月別アーカイブ: 2014年5月

皇帝ネロ 治世当初“名君”も、母・妻殺害の暴挙で暗転

皇帝ネロ 治世当初“名君”も、母・妻殺害の暴挙で暗転

 王制、帝政、そして日本の武家社会などを含め統治形態は異なっても、トップの後継争いは常に血みどろの争いが付き物だ。古代ローマ帝国の場合も全く例外ではない。強い母の導きと画策で帝位に就いた第5代皇帝ネロは、キリスト教徒を迫害し、後世“暴君”の代名詞とされたが、果たして、等身大の皇帝ネロの姿はどうだったのだろうか。

 皇帝ネロは小アグリッピナ(母)と、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(父)の息子として生まれた。母は初代皇帝アウグストゥスの孫、大アグリッピナとゲルマニクスの娘だった。ネロの生没年は37~68年。皇帝在位は54~68年。生まれたときの名前はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス。

 40年、ネロが3歳のとき父グナエウスが死去。その翌年にカリグラが帝位に就くが、まもなくカリグラによって母が追放された。そのため、ネロは叔母に育てられた。しかし、その3年後カリグラが暗殺され、伯父のクラディウスが擁立され第4代ローマ皇帝になると、彼によって母はローマに戻ることを許された。この時点では初代皇帝の孫、ネロの母もようやくローマ市民に戻ったにすぎなかった。

 第4代皇帝クラディウスはメッサリナを妃として迎えており、すでに後継者ブリタンニクスがいた。ところが、メッサリナは48年に不義の咎で殺害され、幸運にも後妻としてネロの母がクラディウスと結婚、皇妃となったのだ。まさに人生の歯車がうまく回転し始めたわけだ。そして、その母の采配でブリタンニクスは徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになる。そこで、年少のブリタンニクスよりも後継者にふさわしいとみられるようになり、ネロをブリタンニクスよりも先に王位に就ける確約を得た。

  ここまできたら、あとは待っていればいいようなものだが、権力志向の強いネロの母は動きをみせる。54年、信じがたいことだが、その母が第4代皇帝クラディウスを暗殺してしまう。クラディウスが死ぬとネロが第5代皇帝に即位し、1年も経たないうちに、今度はネロがブリタンニクスを毒殺したのだ。

 ところで、暴君の代名詞のようにいわれる皇帝ネロだが、治世初期は予想外に、“名君”の評判もあったほど良かった。それは家庭教師で哲学者セネカと親衛隊長官セクトゥス・アフラニウス・ブッルスの補佐によるものだ。しかし、そのメッキは徐々に、そして確実に剥がれていく。ネロはまず59年に母を殺害する。これは公私にわたり強引に干渉してくる母が疎ましくなったためだった。また、62年には妻オクタヴィアを、姦通罪(冤罪)を理由に殺害してしまう。そして、人妻だったポッペア・サビナと強引に結婚するのだ。無茶苦茶としかいいようがない。

   62年に側近の一人、親衛隊長官ブッルスが急死。この頃からもう一人の側近セネカも遠ざけられて、ネロの統治は破綻していく。64年にローマで大火が発生するが、人々はネロが自分の宮殿を建てるために、街に放火したと噂したという。真偽のほどは分からないが、そこでネロは、こうした噂を打ち消すべくキリスト教徒に罪を着せて、迫害する挙に出る。恐らくネロのこうしたやり方に、側近だったセネカが強く苦言を呈して諌めたためだろう。65年にはそのセネカが自殺させられているのだ。

 あとは坂道を転げ落ちるように、皇帝ネロの治世は暗転していく。68年にタラコンネシス属州の総督ガルバらによる反乱が起こり、各地の属州総督がこれに同調。遂には元老院から、ネロは“国家の敵”とされてしまう。ここまできてはさすがのネロもなすすべなく、同年自ら命を絶ち、30年の生涯を閉じた。

(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

ヒトラー 政権掌握後「指導者原理」唱えて民主主義を排除し“暴走”

ヒトラー 政権掌握後「指導者原理」唱えて民主主義を排除し“暴走”

 「ナチのファシストで独裁者」アドルフ・ヒトラーは第二次世界大戦を引き起こし、ヨーロッパ全土を恐怖に陥れた「狂信的殺人鬼」とも称された。そんな巨悪なイメージとは別に、青年時代のヒトラーは純粋な芸術に取り組む小人物だったという。それが、どうして、どこで、数多くの“虐殺”を行っても動じない“独裁者”に変わったのか。

