月別アーカイブ: 2014年4月

お登勢 幕末、龍馬ら志士たちを保護した京都伏見・寺田屋の気丈な女将

お登勢 幕末、龍馬ら志士たちを保護した京都伏見・寺田屋の気丈な女将

 お登勢は京都伏見の船宿「寺田屋」の女将だ。坂本龍馬はこのお登勢と懇意で、寺田屋を定宿としていた。龍馬はお登勢について、姉の乙女宛ての手紙で「学問があり、侠骨(きょうこつ)を具(そな)えた気丈夫な女性」と表現し、龍馬は彼女のことを土佐風に「おかァー」と呼んだと伝えられている。それほど、龍馬にとってお登勢は近しい存在だった。後に龍馬の妻となったお龍が、この寺田屋で働くようになったのも、元をたどれば戦で焼け出され、家族とともに住まいを失い、働き場も失ったお龍の身の上を案じて、龍馬がお登勢に働けるように頼み込んだからだった。また、別にお龍はお登勢の養女だったとの説もある。

 お登勢は大津で旅館を経営していた大本重兵衛の次女として生まれた。お登勢の生没年は1829年ごろ(文政12年ごろ)~1877年(明治10年)。18歳のとき、京都伏見の「寺田屋」第6代目の主人、寺田屋伊助に嫁ぎ、一男二女をもうけた。だが、夫の伊助は放蕩者で、旅館の経営を顧ず、酒を飲みすぎ、それがもとで病に倒れ35歳の若さで亡くなった。そのため、寺田屋の経営は以後、彼女が取り仕切った。

 伏見の寺田屋が歴史上の事変の舞台となったことは二回ある。初めは1862年(文久2年)、薩摩藩の内紛、尊皇派藩士同士の鎮撫事件だ。これは薩摩藩主・島津忠義の父で当時の藩の事実上の指導者だった島津久光が●千の兵を率いて上洛するのに合わせて突出、藩論を倒幕へ舵を切らそうとする有馬新七らの説得に失敗したため、久光の指示で、大山綱良、奈良原繁ら、とくに剣術に優れた尊皇派藩士を、有馬らの集合場所であり、薩摩藩士の京の定宿でもあった寺田屋に差し向け、事態を鎮撫しようとした事件だ。この際、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直次郎ら6名が死亡、田中謙介、森山新五左衛門の2名が重傷を負った。

    二回目が「薩長同盟」を企図し、両藩の橋渡し役を演じた坂本龍馬捕縛ないし暗殺のため宿泊先の寺田屋を1866年(慶応2年)深夜、急襲したときだ。この「寺田屋事件」で、長州藩から派遣された龍馬の護衛役、三吉慎蔵とともに、伏見奉行・林肥後守配下の捕り方を迎え撃った龍馬は、死線をさ迷うほどの深傷を負った。だが、龍馬は幸運にもこの危難をくぐり抜けることができた。

    寺田屋を舞台にした、この悪夢のような災禍をお龍とともにつぶさに見ていたのが、女将のお登勢だった。薩摩藩からの救援隊の到着が遅れていたら、龍馬の人生はここでピリオドを打っていたかも知れない。とすれば、この後の大政奉還も、「世界の海援隊」もなかったのだ。桂小五郎の求めに応じて、龍馬が薩長連合の約定書=薩長同盟の裏書を書いたのは、彼が寺田屋で遭難し、九死に一生を得た直後のことだった。

 お登勢は人の世話をすることが大好きだった。龍馬をはじめ、幕府から睨まれていた尊皇攘夷派の志士たちを数多く保護した。このため、幕府から一時は危険人物と見なされ、入牢されそうになったこともある。気丈な名物女将だった。

(参考資料)宮地佐一郎「龍馬百話」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」

日豪が「みちびき」使った衛星システム協力で合意

日豪が「みちびき」使った衛星システム協力で合意

 オーストラリアを訪れている日本の新藤義孝総務相は4月29日、マクファーレン産業相と会談し、日本版GPSとも称される準天頂衛星「みちびき」を使ったICT(情報通信技術)システム活用に関する協力文書に調印した。2014年度中に共同研究開発拠点づくりなど具体的なプロジェクトを進めていく構え。新藤総務相は「両国が通信衛星分野で新しい時代をつくりたい」と期待感を示した。

 「みちびき」を使ったICTシステムの活用により、携帯電話が通じないエリアが多い広大なオーストラリアではとくに有用とされるほか、山火事や豪雨、台風などの際に近隣住民を効率的に誘導することや、畜産業分野での放牧牛を適切に管理することなどで有効活用が期待されている。NNAが報じた。

 

1日にレタス1万株 宮城にLEDで大規模植物工場

 植物工場開発のみらい(東京都千代田区)は宮城県に発光ダイオード(LED)照明を使った面積約1000平方㍍の植物工場を建設する。LED照明を採用した植物工場としては世界最大規模という。9月にも着工し、2014年3月までに栽培を始める。
 みやぎ復興パーク(宮城県多賀城市)内に建設する。1日にレタス1万株を生産できる。装置は1平方㍍当たり40万円程度。経済産業省が事業費の3分の2を補助する予定。大規模栽培の実績をつくり、装置の輸出にもつ
なげる考えだ。生産した野菜は地元スーパーで販売。年間3億円程度の売り上げを目指す。

新潟県でインドネシア人農業技術研修生受け入れ式

新潟県でインドネシア人農業技術研修生受け入れ式

 新潟県の農業技術を学ぶインドネシア人研修生の受け入れ式が4月28日、新潟県庁で行われた。研修生6人が受け入れ農家らと顔合わせ、研修への意気込みや心構えを語った。11月まで農家にホームステイして、栽培技術や経営管理などを学ぶ。新潟日報が報じた。

