに、葬られてしまいました。後は保守派の松平定信
などの全く新鮮味のない、場当たり的な政治に終始していきます。田沼意次
による政権運営が続いていたら、蝦夷地の開発はじめ、旧来の幕閣政治とは
一線を画した政治が具体化されたはずです。意次の挫折が惜しまれます。

 

『I f 』⑥「『奥の細道』が単なる紀行文でなかったら」

『I f 』⑥「『奥の細道』が単なる紀行文でなかったら」
 松尾芭蕉の有名な著作、『奥の細道』は優れた旅行文学の古典として今も
なお多くの人々に愛読されています。だが、この『奥の細道』には実は多く
の謎が隠されているのです。

同行した曾良の日記とは80カ所も日時と場所が異なる
 端的に言えば、芭蕉に同行した弟子・河合曾良(かわいそら)の日記との
食い違いが実に多いのです。曾良という人は几帳面な性格だったらしく、旅
をした場所と天候、それに日付を毎日欠かさず、初日からメモ風に書き残し
ていました。『奥の細道』が仮にフィクションだったとしても、曾良の日記
とは80カ所も日時と場所が異なっているのです。それは2日に1度の割合で違
いを見せています。こうなると、果たしてどちらが本当の行動だったのか、
首をひねらざるを得ない。

芭蕉には史跡を巡るほかに、別の目的があった
 曾良は師匠・芭蕉に同行していたはずなのに、日記と比較してみると、互
いに別々の宿に泊っていたり、会った人の名前や場所が違うなど、常に二人
が一緒ではなかったことが明らかになります。芭蕉は何か別の目的があっ
て、この旅に出て、弟子とは別行動を取る必要があったと考えれば、この食
い違いは納得がいきます。
 つまり『奥の細道』は、芭蕉と弟子の曾良が2日に1度ぐらいの割合で会い
ながらも、芭蕉が史跡を巡る旅をして句を詠むほかに、ある意味で、芭蕉は
重要な別の目的を持って旅をしていたことを裏付ける旅行記でもあった、と
見た方が自然です。したがって、『奥の細道』の日付・内容など事実とは明
らかに違う、加工が施されている部分があるというわけです。
 例えば伊達藩の平泉のくだりです。『奥の細道』では中尊寺の経堂に安置
されている仏像を見たことになっているのですが、曾良はここで仏像を見る
ことができなかったと書いています。

旅のペースが緩急極端・不自然で不可解な旅程
 また、不思議なのは旅のペースです。何かを追いかけるように急いだり、
あるいは何かを待つように何日も同じ場所に逗留しています。曾良の日記に
基づいて検証すると、現在の埼玉県の春日部から、日光を目指して歩き、6
日後に東照宮を参拝しています。そして、一泊すると福島県にほど近い黒羽
まで3日間で歩くという強行軍で、そこで今度はなぜか13日間も逗留していま
す。旅の疲れが出たとも考えられますが、普通の旅ならいかにも不自然で
す。こうした不自然、あるいは不可解な旅程が続くのです。
 『奥の細道』では福島に入るときに数時間で42㌔㍍歩いたようにすらなっ
ています。こうなると、芭蕉は単なる45歳の俳人ではなく、忍者のような頑
健な体力の持ち主だったということになります。

俳聖・芭蕉、実は”諜報員”説さえ浮上
 まだあります。芭蕉は仙台の松島をぜひ見たいと楽しみにしていたはずな
のです。ところが、なぜかこの松島では一句も詠んでいません。松島は伊達
藩にあり、その行程をみると仙台から塩釜を通り、松島そして石巻へと抜け
るのですが、各地でそれぞれ一泊しかしていません。二人はまるで逃げるよ
うにして、旅の目的でもあった名勝地を通り過ぎているのです。その後、
芭蕉のペースはまた緩やかになりますから、不可解としか言いようがありま
せん。
 こうしたことを考え合わせると、俳聖・芭蕉は実は諜報員だったのではな
いか、という説が浮上しても全く不思議ではありません。むしろ、そのよう
に考えた方がつじつまが合うようです。

 

『I f 』⑤「乙巳の変で蘇我入鹿が殺害されていなかったら」

『I f 』⑤「乙巳の変で蘇我入鹿が殺害されていなかったら」
 蘇我入鹿は周知の通り、皇極女帝の時代、「乙巳(いっし)の変」で暗殺
され、それが大化の改新の口火となります。そして、蘇我本宗家が滅びます。
しかし、もしここで蘇我入鹿が殺害されず、この難を逃れていたら、彼は最
終的に大王位の禅譲を受けていたかも知れません。

学識者で大陸の情勢にも明るかった入鹿
 蘇我入鹿は開明的な人物で、学識も備えていました。遣隋使として中国に
渡り、隋・唐と24年間にわたって留学していた僧・旻(みん)は帰国後、学
問所、講堂を開いています。その講堂に入鹿も中大兄皇子、中臣鎌足も通っ
ています。その僧・旻が「わが講堂に入る者で、宗我(蘇我)大郎(=そが
のたいろう)より優れた者はいない」と伝えています。