 アドルフ・ヒトラーは、ドイツとの国境近くのオーストリアの小さな町、ブラウナウで税関吏の子として生まれた。父アロイスは小学校しか出ていなかったが、税関上級事務官になった努力家だった。アドルフはアロイスの3番目の妻クララとの間に生まれた。名前のアドルフは「高貴な狼」という意味で、ヒトラーは後に偽名として「ヴォルフ」を名乗っている。認知した父の姓は「ヒドラー」だったが、「ヒトラー」と改姓。ヒトラーの生没年は1889~1945年。

 父アロイスは厳格で自分の教育方針に違反した行為をすると、情け容赦なく子供たちに鞭を振るった。少年時代のヒトラーは成績が悪く、2回の落第と転校を経験しており、リンツの実業学校の担任の所見では「非常な才能を持っているものの、直感に頼り努力が足りない」と評されている。歴史や美術など得意教科は熱心に取り組むが、数学、フランス語など苦手教科は徹底して怠ける性質だったという。

 ヒトラーは若くして両親を失い、ウィーンで画家になろうとして失敗し、同市の公営施設を常宿として絵を描いて売ったり、両親の遺産に頼ったりして生活した。その間に下層社会や大衆の心理について見聞、体験したことが、後に政治活動するうえで役立った。

 1913年、オーストリアで兵役につくことを嫌ってドイツのミュンヘンに逃れた。第一次世界大戦が始まるとドイツ軍に志願兵として入隊し、とくに伝令兵として功を立てて、一級鉄十字章を受けた。ドイツ革命(1918~19年)の後、ミュンヘンの軍隊内で軍人のための政治思想講習会に出席して、民族主義思想を固めた。

 ヒトラーは1919年、ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党、すなわちナチス)という国家主義と社会改良主義を結び付ける小党に入党した。そして、1921年に党首となった。1923年、ミュンヘン一揆を起こすが、失敗。それ以後、ワイマール共和制打倒・ベルサイユ条約打破・反ユダヤ主義を主張し、議会制民主主義の制度的枠組みの中で党勢を拡大していき1933年、首相に就任した。就任すると直ちに、ワイマール憲法に基づく緊急命令の発動や授権法の制定によって、権力基盤を固めた。そして翌年、大統領を兼ねて総統となった。

 政権掌握までの過程は民主的だった。しかし、政権掌握後に「指導者原理」を唱えて、民主主義を無責任な衆愚政治の元凶として退けたことが、その後の“暴走”を招いたわけだ。以後、ヒトラーは再軍備宣言(1935年)・ラインラント進駐(1936年)・スペイン内乱への介入(1936年)・ミュンヘン会談(1938年)と軍備を拡張する中で積極外交を展開した。そして1939年、ポーランド侵攻によって第二次世界大戦への勃発を招き、ヨーロッパを広範な戦禍に巻き込むとともに、ドイツを敗北に導いた。1944年には保守派がヒトラーの暗殺を含むクーデター計画を実行したが、失敗に終わった。ヒトラー自身はベルリン陥落寸前の1945年4月30日、ベルリンの首相官邸の地下壕で、前日、結婚式を挙げた17歳の花嫁、エヴァ・ブラウンと「心中」、ピストル自殺した。

 ヒトラーの思想は『わが闘争』の中に見い出される。アーリア人種が文化創造の主体であるという生物学的な人種理論を唱える一方で、「民主主義、議会主義、マルクス主義、拝金主義などがユダヤ人の世界支配の陰謀に基づく」という「反ユダヤ主義」を主張し、「民俗共同体」を人種的生存の核として位置付けた。

 秘密国家警察(ゲシュタポ)や強制収容所の存在が象徴するように、ヒトラー独裁の下では国民の自由は抑圧され、またユダヤ人が迫害された。だが、他方で失業問題の克服や社会的階層秩序の流動化、そしてなによりも外交上の成功によって、少なくとも1937~38年ごろまでのヒトラーが国民の相当程度の支持を得ていたことも見逃せない。

 

(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

 

カンボジアに「高田学校」PKOの犠牲者遺族らが建て替え

カンボジアに「高田学校」PKOの犠牲者遺族らが建て替え

 国連平和維持活動(PKO)に従事していた1993年、カンボジアで武装集団に殺害された岡山県警警視、高田晴行さん(当時33歳)の遺族が建て替え事業に取り組んできた現地(カンボジア・オッドーミアンチェイ州)の小学校舎が完成した。母の幸子さん(81)=岡山県倉敷市=と、姉の国府和子さん(59)=同県総社市=は5月4日の晴行さんの命日を前に、4月30日に現地で開かれた「TAKATA HARUYUKI SCHOOL」と命名された新校舎の贈呈式に参加した。