 同県の研修は1983年に始まり、新潟県国際農業交流協会(新潟県中央区)と県が協力して東南アジア諸国連合(ASEAN)の青年を毎年受け入れている。今回は20代の男性6人で、インドネシアの参加者は計153人となった。過去の参加者は帰国後、農業のリーダーとして活躍しているという。研修生たちは「コメと野菜を勉強したい」などと日本語で抱負を語っていた。

ジェトロがプノンペンで中小企業支援プラットフォーム

ジェトロがプノンペンで中小企業支援プラットフォーム

 日本貿易振興機構(ジェトロ)はカンボジアの首都プノンペンで4月27日、日本の中小企業の海外進出を効果的に支援するため、公的機関や金融機関などが連携する支援基盤「中小企業海外展開現地支援プラットフォーム」の発足式を開いた。2013年度にバンコク、ヤンゴン、ハノイ、ホーチミン、マニラ、ジャカルタ、ムンバイ、チェンナイなど8カ国10カ所に設置したのに続いて、14年度はプノンペン、ダッカをはじめ7カ所を追加する予定で、プノンペンが第1号となる。発足式では石毛博行・ジェトロ理事長、茂木敏充・経済産業相らがテープカットした。

富岡製糸場 国内18件目の世界遺産へ 6月に正式決定

富岡製糸場 国内18件目の世界遺産へ 6月に正式決定

 日本が世界文化遺産に推薦していた「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県富岡市など)について文化庁は4月26日、世界遺産への登録の可否を調査する「国際記念物遺跡会議(イコモス・本部パリ)が「登録が妥当」と国連教育科学文化機関(ユネスコ)に勧告したと発表した。6月にカタールの首都ドーハで開かれる第38回ユネスコ世界遺産委員会で正式決定する。

 「富岡製糸場」が正式に登録されれば、日本の世界文化遺産は2013年の「富士山」に次いで14件目。世界自然遺産も含めた世界遺産では国内18件目となる。近代産業遺産では国内初。富岡製糸場は政府がつくった日本初の官営製糸工場で、1872年(明治5年)に開業、その後、民間に払い下げられ、1987年まで稼働した。

 富岡製糸場と絹産業遺産群は富岡製糸場を中心に、半径40㌔以内にある養蚕関連施設の、近代養蚕農家の原形「田島弥平旧宅」(伊勢崎市)、国内標準の養蚕法を確立した「高山社(たかやましゃ)跡」(藤岡市)、冷風を利用した蚕の卵の貯蔵施設「荒船風穴(あらふねふうけつ)」(下仁田町)の計4施設で構成。

姫路城3年半ぶり雄姿「大修理」終え囲い外れる

姫路城3年半ぶり雄姿「大修理」終え囲い外れる

 世界遺産・国宝姫路城(兵庫県姫路市)の大天守最上層が、改装工事のための囲いが外され、約3年半ぶりに姿を現した。別名「白鷺城」とも呼ばれる白い外壁が、生まれ変わった美しい姿を見せた。市によると、2009年10月から「平成の大修理」に着工し、13年11月に終了。現在は囲いを解体する作業を進めている。8月ごろには大天守全体がほぼ見えるようになる見通し。内部の公開は15年3月27日から。

石川県白山市でワニに似た爬虫類の化石発見

石川県白山市でワニに似た爬虫類の化石発見

 石川県白山市教育委員会は4月24日、白亜紀前期にあたる約1億3000万年前の市内の地層から、ワニのような姿をした爬虫類「ネオコリストデラ類」の口先部分の化石3点が見つかったと発表した。調査団によると、ネオコリストデラ類の化石の発見は国内初で、世界では7例目。2002年と10年に、石川や岐阜など4県にまたがる「手取層群」と呼ばれる地層で発掘した。3つの化石は上顎や下顎に当たる部分で、長さ18~50㍉、幅約10㍉、厚さ5~20㍉。歯並びの特徴などから体長1~2㍍のネオコリストデラ類と考えられるという。

シェークスピア生誕450年 英の故郷で祝賀祭

シェークスピア生誕450年 英の故郷で祝賀祭

 英国の劇作家、ウィリアム・シェークスピアが4月23日、生誕450周年を迎えた。故郷のストラトフォード・アポン・エイボンでは同日夜、祝賀の花火が打ち上げられ、週末には町を挙げて祝賀祭が盛大に開かれる。「ハムレット」「マクベス」など数々の名作を残したシェークスピアは1564年生まれ。正確な日は不明だが、伝統的に洗礼の数日前にあたる4月23日が誕生日とされる。

 

知恩院「御影堂」天蓋は寛永年間の作 繊細な文様で特定

知恩院「御影堂」天蓋は寛永年間の作 繊細な文様で特定

 修理事業関係者によると、約100年ぶりに大規模修理されている浄土宗総本山知恩院(京都市東山区)の国宝「御影堂」の内陣天井を飾る天蓋が、彫金技術などから、御影堂が再建された寛永年間(1624~44年)の製作と判明した。天蓋は本体が約3㍍四方、高さ約1.5㍍。木製で、メッキと彫金が施された銅板で装飾されている。

 銅版に施された文様の繊細さや、文様の間に細かな円を浮き立たせる技術「七魚子(ななこ)」の精緻さ、再建時の作とされる厨子(ずし)「宮殿」の金工とも様式が似ていることから、寛永年間の製作と特定した。御影堂は1604年に建立、焼失を経て、39年に再建された。