入鹿は禅譲制で大王位に就くことを考えていた?
 通説では、入鹿は大王になることまでは考えていなかったといわれている
のですが、彼は相当な学識者で大陸の政治情勢や文化に明るい人物でした。
ですから、蘇我本宗家の権勢を永続させるためにも、大王位に就くことを考
えたはずです。
 入鹿が狙いとしたその方法が、中国帰りの学問僧たちによってもたらされ
た禅譲制という制度です。入鹿は、祖父・蘇我馬子の娘が舒明天皇の妃にな
って産んだ古人(ふるひと)大兄皇子を大王にして、その大王から位を禅譲
させるという方法を考えていたようです。実はこれは、隋・唐で行われた方
法なのです。

いくつもある、入鹿が大王位を意識していた傍証
 蘇我入鹿が大王位を意識していた傍証は実はいくつもあるのです。『日本
書紀』によると、入鹿の父・蝦夷が葛城の高宮で、中国の天子にのみ許され
る「八佾(やつら)の舞い」を行ったり、今来(いまき)に双墓をつくって、
これを「大陵・小陵」と呼ばせ、大きい方を自分の、小さい方を息子の入鹿
の墓と定めたとも書かれています。
それから、645年には甘橿(あまかし)丘に巨大な屋形を建て、蝦夷の家を
「上の宮門(みかど)」、入鹿の家を「谷(はざま)の宮門」と呼ばせ、
子供たちを王子(みこ)と呼ばせています。これらはすべて入鹿の発案で、
彼が父の蝦夷を説得して行ったことなのです。中国では禅譲の前に権力者
が皇帝と同じようなことをするのです。

最大の豪族の家に生まれたエリートの弱さが、野望を未達に終わらせた
 ここまで準備しながら、入鹿の野望はなぜ成就しなかったのでしょうか。
それは入鹿が最大の豪族の家柄に生まれたエリートで、人間の苦界を見ない
で育った点にあるのではないでしょうか。「乙巳の変」の主導者の一人、
中臣鎌足などは地を這うようにして育ち、そこからのし上がってきた人物で
す。そんな鎌足に比べると、やはり入鹿には性格の甘さが感じられます。
入鹿の野望(=大王位)を真っ先に見抜いたのは恐らくこの鎌足でしょう。

 

 

『If 』④「足利尊氏が鎌倉で幕府を開設していたら」

『If 』④「足利尊氏が鎌倉で幕府を開設していたら」
 足利尊氏が幕府を鎌倉に置いていたら、足利氏による幕府政治も随分、様
相の異なったものになっていたでしょう。

南朝勢力の帰趨を大きく左右した幕府設置場所
 まず後醍醐天皇率いる吉野の南朝勢力が勢いを盛り返していたのは間違い
ないところです。楠木正成や新田義貞など後醍醐天皇の軍事勢力がそれまで
とは違った攻勢にでることも十分考えられます。それに伴って、南朝方に付
く勢力も出てきていたはずです。
 ただ、それには、天皇親政のスローガン一点張りではなく、武家に対する
論功行賞も約束する姿勢を打ち出すことが必要だったでしょうが。
 九州で勢力を挽回した尊氏は1336年(建武3年、延元元年)4月、上洛行
動を開始し、5月、楠木正成を大将とする建武政府軍を湊川の戦いで破り、
6月には再び入京に成功。そして、重要なのはこのとき、尊氏が光明天皇を
擁立した点です。一方、吉野に逃れた後醍醐天皇も「自分こそが正統の天皇
である」と主張したため、ここに北朝と南朝の二つが並立する60年にわたる
南北朝の争乱が始まることになったのです。

尊氏は「鎌倉」か「京都」か、幕府開設場所を諮問
 尊氏は1338年(暦応元年、延元3年)8月に待望の征夷大将軍に任命され
ました。将軍になれば、当然、幕府をどこに置くかという問題が、にわかに
クローズアップされることになりました。候補として挙げられたのは鎌倉と
京都です。源頼朝以来の武家政権の伝統から考えると、鎌倉ということにな
るでしょう。それが、京都に決められたのはどうしてなのでしょう。
 この問題を考えていくうえでヒントになるのが、1336年11月7日に制定され
た「建武式目」です。これは全文17カ条からなる尊氏による成文化した施政
方針というべきものですが、その冒頭に、幕府をそれまで通り鎌倉に置いた
方がいいか、他所(京都)に置いた方がいいか諮問した一文があります。
尊氏関係者の間でも意見が分かれていたことが分かります。上層武士たちの
多くは、鎌倉にそれぞれの屋敷を持っていたため鎌倉に幕府を置くことを主
張したでしょう。尊氏の弟・直義(ただよし)は「建武の新政」のときも
鎌倉の守りについていたので、鎌倉を主張したのではないでしょうか。