 高田さんはカンボジア北西部のタイ国境付近を移動中に銃撃された。現場近くの日本のNPOや地元住民が悲劇を忘れないようにと建てたとされる小学校があり、晴行さんの名前から「ハル学校」と呼ばれていた。2013年5月、老朽化が進む校舎の建て替え資金を集めようと、幸子さんと和子さんが東京のNPOと協力して基金を設立。5カ月で目標額の約800万円超が集まった。

 隙間だらけだった木造校舎が、新校舎の完成で三つの教室を持つ鉄筋レンガ造りへと生まれ変わり、約50人の子供たちはかつてのように雨漏りの心配なく、授業が受けられるようになった。毎日新聞が報じた。

 

大阪・中之島で「天下の台所」支えた土蔵跡4棟出土

大阪・中之島で「天下の台所」支えた土蔵跡4棟出土

 大阪市教育委員会と大阪市博物館協会大阪文化財研究所は5月2日、同市北区中之島の蔵屋敷跡発掘調査で、江戸時代の土蔵跡4棟分が見つかったと発表した。蔵屋敷内に少なくとも4棟の土蔵が所狭しと建ち並んでいたことが分かり、担当者は「大坂の繁栄を支えた蔵屋敷の構造の一例を知ることができた。『天下の台所』の具体的な姿を復元するうえで、重要な手掛かりになる」としている。

 江戸時代後期の19世紀の大坂・中之島には120ほどの蔵屋敷が建ち並んでいた。今回の調査は、中之島西部にある約2100平方㍍が対象。2014年1月に発掘調査を開始し、基礎に石積みを用いた建物跡が見つかった。石積みは3~4段ある堅牢な構造で、幅は8.2㍍、長さは34.7㍍。蔵1棟の床面積は約286平方㍍と想定できるという。                  

唐招提寺の金堂回廊は東西78㍍ 西面で遺構発見

唐招提寺の金堂回廊は東西78㍍ 西面で遺構発見

 奈良県立橿原考古学研究所は5月1日、奈良市の唐招提寺の金堂(国宝、奈良時代末ごろ)の西面回廊の遺構が初めて見つかり、回廊全体の東西規模が約78㍍だったと判明したと発表した。回廊は全周にわたり、中央を壁で仕切って内外の両側に廊下を設けた「複廊」だったとみられる。創建時の姿を探る貴重な手掛かりという。複廊は東大寺や興福寺などでみられる形式。唐招提寺は鑑真が創建した私寺だが、大規模な官寺と同様の構造と風格を持っていたことが分かった。

吉井勇の再婚を祝福、うらやむ斎藤茂吉のはがき

吉井勇の再婚を祝福、うらやむ斎藤茂吉のはがき
 歌人・斎藤茂吉(1882~1953年)が友人の歌人、吉井勇(1886~1960年)に送ったはがきが京都府立総合資料館(京都市左京区)で見つかった。再婚をうらやむ歌が記されており、吉井の研究者からは作風の違う2人の親交の深さが分かる資料として注目されている。資料館からは、1937年から戦後にかけて、茂吉から届いた24通が見つかった。2人の交友は知られていたが、やりとりが直接確認できる資料は未発見だった。
 不倫騒動を起こした妻と別れ、長く思いを寄せていた女性と再婚した吉井を祝福するはがきも。日中戦争の南京陥落よりも君の新生活が喜ばしいという意味の「勝鬨(かちどき)のうづもよけれど南なる君が家居もにくからなくに」との歌が記されている。消印の日付は37年12月20日。このころは茂吉の妻も不倫騒動を起こし、別居中の茂吉が愛人と温泉旅行に行った直後。斎藤茂吉記念館では「茂吉のこのころの複雑な心境がうかがえる。妻の不倫という共通の体験が仲を深めたのだろう」と話している。

政府がJAへの年間80億円の農協負担金の廃止検討

 政府が農業協同組合の改革案として、上部組織の全国農業協同組合中央会(JA全中)が約700の地域農協から負担金として年間約80億円の運営費を集める制度を廃止する検討に入った。各農協が手元に残る負担金を使い、農産物の販売強化や特産品の開発など地域の特性を生かした独自の経営に取り組むよう促す。
 政府は6月にまとめる農協改革案に盛り込みたい考え。今秋の臨時国会で農協法を改正し、JA全中の経営指導権や負担金などの規定の廃止を目指す。環太平洋経済連携協定(TPP)交渉の早期妥結を見据え、2013年のコメの生産調整(減反)廃止に続く農業強化策の柱として農協改革を進める方針だ。
 農協法改正後のJA全中は、経団連や全国銀行協会などと同様、一般社団法人となり、各農協などが会員費を払うかどうかを自由に判断できるようにすることが想定されている。

新潟県でインドネシア人農業技術研修生受け入れ式

 新潟県の農業技術を学ぶインドネシア人研修生の受け入れ式が4月28日、新潟県庁で行われた。研修生6人が受け入れ農家らと顔合わせ、研修への意気込みや心構えを語った。11月まで農家にホームステイして、栽培技術や経営管理などを学ぶ。新潟日報が報じた。
 同県の研修は1983年に始まり、新潟県国際農業交流協会(新潟県中央区)と県が協力して東南アジア諸国連合(ASEAN)の青年を毎年受け入れている。今回は20代の男性6人で、インドネシアの参加者は計153人となった。過去の参加者は帰国後、農業のリーダーとして活躍しているという。研修生たちは「コメと野菜を勉強したい」などと日本語で抱負を語っていた。

各地で伝統野菜復権へ様々な動き活発化

 時代とともに忘れられた伝統野菜を復権させようとする動きが活発になっている。青森県八戸市は絶滅の危機にあった「糠塚きゅうり」生産を後押しする取り組みを2月に開始。滋賀県大津市は生産者が減り、いまでは市場にほとんど出回ることがない「近江かぶ」を復活させる取り組みを始めた。山形県や長野県では需要拡大に向けて情報発信を強化する。        
 生産者の高齢化が進み、種存続への危機感が強まっているほか、独自の食文化を観光客誘致など地域おこしの起爆剤にしようとする狙いもある。 
 八戸市役所は糠塚きゅうりについて、「このままでは夏の風物詩が消える」と、生産を担う人材を公募。新たに8人のメンバーを集め生産伝承会を立ち上げた。純粋な種子を守り、培ってきた育てる技術を伝えることが狙いだ。大津市は2013年秋、市が自ら試験栽培用のビニールハウスを設置した。ただ、市が保有する種は別のカブなどと交雑しており、「本来の特徴が現れていない」。そのため、ハウス内で交配を繰り返し、種の純度を高めていくという。これによって、近江かぶを復活させ、大津市の農産物ブランドの目玉にしたいとしている。
 山形県は4月、全国の消費者に県の伝統野菜をPRしようと「食の至宝 雪国やまがた伝統野菜」との統一名称を決定。13年度は24件だった首都圏業者との取引成立件数を16年度には40件に増やす計画だ。
 熊本県は13年度からインターネット通販会社を産地に招き、テスト販売をしてもらう取り組みを始めた。鮮度が落ちやすくても消費者への直送でクリアできることがある。伝統野菜の新しい売り方を構築していきたいという。
 野沢菜など69種類の野菜を伝統野菜に選定している長野県は5月末をメドに、新たに「食」の情報発信や観光への活用法などを検討する協議会を設置する予定だ。        

東芝とサタケ DNAで2時間でコメの品種を識別

 東芝は大手精米機メーカーのサタケ(広島県東広島市)と組み、DMA検出技術を使って米粒から品種を特定する技術にメドをつけた。これにより最短2時間でコメの品種を識別でき、東芝はこの装置を商品化する。簡単な作業で産地やブランドが正しいことを証明できることから一般の精米工場の需要を見込む。2014年度中にも販売を始める。
 基盤の上にDNA分子を固定し、試料の中のDNAと結合するかどうかを調べる「DNAチップ」の技術を応用。精米した米粒を装置に入れるとすりつぶし、DNAを抽出・増幅して「コシヒカリ」や「あきたこまち」「ひとめぼれ」などの品種を識別する。
 13年に大規模なコメの産地偽装が発覚して消費者の目が厳しくなる中、産地や品種を立証するために専門機関に依頼する精米工場が増えている。だが、これでは結果が出るまでに通常で2~3日、繁忙期には1週間以上もかかる場合があり、精米後すぐに出荷したい業者にとってネックになっていた。