南朝勢力を牽制するため尊氏が「京都」に決断
 ところが、鎌倉主流と思われた情勢の中で、尊氏本人は鎌倉より京都の方
がよいと考えていたようです。一つは軍事的に、幕府を鎌倉に置くと、吉野
にいる南朝勢力が勢いを盛り返してくる可能性があるためです。吉野の動き
を牽制するためには、幕府は京都に置かなければならないという論法です。
そしていま一つは政治的な理由で、「国家行政権を握るには、国家の中央に
位置する必要がある」という考え方です。鎌倉にいて朝廷をリモートコント
ロールするのは大変です。それで京都に幕府を置いて直接的にコントロール
しようとしたのではないでしょうか。

鎌倉に幕府を置いていたら南朝の御所奪還の動きは強くなっていた
 もし、尊氏が周囲の意見に押されて鎌倉に幕府を置いていたら、後醍醐天
皇の配下の者たちが暗躍し、その京・御所奪還への動きは活発になっていた
でしょう。後醍醐天皇はかなり自己中心的な人物だったという印象は強いの
ですが、よくいえば「強烈な個性でぐいぐい引っ張って行った」ということ
です。賢明な判断に基づいて京都に幕府を置いた尊氏が京にいたにもかかわ
らず、後醍醐天皇はあれだけ粘り強く戦い続けたのですから。

 

 

 

日本語能力検定 1、2級合格者33人に認定書を贈呈

日本語能力検定 1、2級合格者33人に認定書を贈呈
 インドネシア東ジャワ州のスラバヤ日本総領事館は3月26日、平成25年第2回日本語能力検定で1、2級の合格者33人を対象に、野村総領事出席のもと認定書の贈呈式を開いた。スラバヤの合格者は年々増加し、前年に比べ1級は8人、2級は3人それぞれ増えた。またスラバヤ会場で実施される試験の申込者は、2013年12月開催時には2000人を超えた。東ジャワ州の日本語学習者数は約14万人で、インドネシア国内で2番目に多い。じゃかるた新聞が報じた。

狩野山楽のふすま絵「四季耕作図」が大覚寺に帰郷

狩野山楽のふすま絵「四季耕作図」が大覚寺に帰郷
 桃山~江戸時代初期に活躍した絵師・狩野山楽の作とされるふすま絵「四季耕作図」(米ミネアポリス美術館所蔵)のデジタル複製が4月3日、京都市右京区の大覚寺に奉納され、報道陣に公開された。田植えや稲刈りなど農耕の風景が、繊細な筆遣いで四季ごとに4面ずつ計16面(1面縦約78~177㌢、横約84~92㌢)描かれている。
 NPO法人京都文化協会によると、四季耕作図は元々、大覚寺が所蔵しており、1755年に寺外の絵師に譲られた。その後、経緯は不明だが海を渡り、1980年ミネアポリス美術館が購入。複製ながら約260年ぶりに「帰郷」した。キヤノンと京都文化協会が「文化財未来継承プロジェクト」の一環として作製した。高精細デジタルカメラで撮影し、特殊な和紙に印刷、京都の職人がつくったふすまに仕上げた。

2013年度「天空の城」竹田城跡に50万人で過去最高に

2013年度「天空の城」竹田城跡に50万人で過去最高に
 兵庫県朝来市によると、「天空の城」として知られる国史跡・竹田城跡(兵庫県朝来市)を2013年度に訪れた観光客が、過去最高の50万7589人に上ったことが分かった。前年度は23万7638人で、入場者数は2倍以上となった。竹田城跡の入場者は05年度に約1万2000人を記録して以降、ほぼ増加を続けている。06年に「日本100名城」に選ばれたことで注目され、近年は映画のロケ地になったことや、雲海に包まれる姿がメディアで取り上げられ、爆発的な人気となった。

イタリアでゴーギャンの作品 44年ぶりに発見

イタリアでゴーギャンの作品 44年ぶりに発見
 英国放送協会(BBC)などによると、イタリア警察は4月2日、フランスの画家ゴーギャンとボナールの絵画を約44年ぶりにシチリア島で発見したと発表した。工場従業員が台所に約40年間、飾っていた。少なくとも計1060万ユーロ(約15億円)の価値があるという。
 絵画は1970年にロンドンの収集家の自宅から盗まれ、イタリアの列車内に放置された75年に行われた国鉄の落し物の競売で、イタリア自動車メーカーの従業員が当時、現在の貨幣価値で23ユーロ(約3000円)相当の金額で落札したという。絵画は従業員が退職してシチリア島に持ち出すまでは、イタリア北部トリノの自宅に掛けられていた。息子が他のゴーギャン作品に似ていることに気付き、専門家に相談。警察が盗品と確認した
 静物を描いたゴーギャンの絵画は1000万~3000万ユーロの価値があると推定されている。